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第四十六話 火竜の換毛期と、焚き火の中のホットドッグ

 実りの秋を迎え、エルマの『絶対防衛結界』によって完全な安全圏となった俺の村――ログハウスの周囲には、今日ものんびりとした時間が流れていた。


 そんな引きこもり生活の中で、誰よりも自由で、誰よりも優雅で、そして一番甘やかされている住人がいる。


 村のアイドルにして、自動着火装置。そして番犬……いや、番竜。


 雪みたいに真っ白で、ふわふわの毛並み。

 見た目だけならスピッツ犬の子供のような見た目をした火竜の仔犬――ポテトである。


「ガウッ!」


 朝になると、ポテトは誰よりも早く目を覚ます。

 俺のベッド脇までやって来ると、ぶんぶん振った尻尾を床へ叩きつける。


 ばしん。

 ばしん。


 無言の圧だ。


『起きろ』


『飯だ』


『あと撫でろ』


 全部伝わってくる。


 こいつ、最近ますます意思表示がはっきりしてきたな。


「……お前、完全に人を起こす係になってるだろ」

「ガウ!」

「肯定すんな」


 重い体を起こしてキッチンへ立つと、ポテトは満足げに鼻を鳴らし、そのまま外へ駆け出す。

 向かう先は、かまどの前だ。

 そこで「自分は今から重要任務を遂行する」とでも言いたげにびしっと座り込み――


「ぶぇっくしょい!」


 小さな火球混じりのくしゃみで、薪へ見事に着火する。

 朝の仕事終了である。たぶん本人の中では、これが最大の責務なのだろう。火災予防安全協会が見たら泣いて表彰しそうな仕事ぶりだ。


 偉そうな顔で仕事を終えると、今度はロエンが育てた野菜の切れ端や、俺が通販で買った犬用ジャーキーをもりもり平らげる。

 完全に「仕事ができるので待遇が良い犬」だった。給料は飯、福利厚生は撫でられること、というブラックすれすれの社畜契約がここに成立している。


 日中は、ミリィと一緒に結界の内側をパトロール――という名のお散歩。

 落ち葉を追いかけ、虫を見つけては飛びつき、途中で疲れたら日当たりのいいタープの下で昼寝。

 ふわふわの白い毛玉が日差しの中でうずくまる様子は、どう見ても巨大な綿菓子だ。


 たまに風で毛先がほわっと揺れると、もはやそこに竜がいるという情報量がゼロになる。

 ガランが狩りから帰ってくれば、一番に駆け寄って獲物の肉のおこぼれをもらい、エルマのプレハブから時折聞こえる爆発音には「ビクッ」と耳を伏せて俺の足元へ避難してくる。


「……魔物の頂点に立つはずの竜種なんだよな、こいつ」

「ガウ?」

「いや、可愛いからいいけどさ」


 火竜――。


 名前だけ聞けば、溶岩を泳ぎ、山を焼き払い、王国の騎士団すら恐れさせる災厄の象徴みたいな響きである。

 だが、目の前のポテトはというと、肉を食って、昼寝して、撫でられて、爆発音にびびる、真っ白でふわふわの毛玉だ。


 完全に「甘やかされた飼い犬」のポジションを確立していた。


 たまに炎を吐くけど、だいたい犬だ。

 ――そんな平和なポテトの生活に、最近、少しだけ異変が起きていた。


「……おいポテト、何やってるんだ」


 ある日の昼前。俺がログハウスの窓から外を覗くと、ポテトが丸太の壁へ、自分の背中や脇腹をごしごしと激しくこすりつけていた。


「ガウゥゥゥ……ッ、グルルル……」


 喉の奥で低く唸りながら、壁の角へ背を押しつけ、今度は反対側の脇腹をぐいぐい押しつける。さらにガーデンハウスの柱へ移動し、そこでもごりごり。


 どう見ても「背中が痒くてどうしようもない犬」の動きだった。問題は、こすりつけるたびに、千切れた白い毛がふわふわと宙へ舞い散ることだ。


「うわっ、おい、待て待て!」


 舞い上がった毛玉が、風にあおられてかまどの方向へゆらゆらと流れていく。

 あの毛、めちゃくちゃ軽くて、めちゃくちゃ燃えやすそうなやつだ。


「ちょ、ストップストップ! 燃える燃える!」


 俺は慌てて外へ飛び出し、ポテトを壁から引き剥がした。


「ガウゥ~……」


 ポテトはものすごく不満そうな目で俺を見上げた。そして今度は短い後ろ足で、自分の首のあたりを一生懸命かき始める。

 しかし届いていない。切ない。でも可愛いとか言ってる場合じゃない。家が燃える。


「どうしたんだい、坊や。ポテトのやつ、朝からずっとそんな調子だよ」


 プレハブ小屋から出てきたガランが、不思議そうに腕を組んだ。その後ろからミリィもひょこっと顔を出す。


「ポテト、かゆいの?」

「ガウ……」

「かわいそう……」


「……換毛期だな」


 いつの間にか背後へ立っていたシルフィが、妙に落ち着いた声で言った。こういう時のこいつは、やたら博識で頼りになる。


「換毛期?」

「竜種は秋の終わりから冬にかけて、寒さに備えて毛皮の下へ脂肪を蓄え、薄い夏毛を落として、より厚く密度の高い冬毛へ生え変わる。その過程で、抜けかけた古い毛が皮膚にまとわりついて、強烈な痒みを生むのだ」

「へえ……犬や猫の毛が生え変わるのと同じってことか」

「もっと厄介だ。野生の竜は岩肌へ体をこすりつけて毛を落とすのが普通だが……」

「ここには都合よく岩山なんてない。あるのは俺の木造住宅だ」

「うむ」

「うむじゃないんだよなぁ」


 そこへ、畑からロエンも戻ってきた。話を聞くなり、腕を組んで渋い顔になる。


「……放っておけば、痒みによるストレスで暴れ出すかもしれん」

「うわ、やめてくれ」

「それに、抜け毛がそこら中へ舞って、畑の作物に絡みつくと厄介だ」

「そっちも大問題だな」

「畑は守らねばならん」

「知ってる。お前の価値基準はよく知ってる」

「にゃー……ポテト、かわいそう。かいてあげる」


 ミリィが小さな手でポテトの背中を撫でてやるが、もつれた毛はすでに硬く絡まっていて、子供の力ではどうにもならない。


 ポテトも「そこじゃない」「もっと強く」「でも痛いのはやだ」という、難しい顔をしていた。


 犬猫の痒いところ問題、火竜でも同じらしい。


「……なるほど」


 俺はにやりと笑った。


 要するにあれだ。強力な孫の手が要る。


 そして、犬猫の換毛期――あるいはグルーミング地獄――を乗り越えるための知恵なら、現代日本は異常に豊富である。


「検索ワード……『ペット用・高級グルーミングブラシ(小型犬・長毛種用)』、それと『シリコン製マッサージグローブ』。よし、購入ぽちっとな


 青白い魔法陣から、小さな段ボール箱が二つ現れた。


「なんだいそれは?」


 ガランが中を覗き込む。


「剣の柄みたいなものの先へ、細かい金属のピンがずらっと……武器かい?」

「いや、ブラシだ」

「ぶらし?」

「犬や猫の抜け毛を取り除く道具。ポテトの場合は、抜けかけた毛を安全に、しかも最高に気持ちよく取ってやるための魔法の道具だ」

「また坊やの世界、妙なところで本気だねぇ」

「ペット用品業界は深いんだよ。下手な武具屋よりラインナップが充実してる」


 俺は右手へスリッカーブラシを持ち、左手へぶつぶつ突起のついたシリコン製マッサージグローブをはめた。

 準備完了。文明、いざ参る。


「よしポテト、こっちに来い。極楽に連れていってやる」

「ガ、ガウ……?」


 ポテトは若干警戒していた。だが、痒みには勝てない。

 そろそろと近づいてきて、俺の足元へぴたりと寄る。


 まずは左手のシリコングローブで、首筋から背中へ向けて、ゆっくり、少し力を込めて撫で下ろす。


「……ゴロゴロゴロゴロ……」


 突然、ポテトの喉から猫みたいな音が鳴った。


「お、おお、鳴いた?」

「ぶっ!! なんだいその音!?」


 ガランが吹き出す。


「火竜が、火竜が喉を鳴らしてるよ!」

「適度な摩擦と突起が、痒いところへ入ったんだろ」

「あっ、ダメだ、ツボに入った。あたしもやりたい」


 結局、ガランにもマッサージを試させた。


「すごいねこれ! 武器がなくても火竜がイチコロじゃないか!」

「お前、戦闘装備としての可能性を見出すな」

「人類初の人間から竜へ、逆グルーミングだね……」


 気持ちよさそうに目を細めるポテトとガラン。完全に人と竜の間の、主従関係の構図だ。

 そこへミリィも加わりたがるので、当然シルフィも参加したがった。

 

「わたしも! わたしも撫でる係!」

「……むやみに毛が抜けるとなにかしら危険かもしれんな。森の平和を守るエルフとして、調査目的で私も触診しておこう」

「お前のそれ、調査って言葉使えば何やっても許されると思ってるだろ」

「思っていない。半分くらいは本当に気になっている」

「正直なのか悪質なのかわからん。せめて七割は調査にしてくれ」


 ロエンは、今回は何もしない側に回るようだ。


「お前は触らないのか」

「畑の仕事がまだ残っている」

「畑、今お前の目の前にないけどな」

「心はある」

「お前の心、いつもそこにあるな」

「だから戻る」


 短くそう言って、ロエンは踵を返した。

 ――が、その足はやけに重かった。


 ポテトの横を通り過ぎる瞬間、明らかに歩幅が半分くらいになり、伸びかけた手は行き場を失って一度握られ、結局またそっと下ろされる。

 誰も何も言わなかったが、全員その挙動だけは完璧に把握していた。

 最後にもう一度だけ、名残惜しそうにポテトの方を振り返ると、ロエンはそのまま、どこか不本意そうな顔で家から出ていった。


「わー、ポテトまったりしてるー。ぶんめいってこわーい」

「なんで竜種にそこまで効くのか、逆に気になるな」


 ミリィにシルフィまで若干引いていた。

 そんな、撫でる係だけが無限に増えていく謎の包囲網の中、ポテトはただひたすら気持ちよさそうに目を細めているだけだった。働いているのは俺の通販スキルとガランの腕力だけで、当の本人は今日も一番楽な仕事をしている。


「よし、ここからが本番だ」


 俺は右手のスリッカーブラシで、ポテトの背中の毛並みに沿って、サッ、サッ、と梳かしていく。

 細かい金属ピンが、もつれかけていた古い毛の隙間へ絶妙に入り込み、皮膚を傷つけないよう優しく刺激しながら、ふわふわと古い毛を掻き取っていった。


「ガウゥ……ァ…………」


 ポテトの目が、とろん、と半開きになった。


 そして次の瞬間。

 ぱたん。

 その場へ横倒しになった。


「えっ」

「わー倒れた!?」


 ミリィが目を丸くする。


「いや、気持ち良すぎて力が抜けたんだろこれ……」


 ポテトはそのまま手足をだらんと投げ出し、完全に全身の力が抜けたぬいぐるみみたいな状態になっていた。

 口も半開きだ。尻尾だけが、ときどきぴく、ぴくと動く。さっきまで岩山を求めて壁を削っていた猛者と同じ生物には見えない。


「……竜の伝承では、無防備な腹を見せるのは、相手を完全に天敵ではないと認めた時だけだとされている」


 シルフィが本で読んだ知識を辿るような、どこか乾いた声で呟く。視線だけはしっかりポテトの溶けた姿を追っていた。


「つまり、ポテトは今、お前を伝承上もっとも信頼している、ということになるな」

「いい話っぽく聞こえるけど、要は鉄の櫛に骨抜きにされてるだけだろ」


「だっははは! 見なよ、口が開けっ放しで涎が垂れてるよ!」


 ガランが腹を抱えて笑う。


「これ、絶対トムじいにも見せたほうがいいよ。火竜がこんな顔するって言っても、誰も信じないだろうから証拠が要る」

「お前、写真みたいな概念がない世界でどうやって証明するつもりだよ」

「絵に描けばいいじゃないか。あたしが描くよ、特大で」

「変な記録を残すのはやめてくれ」


「ポテト、とけてる! またやりたい!」

「よしミリィ、このグローブをつけて、お腹のあたりを撫でてやってくれ」

「うんっ!」


 ミリィがグローブをはめ、ポテトの柔らかい腹をわしゃわしゃとマッサージし始める。


「キュゥゥゥゥン……」

 

 火竜の威厳、完全消滅である。


 もはやそこにいるのは、ただ気持ちよさで昇天している、ふわふわの白い犬っころだった。

 種族:火竜、状態:無職、みたいな顔をしている。


「おいポテト、お前それでも竜か」

「ガウ……」

「今の返事に気概がないな」

「そっとしておいてやれ」


 ロエンが真面目な顔で言う。さっき「まだ畑の仕事がある」と言って出ていったくせに、いつの間にか一番近くまで来ていた。


「今は生物として最も幸福な時間だ」

「急に名言みたいなこと言うな。お前、結局戻って来てるじゃないか」

「畑の見回りの一環だ」

「ここ畑じゃないだろ」

「視界に入る範囲は管理対象だ」

「無理がある理屈だな……」


 俺が十五分ほどブラッシングを続けると、ブラシには驚くほど大量の、真っ白でふわふわの古い毛が絡みついていた。

 ぱっと見、小さな雲の欠片を集めたみたいで、妙に綺麗だ。


「ふう……これで古い毛はだいたい取れたな。よし。仕上げだな」


 俺は通販箱から、もう一本細長いボトルを取り出した。


「今度はなんだい?」

「犬用グルーミングスプレー。静電気を防いで毛並みを整えて、ブラッシングの仕上がりを良くするやつだ。保湿もできる」

「ぶらっしんぐだけじゃ終わらないのかい……」

「文明は最後まで手を抜かないんだよ。フルコースなんだ」


 シュッ、シュッ、と細かな霧をポテトの背中へ吹きかける。

 甘すぎない、清潔感のある優しいハーブの香りがふわりと広がった。


「ガウ?」


 ポテトは不思議そうに鼻をひくひくさせる。


「よし、そのまま動くな」


 もう一度、スリッカーブラシを優しく滑らせる。


 さらり。

 毛先が一本一本ほどけるように整い、陽の光を受けた白い毛並みが絹みたいな艶を帯びた。

 ふわっ、と毛が空気を含んで立ち上がる。


「お、おお……」


 思わず感嘆の声が漏れた。

 さっきまで十分ふわふわだったはずなのに、今はさらに一段階ボリュームが増している。

 雪玉というより、雲そのものだ。竜種図鑑に載せたら誤情報扱いされるレベルである。


「にゃあぁ……もふもふが、もっともふもふになった!」


 ミリィが目をきらきらさせる。


「なんだいこれ……毛が光って見えるじゃないか」


 ガランも思わず手を伸ばし、恐る恐る背中を撫でる。


「……っ!」


 その瞬間、何度も往復して撫で始めた。


「なんだこの手触り! 止まらないよ!」

「ガウゥゥゥ……♪」


 ポテトは喉を鳴らしながら、うっとりと目を細める。


「文明、恐るべしだな」


 シルフィが半ば呆れたように呟く。


「火竜が、艶出しまでされている……」

「ペット用品業界は伊達じゃない。むしろ魔導具より研究開発費かけてる気がする」


 俺がブラシから取り除いた毛の山をテーブルへ置くと、徹夜明けで寝起きのエルマがあくびをしながらプレハブから様子を見に来た。そして、丸眼鏡を限界まで輝かせた。


「こ、これは……! 純度100%の『火竜の産毛うぶげ』!!」

「そんなにすごいのか?」

「すごいどころではありません! 最高級の保温魔導具や、極寒地でも凍えない防寒着の素材になる超レアアイテムですよ! 市場に出せば、これだけで金貨数十枚は下りません!」

「えっ、そんなに?」

「はい! 職人や魔導士が喉から手を出してほしがるレベルです! しかも換毛で自然に抜けた毛は、採取の危険が少ないうえ魔力の損耗も少なく、保温性が安定していて……! ちなみにこの量だと、概算で金貨およそ三十二枚から三十六枚……いえ、市場の需給を考えるとさらに上振れする可能性も……」

「落ち着け。早口がすごいし、もう細かい査定始めてる」

「落ち着いていられますか! これ私の研究予算ですよ!?」

「お前の予算じゃないだろ」

「気持ちの上では私のです」


 俺はテーブルの上の毛の山を見下ろした。


 ブラッシング。

 気持ちいい。

 安全。

 しかも金になる。


「……ポテト、優秀すぎないか?」

「ガウッ?」

「今度トムじいが来たら、日用品との交換材料に使えるな。ブラッシングするだけで金策になるとか、どんな高性能ペットだよ」

「ガウッ!」


 なんか褒められたのはわかったのか、ポテトが得意げに胸を張る。


「だっははは! 働くねぇ、ポテトは!」

「いや、本人は気持ちよくされてただけなんだけどな。一番楽な金策フローだろこれ」


 ブラッシングを終えたポテトは、むくりと起き上がった。

 古い毛が落ちたその体には、真新しい、雪みたいに真っ白でふわふわの毛がたっぷり生え揃っていた。


 陽の光を受けてふんわりと輝き、前よりも一回り大きく、もっとボリュームアップして見える。


「おお……」


 思わず声が漏れた。


「なんか急に、ちょっとだけ堂々として見えるな」

「元から本物の竜だ」


 シルフィが淡々と突っ込む。


「言いたいことはわかるけど、さっきまでの寝顔とのギャップがすごいんだよな」

「ガウッ!!」


 ポテトは体をぶるぶるっと震わせ、すっきりした顔でひとつ吠えた。


 痒みは完全に消えたらしい。

 ふわふわの毛が震えるたびに、ほんの少しだけ前より強い熱気と威圧感が漂っていた。ただし数秒後にはミリィに突っ込まれて、その威圧感は跡形もなく消えた。


「にゃはは! ポテト、ぴかぴか!」


 ミリィが抱きつく。


「ガウッ!」


 照れているのか、鼻先が少し上を向いていた。

 その日、村の物置きには「火竜の産毛・換毛期収穫分」と書かれた小袋がひとつ増えた。


 そして俺たちの中には、もうひとつ、確かな共通認識が生まれていた。

 ――この村の番竜は、戦闘力より治癒力(精神的な)の方が高い。



 その日の夕方。ポテトの換毛騒動も落ち着き、俺たちは夕食の準備に取りかかろうとしていた。


『ピンポーン♪ パンポーン♪』


 静かなログハウスに、インターホンの電子音が響く。


「ん?」


 俺は包丁を置き、リビングへ向かった。


「トムじいか? 今日は来る予定じゃなかったはずだけど……」


 親機のモニターへ目を向けた瞬間――


「……は?」


 映っていたのは、人の顔ではなかった。


『……シュルルルルル……』


 画面いっぱいに映る八つの複眼。


 節くれ立った毛むくじゃらの脚。


 獲物を探すように蠢く、おぞましい口器。


「うわっ!?」


 思わず親機を取り落としそうになる。


「な、なんだこいつ!?」

「敵襲かい!?」


 騒ぎを聞きつけたガランが、大斧を担いで飛び込んできた。


「結界の外だ! トムじいが通る獣道のあたりに、巨大な蜘蛛みたいな魔物がいる!」

「……『大毒蜘蛛ポイズン・タランチュラ』だな」


 シルフィが画面を一瞥し、淡々と言う。


「秋になり、冬眠前の獲物を求めて森の浅層まで降りてきたのだろう。強力な麻痺毒を持つ危険種だ」

「できれば遭遇したくない相手だな……」

「賢明な判断だ。A級冒険者でも討伐には大人数を要する。森の生態系では、おおよそ五番目に位置する強者だ」

「なんでそんな絶妙な順位なんだよ。逆に怖いわ」

「この村の戦力で挑めば……一人くらいは死ぬかもしれない」

「笑えねぇ!」


 思わずエルマを見る。


「結界なら平気だよな?」


 エルマは自信満々に胸を張った。


「もちろんです! こちらがゲートを開けない限り、外部からの侵入は不可能です! 物理攻撃も完全に遮断します!」

「よし、それなら安心――」

「ただし」

「絶対あると思った、その『ただし』」

「結界はあくまで敷地への侵入を防ぐものです。ですが、インターホン本体とカメラは結界の外側へ設置されています」

「あっ」

「もしあの大毒蜘蛛が機械を獲物と勘違いして襲えば……壊される可能性があります」

「それは困る!」


 インターホンは、この村の生命線だ。

 トムじいとの受け渡しも、外の様子の確認も、全部あれに頼っている。


 壊れたら、また結界の外まで交換しに行かなければならない。

 それだけは絶対に避けたい。


「くそっ……何か使えそうなものは――」


 俺が慌てて通販ウィンドウを開いた、その時だった。


「ガウゥゥゥゥゥッ!!」


 白い影が弾丸のように飛び出した。


「ポテト!?」


 俺たちも慌てて外へ飛び出す。

 ポテトは一直線にインターホンのある木へ駆け寄り、結界の境界線ぎりぎりで足を止めた。

 見えない壁の向こうでは、大毒蜘蛛がゆっくりと脚を動かしながらこちらを窺っている。

 ポテトは一歩も退かない。


 白い毛並みを逆立て、小さな体を低く沈める。

 そして――。


「グルルルルルル……ッ」


 腹の底から響くような、低く重い唸り声。

 いつもの甘えた鳴き声とはまるで違う。


 その声には、獲物を威圧する捕食者だけが持つ圧があった。


「ポテト……?」


 思わず息をのむ。


 さっきまでブラッシングでとろけていた白い毛玉は、そこにはいなかった。


 結界の向こうを真っ直ぐ睨み据えるその姿は――。


 紛れもなく、火竜だった。


「ポテト!? だめだよ、あぶない!」


 ミリィが追いついて叫ぶが、ポテトは微動だにしなかった。


 結界の外では、大毒蜘蛛がじりじりとインターホンへ近づいていた。


 複眼がぎらりと光る。


 毒牙がゆっくりと伸びる。


 外からこの村は見えない。


 あの蜘蛛にとって、ここはただの森だ。


 だが、ポテトには違う。


 ここは自分の縄張り。


 ミリィがいる。


 コウタがいる。


 みんなが笑って飯を食う家がある。


 昼寝をする場所がある。


 そして――コウタが毎日のように大事そうに触っている、不思議な機械がある。


 それに牙を向ける者は、敵だ。


 換毛を終え、新しい毛皮をまとった火竜の本能が、静かに目を覚ました。


「グルルル……ガァァァァァァァッ!!」


 言い終わるより早かった。


 ゴォォォォォォォォッ!!


 轟音とともに、灼熱の火炎が一直線に迸る。

 見えない結界を難なく突き抜けた業火は、大毒蜘蛛の目の前へ着弾した。

 土が爆ぜる。

 木の根元が一瞬で黒く炭化する。

 熱で空気そのものが揺らいだ。


「シュシャァァァッ!?!?」


 何もない空間から突然噴き出した高熱の炎。

 さらに、その奥から感じる自分より遥か高位の存在――竜種の威圧感。


 大毒蜘蛛は完全にパニックへ陥った。

 八本の脚をもつれさせるように振り回し、大毒蜘蛛は森の奥へ一目散に逃げ去っていく。


 ……速い。

 さすが蜘蛛というべきか、見ているこっちが少し引くくらい速かった。


「……おお」


 俺は唖然として、その一部始終を見つめていた。


「……やったじゃないか、ポテト」

「ガウッ!」


 ポテトはどや顔で振り返り、そのまま尻尾をぶんぶん振って俺の足元へ駆け寄ってくる。

 なんだこいつ。かっこいいことした直後に、急に褒め待ちの犬へ戻るな。


「だっははは! すごいじゃないかポテト! ただの火打石かと思ってたら、立派な番犬……いや、番竜だねぇ!」


 ガランが頭をがしがし撫で回す。


「……見事な威嚇だ。無駄な戦闘を避け、敵だけを退ける。森で生きる者として正しい判断だ」


 ロエンも目を細めた。


「にゃはは! ポテト、かっこいい!」


 ミリィが抱きつく。


「ガウッ、ガウゥ」


 照れているのか、ポテトは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「……少し見直した」


 シルフィがぽつりと漏らす。


「今までただの食いしん坊の火打石だと思っていたが」

「お前、評価が辛辣だな」

「だが今日は、ちゃんと竜だった」

「最後だけは褒めてるんだな」


 *


「よし!」


 俺は両手を打ち合わせた。


「今日のポテトの活躍と、換毛――つまり大人の階段を祝して、最高の夕食を作ってやる!」

「おおっ!」

「やったー!」

「ガウッ!!」


 空き地へかまどと焚き火を用意する。

 秋の涼しい夜風の中、炎がぱちぱちと爆ぜ、赤い火の粉が小さく舞った。


 焚き火の匂いってだけで、なんかもう飯が美味くなる気がするんだよな。

 俺が『生活通販』で召喚したのは、大量の『粗挽き極太ソーセージ』と、細長い『コッペパン』だった。


「なんだいそれは? 腸詰めの肉かい?」

「ああ。しかも今日は、焚き火で直接炙って食う」

「ほう……野趣があるな」


 ロエンが興味深そうに頷く。

 俺は長い金串へ極太のソーセージを刺し、焚き火の上でくるくると回しながら焼いていった。


 するとすぐに、表面の皮がぱんっと張り、脂がじわりとにじみ出してくる。


 パリッ、ジュワァァァ……!


 ついに腸が弾け、中から溢れた肉汁と脂が炭へ落ちた。

 その瞬間、スモーキーで暴力的な香りがあたりへぶわっと広がる。


「おおおっ……! 肉の焼けるいい匂いだねぇ!」


 ガランが前のめりになる。


「これだけでも十分うまいが、今日はジャンクの王道を行くぞ」


 俺は軽く炙ったコッペパンの真ん中へ切れ目を入れ、焼き立て熱々のソーセージをどかんと挟み込んだ。


 そしてその上へ、赤いケチャップと黄色いマスタードを波打つみたいにたっぷり絞る。


「完成。現代日本の手軽にして最強のジャンク飯、『ホットドッグ』だ」

「ほっとどっぐ……熱い犬、ですか?」


 エルマが首を傾げる。


「名前の由来は諸説ある」

「犬は入っていないんですよね?」

「入ってたら大問題だろ」

「よかった……」


「そこ本気で心配したのか」

「いいか、両手で持って、こぼさないように大口を開けてかぶりつけ!」


 俺が配ったホットドッグを、全員が一斉に口へ運ぶ。


 パリッ!!


 極太ソーセージの皮が弾ける、たまらなく気持ちいい音が夜の森へ響いた。


「……ッ!! んまァァァァァァァァイ!!」


 ガランが目を剥いて絶叫した。


「なんだいこの肉は! 噛んだ瞬間、閉じ込められてた熱い肉汁と脂が口の中で爆発したよ! しかもこの赤いソースの甘みと、黄色いソースのツンと来る刺激! パンがそれを全部受け止めて……完璧じゃないか!」

「おいしい! サクッてして、じゅわーってして、けちゃっぷすき!」


 ミリィも口の周りをケチャップまみれにしながら、夢中でかぶりついている。


「……素晴らしいな」


 ロエンも無表情のまま、だいぶ早いペースで食べ進めていた。


「片手で食べられ、腹にたまり、味が濃い。野営食の究極系と言っていい」

「評価が実務的だな」

「重要だ」

「まあ、そうだけど」

「コウタ様……!」


 エルマがホットドッグを片手に、もう片方の手でコーラを掲げる。


「この『ほっとどっぐ』と『こーら』の組み合わせ……! これはピザに匹敵する恐ろしい合法麻薬です! 片手で食べられるという点では、むしろ作業中の効率が上です! 徹夜研究との相性においては、ピザを超えるかもしれません!」

「基準が完全に研究廃人のそれなんだよ」

「誉め言葉として受け取ります!」


「ガウッ! ガウガウッ!」


 そして本日の主役、ポテトが「俺の分は!?」とでも言いたげに尻尾を振って抗議してくる。


「わかってるよ。お前には特別仕様だ」


 俺はケチャップやマスタードを一切使っていない、素焼きの極太ソーセージを三本、ポテト専用の皿へ盛ってやった。

 ポテトは目を輝かせ、熱々のソーセージへ食らいつく。


 はふ、はふ、と熱さを逃しながら肉汁を味わい、あっという間に三本平らげた。


 そして最後に、


「ゲフッ」


 と満足そうに小さく息を吐いた。


「……まったく」


 シルフィが呆れ顔で言う。


「少し大きくなったとはいえ、中身はただの食いしん坊の犬だな」

「いいんだよ」


 俺は笑って、自分のホットドッグをかじった。


「俺の村の番犬……じゃなかった、番竜なんだから。これくらい腹いっぱい食わせてやらないとな」

「ガウッ!」

「そこは気に入ったのか」


 冷たいコーラで喉を潤す。

 炙ったパンの香ばしさと、ソーセージの肉汁、ケチャップの甘酸っぱさ、マスタードの刺激が口の中で一気にまとまる。


 うん。これはうまい。焚き火で食うホットドッグ、反則だろ。

 燃える焚き火の熱。頬を撫でる秋の夜風。


 真っ白でふわふわの毛をふんわりと光らせながら、満腹になったポテトが、いつの間にかミリィの膝の上で丸くなって眠り始めていた。


「……寝たねぇ。さっきまであんなに勇ましかったのに」


 ガランが笑う。


「ガウ……」

「いや、今返事した?」

「夢の中でも食ってるのかもしれん」


 ロエンが真面目な顔で言う。


「ありえるな……」


 俺が『通販スキル』で築いたこの引きこもり要塞は、もう俺一人だけの城じゃない。


 畑ができて。

 プレハブが建って。

 仲間が増えて。

 結界が張られた。


 そして今では、一匹の小さな白い火竜が、何の警戒もせず腹を見せて眠れる場所になっている。

 家とは、きっとこういうものなのだろう。


 ぱちっ、と焚き火が爆ぜる。

 秋の夜風が頬を撫でる中、俺たちはホットドッグとコーラを片手に、今日という平和な一日の終わりをゆっくりと味わった。

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