第三十四話 異世界スパイスと、暴力的な琥珀色の煮込み(カレー)
麓の街の商人、トムじいとの間に物流ルートが開拓されてから、数日が経過した。
百円ライター。
マヨネーズ。
チョコレート。
そして試供品として渡したコンソメ味のポテトチップス。
現代日本では、コンビニやスーパーや百均で気軽に買える庶民の味方たちである。
だが、この異世界では違った。
百円ライターは“神の火起こし器”。
マヨネーズは“悪魔の白い調味料”。
チョコレートは“黄金の甘味”。
そしてコンソメポテチは、トムじい曰く“理性を削る薄片”らしい。
物騒な呼び名が増えていく。
現代日本のメーカー各位に聞かせたら、たぶん困惑すると思う。
そんなある日の午前中。
村の境界線に設置した防犯カメラのモニターが、森の木立を抜けてやってくる見慣れたロバの荷車を捉えた。
「お、トムじいが来たな」
ログハウスの中でモニターを眺めていた俺は、麦茶の入ったグラスをテーブルに置き、外へ出た。
ちょうど、荷車を引いたトムじいが、汗をぬぐいながら空き地に到着したところだった。
ロバの方は、すっかりこの道に慣れたらしい。
以前ほど怯えた様子はない。
いや、慣れているのはロバだけで、トムじい本人は毎回ちょっと死にかけみたいな顔で来るのだが。
「コウタ殿! お約束の品、お持ちいたしましたぞ!」
トムじいは長旅の疲れも見せず――いや、実際にはかなり疲れているのだろうが、それを商魂で強引にねじ伏せたような笑顔で荷台のシートをめくった。
「街で手に入る最高級の岩塩! 南方から仕入れた珍しい香辛料の詰め合わせ! それから、ガラン殿が好まれるであろうロックバードの胸肉! 布や細々とした日用品も、ぬかりなく揃えておきましたぞ!」
「おお、助かる。さすが仕事が早いな」
俺は荷台の木箱を受け取りながら頷いた。
トムじいは一見すると、どこにでもいるくたびれた老商人だ。
だが、ひとたび儲かる匂いを嗅ぎつけた時の機動力は、下手な冒険者よりよほど高い。
あの日、百円ライターに火がつくのを見て腰を抜かしかけ、マヨネーズを舐めて涙ぐみ、チョコレートを食って天を仰いでいた男とは思えないほど、取引が始まってからの動きは迅速だった。
その代わり、俺もちゃんと対価を渡す。
百円ライターの予備を数本。
マヨネーズの新品を二本。
それから今回は、試供品代わりにコンソメ味のポテトチップスを三袋ほど追加してやった。
「おおおっ……!」
トムじいの顔が、わかりやすく輝いた。
「こ、これが新たな悪魔の菓子ですか……! 前回のうすしお味も衝撃でしたが、袋の色が違うということは、また別系統の堕落が待っているのですね!?」
「別系統の堕落ってなんだよ」
「商人の勘が告げております。これはまた、人を駄目にする味ですぞ」
「だいたい合ってる」
トムじいはそれらを、まるで盗賊に狙われる国家機密のような慎重さで荷車の奥へ隠した。
百円ライターも、マヨネーズも、ポテチも、現代日本では庶民の友だ。
だがこの異世界では、商人の人生を変えるレベルの禁断アイテムらしい。
文明の格差って怖い。
「では、私はこれで失礼いたしますぞ!」
「もう帰るのか?」
「はい! あまり長居をすると、また新たな神秘を目撃して理性が保てなくなりますので!」
「それがお互いのためだな」
トムじいは深々と頭を下げた。
「次回はさらに面白い……いえ、実用的な物資も持ち込めるよう、街で交渉を進めてまいります!」
「面白い方を本音にするな」
トムじいはロバの荷車を引き、そそくさと帰っていった。
彼をこの村に長居させるのは危険だ。
防犯カメラを見ては“目を記録する魔道具”と騒ぎ、ソーラーパネルを見ては“太陽を飼い慣らしている”とか言い出し、冷蔵庫を見ては“冬を閉じ込めた箱”と詩人みたいなことを喚くに決まっている。
取引相手としては優秀だが、あの手のタイプは好奇心のアクセルが壊れている。
「さて……」
俺はトムじいから受け取った木箱をテーブルに置き、さっそく中身を確かめた。
岩塩はごつごつしているが、透明感があって質は良さそうだ。
袋の口を開くと、鋭く澄んだ塩気の匂いがした。
ロックバードという魔物の肉は、見た目だけなら鶏肉に近い。
だが、色はやや濃く、筋肉の締まり方が違う。
胸肉のはずなのに、妙に弾力と気品がある。
高級地鶏と大型の野鳥の中間みたいな雰囲気だ。
そして何より、麻袋に入った色とりどりの香辛料。
赤。
黄。
茶。
緑。
袋を開けるたび、鼻孔を刺激する乾いた熱気のような香りが立ち昇った。
クミンやコリアンダー、ターメリックに似た匂い。
そこに、胡椒やシナモンめいた甘さ、正体不明のスモーキーな刺激まで混ざっている。
「……匂いにつられた」
ふいに背後から声がした。
振り返ると、畑仕事の休憩中だったロエンが、鼻をひくひくさせながら立っていた。
狼獣人だけあって嗅覚は鋭い。
こいつは飯と土と危険の匂いには異様に敏感だ。
その後ろから、ミリィもひょこっと顔を出している。
「コウタ、なんだか、おはながムズムズするにおいがする」
「ああ、トムじいが持ってきてくれた異世界のスパイスだよ」
俺は香辛料の袋を見下ろした。
そして、ロックバードの肉。
ロエンの畑の野菜。
生活通販Lv.2で呼び出せる調理セット。
それらが頭の中で、ひとつの料理に組み上がっていく。
煮込まれた肉。
とろける玉ねぎ。
スパイスの暴力。
白い米。
そして、それらをすべて受け止める、あの完璧な組み合わせ。
「……あれ、やるか」
俺がぽつりと呟くと、ロエンの耳がぴくりと動いた。
「コウタ」
「なんだ」
「今、嫌な予感と、良い予感が同時にした」
「鋭いな」
「前にも似た匂いを嗅いだ」
そう。
ロエンは知っている。
シルフィも知っている。
まだ村がここまで大きくなる前。
ロエンとシルフィに、“味の濃い夕飯”としてカレーを出したことがある。
あの時は、市販のカレールーを使った、かなりシンプルなカレーだった。
それでも二人は見事にやられた。
ロエンは、ジャガイモと人参が別次元の料理になったことに黙り込み。
シルフィは、刺激が強すぎるだの野蛮だのと言いながら、皿を空にした。
つまり、今日は初見殺しではない。
再戦だ。
しかも今回は、トムじいが持ってきた異世界スパイスとロックバード、ロエンの畑の野菜、そして土鍋ご飯を合わせる。
前回が入門編なら、今回は改造版。
普通のカレーではない。
「今日の昼飯は、全員で協力して“究極の煮込み料理”を作るぞ」
「究極の煮込み、だと?」
ロエンの耳がさらに前を向いた。
「前の、あの琥珀色の料理か」
「ああ。カレーだ」
「……危険だな」
ロエンが真顔で言った。
「知ってるからこそ分かる。あれは、胃袋を支配する」
「経験者のコメントが重い」
「今回は匂いからして前より強い。俺の育てた芋と人参が、また新しい形に昇華されるのか」
「その予定だ」
「なら手伝う」
即答だった。
「わたし、カレーしらない!」
ミリィが両手を上げて主張した。
「カレーってなに? あまい? おにく?」
「肉も入る。辛くて、甘くて、しょっぱくて、すごくご飯が進む料理だ」
「よくわからないけど、すごそう!」
「実際すごいぞ。たぶん全員、昼寝確定レベルで満腹になる」
「最高だね!」
その声に反応したように、プレハブ小屋の扉が勢いよく開いた。
「だっははは! 飯の準備かい!」
ガランが出てきた。
どうやらゲーム中だったらしく、片手にはまだコントローラーを握っている。
「アタシは何を刻めばいいんだい! 敵か! 肉か! それとも両方か!」
「今日は肉だけでいい」
俺はロックバードの肉を指さした。
「ガランは、そのロックバードの肉を一口大にぶつ切りにしてくれ」
「任せな! 肉を斬るのは得意だよ!」
「言い方が物騒なんだよなあ」
俺は次に、ロエンを見る。
「ロエンは畑からジャガイモと人参を少し取ってきてくれ。カットまで頼む」
「分かった」
「あと、煮崩れすぎないように大きめで」
「前回で覚えた」
「さすが経験者」
戦士に台所仕事を任せるのは、一見危険そうだ。
だが、ガランは刃物の扱いが無駄にうまい。
たぶん食材を切っている時の方が、そこらの盗賊を相手にしている時より手元が正確だ。
ロエンはロエンで、農具の延長のように包丁を扱う。
無駄が少なく、切った断面まで妙にきれいだ。
「わたしは!? わたしは何するの!」
ミリィがぴょんぴょん跳ねてアピールしてくる。
小さな獣人は、役割をもらえるとやたら張り切る。
「ミリィは……これだ」
俺は追加で取り寄せた玉ねぎを三つ、彼女に手渡した。
「外側の茶色い皮を剥いて、中身を洗っておいてくれ。俺が後で切るから」
「わかった! かんたんだね! わたし、できる!」
「できるけど、たぶん泣くぞ」
「なんで?」
「やってみれば分かる」
「???」
首を傾げながらも、ミリィは意気揚々と玉ねぎを抱えて水場へ向かった。
五分後。
「うぅぅぅ……コウタぁ……」
ひどく情けない声とともに、ミリィが戻ってきた。
「めが、めがいたいよぉ……!」
「ああ、やっぱり」
「なんだいこれ! わるい魔法の野菜だ! なにもしてないのに、なみだがとまらない! わたし、いじめられた!」
「玉ねぎに?」
「たまねぎに!」
目を真っ赤にして、ぽろぽろ涙を流している。
玉ねぎ相手に完敗した獣人少女である。
「あー、ごめんごめん。玉ねぎは皮を剥く時も成分が飛ぶからな」
「せめて先に言ってぇ……」
「言ったらやりたがらなかっただろ」
「うぅ……でも、きれいにむいたもん……」
俺は泣きじゃくるミリィの頭を撫でながら、つるんと綺麗に剥かれた玉ねぎを受け取った。
ちゃんと仕事はしているあたりが偉い。
涙と引き換えに得た戦果だ。
一方その頃、ガランはロックバードの肉を見事な手際で切り分けていた。
「どうだい坊や! 均等な大きさ! 美しい断面! 戦士の包丁捌きってやつさ!」
「短剣でやるなよ、物騒だな」
「切れ味がいいから問題ないのさ」
「料理人が聞いたら怒るぞ」
「料理人がここにいないからセーフだよ!」
セーフではない。
ロエンも負けじと、掘りたてのジャガイモと人参を丁寧に洗い、無駄の少ない動きでカットしていく。
ガランが勢い重視なのに対し、ロエンはやたらと几帳面だ。
切った断面の美しさに無言のプライドを感じる。
「ロエン、お前、やっぱり包丁仕事がうまいな」
「農具の延長だ。食うための仕事に、不器用でいる理由はない」
「かっこいいこと言うな」
「事実だ」
そんな二人の作業を横目に、俺は玉ねぎをみじん切りにし始めた。
正直、俺もそんなに料理上手ではない。
だがカレーに関しては、ある程度雑でも成立するという強さがある。
だから偉大なのだ。
フライパンに多めの油を引き、みじん切りの玉ねぎをじっくり炒める。
最初は白っぽかった玉ねぎが、やがて透明になり、さらに炒めていくと飴色へ変わっていく。
じゅうじゅうという音とともに、甘く深い匂いが立ち上った。
「ガウッ!」
足元で、火竜の仔犬ポテトが“俺の出番はまだか”と言わんばかりに尻尾を振っている。
「よしポテト、かまどに火を点けてくれ。今日は中火でじっくりいくぞ」
「ガウッ!」
ポテトは任されたのが嬉しいのか、胸を張ってかまどの前に立った。
「ぷしゅっ!」
可愛らしいくしゃみみたいな音とともに、薪へ向けて小さなブレスが放たれる。
ぼっ、と火がついた。
「えらいぞポテト」
「ガウゥ〜」
褒められて得意満面である。
こいつは完全に、現場猫ならぬ現場竜だ。
火を扱う作業だけ任せると異様に有能になる。
俺は大鍋を火にかけ、油を引いてガランが切ってくれた肉を炒めた。
ロックバードの肉は、焼き始めた瞬間から匂いが強かった。
鶏肉に近い。
けれど、もっと野性味があり、脂の香りに深みがある。
表面に焼き色がついたところで、ロエンのジャガイモと人参、そして俺が飴色にした玉ねぎを投入する。
全体に油が回り、鍋の中で素材同士の香りがぶつかり合って、一気に食欲を刺激してきた。
「コウタ」
ロエンが喉を鳴らしながら鍋をじっと見つめている。
「その時点で、すでに暴力的なほど良い匂いがしている」
「肉の脂と、土の恵みが焼ける匂いだからな」
「これだけでも十分に飯になる」
「まだ序盤だぞ。カレーを舐めるな」
「舐めていない。前に食ったから分かる。むしろ恐れている」
「正しい反応だ」
そこへ、ガランが身を乗り出してきた。
「坊や、それ、もう食っていいかい?」
「いいわけないだろ」
「なんだい。まだ育つのかい、この料理」
「ここからが本番だよ」
俺は大鍋にたっぷりの水を注ぎ、トムじいが持ってきた異世界のスパイスを、ほんの少しだけ指先でつまんで振り入れた。
ふわり、と乾いた熱気のような香りが立ち上る。
だが、あくまでこれは隠し味だ。
主役はまだ出していない。
この鍋の支配者は、最後に投入する“あいつ”である。
ぐつぐつと煮立ちはじめた鍋から、丁寧にアクをすくう。
ロックバードの肉。
ロエンの畑で採れたジャガイモと人参。
飴色になるまで炒めた玉ねぎ。
それらが鍋の中でじわじわと馴染み、湯気に混じって、すでに反則気味の匂いを放ち始めていた。
「……この時点で、もうかなり強いねぇ」
ガランが鍋を覗き込みながら、喉を鳴らす。
「肉と野菜を煮ただけで、こんな匂いになるもんなのかい?」
「まだ序盤だ」
「序盤でこれかい」
「だから言ったろ。本番はこれからだって」
野菜が柔らかくなるのを待つ間に、俺はもう一つのかまどへ移った。
用意したのは、生活通販Lv.2のセット購入で呼び出した無洗米と、直火用の三合炊き土鍋。
米自体は、この世界にも普通にある。
ガランもロエンもシルフィも、米を知らないわけではない。
だが、今日使うのは現代日本の無洗米。
粒が揃っていて、余計な匂いがなく、水加減さえ間違えなければ、きっちり甘く炊き上がる優等生だ。
そして、それを土鍋で炊く。
電気炊飯器を使わなかったのは、ソーラーパネルの電力を節約したいからでもある。
だが、それだけではない。
今日は、土鍋で炊いた白飯の凶悪さを、こいつらに叩き込むつもりだった。
米は知っている。
ならば次は、米の底力を知ってもらう番である。
土鍋に米と水を入れ、蓋をする。
最初は強火。
沸いてきたら弱火。
最後に一瞬だけ火を強め、香ばしさの気配を立たせてから、火から下ろして蒸らす。
蓋の隙間から、白い湯気が細く漏れた。
ほのかに甘く、やさしい匂いが広がる。
「……坊や」
ガランが不思議そうに土鍋へ顔を寄せた。
「米を炊いてるのは分かるけどさ。なんだい、この匂い。街の宿で出る米より、ずいぶん甘くて丸い匂いがするねぇ」
「土鍋炊きだ。水と火加減をちゃんと見れば、米は化ける」
「米まで化けるのかい。この村の飯は、何でも進化するねぇ」
「今日の米は、ただの添え物じゃないぞ」
「主役は鍋の方じゃないのかい?」
「主役はカレーだ。だが、それを受け止めて完成させるのが米だ」
「つまり?」
「合わせるんじゃない。支配させるんだ」
「急に怖いこと言うじゃないか」
「食えば分かる」
大鍋へ戻ると、野菜はちょうどいい具合に柔らかくなっていた。
ジャガイモの角が少し丸くなり、人参の色は濃くなり、肉の旨味が煮汁へ溶け出している。
今だ。
俺はついに切り札を取り出した。
市販のカレールー、中辛。
この世界の人間から見れば、茶色い固形ブロックの詰まった謎の小箱でしかない。
米はこの世界にもある。
煮込み料理もある。
香辛料もある。
だが、このルーは別物だ。
複数のスパイスと油脂と旨味ととろみを、誰でも同じ味に近づけられるよう固めた、現代日本の家庭料理の結晶である。
手軽で、強くて、失敗しにくい。
しかも、だいたいの具材を受け止めて、それっぽく美味くしてしまう。
ルーとは、家庭の台所に降臨した小さな奇跡なのだ。
「さあ、見とけよ」
俺は一度火を止めた。
ルーを割り、鍋の中へ落としていく。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
茶色い塊が、熱いスープの中でゆっくり沈み、表面からじわりと溶け始めた。
お玉で底から丁寧にかき混ぜる。
さらさらだった煮汁が、少しずつ重くなる。
色が変わる。
香りが変わる。
ただの肉と野菜のスープだったものが、鍋の中で別の生き物に変貌していく。
琥珀色。
いや、それよりもっと深い。
濃密で、艶があって、食欲を真正面から殴りつけてくる色。
ぐつ、ぐつ、ぐつ。
そして、その瞬間だった。
匂いが、爆発した。
香り、などという上品なものではない。
それはもう、質量を持った衝撃波だった。
スパイス。
肉。
玉ねぎ。
煮込まれた野菜。
トムじいの持ってきた異世界香辛料の乾いた熱。
そこへ、市販カレールー特有の、抗いがたい“知っている味”の気配が重なっていく。
すべてが混ざり合い、濃く、太く、暴力的な匂いとなって、村中へ解き放たれた。
「……来たか」
ロエンが低く呟いた。
それは初めて嗅いだ者の声ではなかった。
一度この料理を知ってしまった者の、覚悟を決める声だった。
「ああ」
ロエンは耳をぴんと立てたまま、鍋を睨む。
「やはり危険だ。前より匂いが深い」
「今回は異世界スパイス入りだからな」
「余計なことをしたな」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてはいない。警戒している」
「な、なんだい……この匂いは……っ!」
ガランが目を見開き、震える声で言った。
初見の反応としては、百点満点だった。
「何十種類もの香草が複雑に絡み合って、それが肉と野菜の旨味っていう巨大な濁流にまとめて飲み込まれてる……! 嗅いだだけで胃袋が叩き起こされるような、恐ろしい匂いだ!」
「香草っていうかスパイスだけど、まあそういうことだ」
「これはもう匂いじゃない。兵器だよ!」
「分かる」
ロエンが真顔で頷いた。
「経験者が同意するな」
「……理不尽だ」
ロエンがさらに低く唸る。
「俺の育てた野菜が、別の次元の食べ物に強制進化させられている。本能が……この琥珀色の煮込みを、今すぐ寄越せと叫んでいる」
「さすが経験者。反応が具体的だな」
「一度知っているからこそ、待つのが苦痛だ」
「カレーを知ってしまった者の苦しみだな」
その時だった。
「……おい」
背後から、冷えた声がした。
振り返ると、ログハウス裏手のハンモックでラブコメの最新刊を読んでいたはずのシルフィが、いつの間にか俺の後ろに立っていた。
手には漫画。
だが、視線は完全に鍋に釘付けだ。
読書を中断された怒りではない。
匂いに魂を引っ張られたエルフの顔である。
「シルフィ。いいところで読むのやめたのか?」
「……本の内容が、まったく頭に入ってこなくなった」
シルフィは、鍋から立ち上る湯気を睨みつける。
「この匂いは覚えている。以前、お前が出した、あの濃すぎる夕飯だ」
「カレーな」
「だが、前と違う」
「今回は異世界スパイス入りだからな」
「やはり余計なことをしたな」
「ロエンと同じ反応するなよ」
「当然だ。知っているからこそ分かる」
ごくり、と生唾を飲み込む音が聞こえた。
「前より危険だ。森の空気を一瞬で蹂躙する圧力がある。集中力が完全に途切れた。責任を取れ」
「責任って、食いたいだけだろ」
「それもある」
「素直だな」
「かなり不本意だ。この料理は理性を奪う」
「お前、最近そういう表現ばっかりだな」
「事実だから仕方ない」
全員が、完全にカレーの香りの奴隷と化していた。
ガランは初めて見る怪物を前にした戦士の顔。
ロエンは、再び負けることを理解している農夫の顔。
シルフィは、すでに抗えないと分かっている読書家の顔。
ミリィはただ単純に、目をきらきらさせて「はやく」と全身で訴えている。
俺はお玉を持ち上げ、とろりとした琥珀色の煮込みを一度だけ鍋へ戻した。
重い。
香る。
艶がある。
よし。
「完成だ」
俺は高らかに宣言した。
「現代日本の国民食、異世界スパイス強化版――カレーライスだ」
ぱぁぁぁっ……。
白い湯気が立ち上る。
一粒一粒が真珠みたいに輝く、炊きたての白飯が姿を現した。
「おおおお……っ!」
ガランが思わず声を漏らす。
「真っ白だ! なんだこの粒! 雪みたいなのに、匂いが甘い!」
「だから言ったろ。米は偉大なんだ」
「これだけで食っても美味そうじゃないか」
「実際うまい」
俺は深めの木皿に炊きたてのご飯をこんもり盛り、その横に、とろみのある熱々のカレーをたっぷり注いだ。
肉がごろごろ。
ジャガイモも人参も存在感たっぷり。
ルーは艶やかで、見るからに危険な色をしている。
王道中の王道。
実家で食った、あのタイプのカレーだ。
ただし、今回は異世界素材で強化されている。
「さあ、食ってくれ。これが現代日本の国民食、カレーライスだ」
キャンプチェアに座った面々の前に、皿が並ぶ。
ガランとミリィは、目の前の料理を圧倒されたように見つめていた。
ロエンとシルフィは、すでに覚悟を決めた顔をしている。
「これを……こうして食えばいいのかい?」
ガランが、ご飯とカレーを見比べる。
「そう。白いところだけ食うなよ。ちゃんと一緒にすくえ」
「白と琥珀色を一緒にだね」
「そうだ」
「いただきます!」
ミリィが元気よく言う。
「いただくぞ」
「待ってられないねぇ」
「……危険物を口に運ぶ心構えでいく」
シルフィだけコメントがおかしい。
そして、全員がほぼ同時にスプーンを口へ運んだ。
沈黙。
初夏の風が木々を揺らす音だけが、空き地に響いた。
誰も言葉を発しない。
ただ、咀嚼する音だけが微かに聞こえる。
あ、このパターンはやばい。
そう思った次の瞬間。
「だっははははははは!! っっんまァァァァァァァァイ!!!」
最初に爆発したのは、案の定ガランだった。
大空に向かって歓喜の雄叫びを上げ、スプーンを振り回す。
「なんだいこれ! 口に入れた瞬間、強烈な香辛料のパンチが来る! だがその直後、とろけるほど柔らかく煮込まれた肉の旨味と、玉ねぎの暴力的な甘みが、全部まとめて殴り返してくるじゃないか!」
「食レポが殴り合いだな」
「しかもこの白い粒! 噛めば噛むほど優しい甘さが出て、この刺激的な琥珀色の煮込みを完璧に受け止めてる!」
「お、泥って言わなかった」
「泥みたいなのに美味いって言おうとして我慢したんだよ!」
「言ってるじゃねえか」
ガランはそのまま、ほとんど発動機みたいな勢いでスプーンを口に運び続けた。
「止まらない! スパイスが食欲を無限に増幅させる! 肉! 芋! 米! カレー! この無限ループ、一生やってられるねぇ!!」
「一生はやめろ。胃が壊れる」
「からい! でも、あまい! でも、またからい! でも、もっとたべたい!」
ミリィも少し涙目になりながら、スプーンを止めない。
中辛でも、獣人少女にはそこそこ刺激が強いらしい。
それでも止められないのだから、カレーは本当に罪深い。
「おみずのみたい! でも、もっとたべたい! なにこれ! これ、わるい魔法のたべものだ!」
「その認識はかなり正しい」
「くちがあついのに、またたべると、またおいしい! ずるい!」
「食い物にずるいも何もあるか」
「ある! これはずるい!」
ミリィの尻尾が左右にぶんぶん振れている。
もはや感情の制御が追いついていない。
ロエンは無言だった。
ただ目を閉じ、一噛み、一噛みを確かめるみたいに味わっている。
こいつは本当にうまいものを食うと、逆に静かになる。
「……コウタ。俺は負けた」
「え? 何が?」
ロエンはスプーンを置き、真面目な顔で皿を見下ろした。
「以前食べた時、土の恵みはここまで化けるのかと思った。だが、今回はさらに上だ」
「前より?」
「ああ。ロックバードの肉の旨味が強い。スパイスも深い。だが、その中にあっても、俺の育てたジャガイモは個性を失っていない。むしろ、この煮込みを限界まで吸い込み、究極のホクホク感をもって完成している」
「じゃがいもにすごい敬意を払ってるな」
「当然だ。あれは努力の結晶だ」
ロエンはさらに、神託でも受けたような顔で続けた。
「……俺の農業の到達点が、この一皿にある」
「急に重い」
「だが分かる気もする」
「シルフィまで乗るな」
そのシルフィはというと、
「……エルフの味覚には、やはり刺激が強すぎるな」
とか文句を言いながら、すでに皿の半分を平らげていた。
「前に食べた時も思ったが、この料理は理不尽だ。この香辛料の組み合わせ……森の薬草学に精通した私でも、解析が追いつかん」
「解析しながら食べるな」
「舌がぴりぴりするのに、次の一口を異様なほど欲してしまう。そしてこの白い粒の優しい食感……悔しいが認めざるを得ない」
「認めるんだな」
「これは芸術的なまでの味覚の暴力だ」
「褒めてるのか貶してるのか、最後まで分からないな」
「両方だ」
彼女は最後の一粒まで綺麗に米をすくい取り、ふぅ、と熱い息を吐いた。
「コウタ。おかわりだ」
「素直に美味いって言えよ」
「美味い。だからおかわりだ」
「最初からそう言え」
俺は笑いながら、全員の皿に二杯目を盛り付けた。
大鍋いっぱいに作ったはずのカレーは、恐ろしい速度で底が見え始めている。
ガランに至っては、すでに三杯目の体勢だ。
「坊や! 肉を多めで!」
「ダメだ。配分を考えろ」
「ケチ!」
「三杯目に入ってるやつに言われたくない」
「ガウッ! ガウウゥゥ!」
足元では、ポテトが“俺の飯は!?”と抗議の声を上げていた。
玉ねぎが入っているので、さすがにカレーは食べさせられない。
「分かってるよ。ポテトにはロックバードの肉の端切れを茹でてやるから待ってろ」
「ガウッ!」
一瞬で機嫌が直った。
現金な竜である。
結局、全員が腹の限界までカレーを詰め込んだ。
空き地には、満腹ゆえの幸福感と、もう一歩も動きたくないという怠惰が濃厚に漂っている。
「……もう、動けねぇ」
ガランがキャンプチェアに深くもたれかかり、腹をさすった。
「戦士としてあるまじき失態だが、今、魔物に襲われたらアタシは一歩も動けないねぇ」
「潔く言うなよ」
「でも幸せだよぉ……」
「堕落しきってるな」
「わたしも……おなか、ぱんぱん……」
ミリィは芝生の上に大の字になって寝転がり、その横で肉を平らげたポテトが同じように丸くなっている。
なんだこの小型二匹。
あまりにも平和な光景すぎる。
「……今日はもう、畑には出ん」
ロエンまでもが、ガーデンハウス前の椅子に座り込み、目を閉じていた。
「農夫として失格だが、今だけは土より椅子を選ぶ」
「そこまでかよ」
「そこまでだ」
「カレー、強すぎるな……」
「お前ら、食いすぎだろ」
俺は苦笑しながら、ウォータージャグから冷たい麦茶を注ぎ、全員に配って回った。
スパイスで火照った口の中へ、氷の浮いた麦茶が流れ込む。
カレーの後の麦茶。
これもまた正義である。
「ふぅ……極楽だな」
自分のキャンプチェアに腰を下ろし、氷を鳴らしながら、俺は平和すぎる村の光景を見渡した。
ログハウスの屋根では、ソーラーパネルが初夏の太陽を静かに受け止めている。
白いプレハブ小屋。
農具の整頓されたガーデンハウス。
玉ねぎ型のベルテント。
露天風呂の湯気。
腹をさすっている女戦士。
芝生で伸びる獣人と仔竜。
椅子で悟りを開いた狼獣人。
ハンモックに戻って漫画を開いたのに、まだ時々「……うまかった」と呟いているエルフ。
俺が一人で静かに引きこもるために建てたはずのこの場所は、いつの間にか異世界の住人たちの胃袋と心を完全に掌握した、最強の溜まり場になっていた。
「おい、コウタ」
ハンモックに戻り、再び漫画を開いていたシルフィが、ページから目を離さずに言った。
「明日の昼も、このカレーとやらでいいぞ」
「お前、二日目のカレーの美味さを知ってるのか? 完全に日本のカレー文化に順応してるじゃないか」
シルフィは、ふん、と鼻を鳴らした。
「知らん。だが、一度冷えて味が馴染めば、さらに深みが出そうな予感がするだけだ」
「エルフの味覚分析、鋭すぎるだろ」
「当然だ。私は森の守り手だぞ」
「森の守り手が二日目のカレーを予測してるの、だいぶ駄目だろ」
「お前にだけは言われたくない」
俺は笑いながら、残っていた麦茶を飲み干した。
特別な新しい住人が増えなくてもいい。
毎日大事件が起きなくてもいい。
こうして気心の知れた連中と、馬鹿みたいに美味い飯を食って、腹をさすりながら冷たい麦茶を飲む。
その何気ない日常の解像度が、一日一日、少しずつ深まっていく。
「……引きこもり生活って、やっぱり最高だな」
誰にも邪魔されない孤独な城ではないけれど。
この騒がしくて、美味くて、そしてたぶん世界で一番快適な俺の村で過ごす時間は、もう完全に俺の居場所になっていた。
その日の午後。
満腹で眠りこけたガランが寝言で「カレーおかわり……」と呟き、ミリィがそれに「わたしも……」と返事をし、ロエンが薄く目を開けて「二日目の方が芋に味が染みるかもしれん」と真面目に考察し始めた。
シルフィは漫画を読みながら、何でもない顔で言う。
「明日は二十七巻と、二日目のカレーだな」
「勝手に予定を組むな」
俺はそう突っ込みながら、けれど内心では、明日の昼飯がもう決まったことに少しだけ安心していた。
カレーの大鍋は、まだ少し残っている。
そして二日目のカレーは、いつだって初日とは別の顔を見せる。
この村の明日も、たぶんそんな感じで、今日より少しだけ味が染みていくのだろう。




