90:王弟は王都を走る
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いまだ、ざわめきの止まぬ南門広場。
混乱に乗じるようにして、一人のフード姿が歩を進めていた。
連合軍の本陣から距離を取るその足取りは、戦場となった広場から逃れようとしているようにも見えた。
しかし、その足運びはあまりに俊敏。
大柄な体躯といい、その身のこなしといい、明らかに庶民のものではない。
混雑する広場近辺において、目立たぬように気配を押し殺すその姿は、逆に心得のある男の目に留まっていた。
「待たれよ」
放たれたのは、低く厳かな声だった。
フードの男が、足を止めて振り返る。
己に近付いてくる傷だらけの姿を見て、思わず息を呑んだ。
「単身で王城に向かうつもりか?」
「伯爵──っ」
声を掛けた老人──ダウズウェル伯爵の姿を見て、アランはフードの下で目を見開いた。
彼が救出した、処刑寸前の老伯爵。
間近で見た皺だらけの肌には、幾つもの真新しい痣が浮かんでいた。
「もはや老い先短いこの身、死して王家に疑問を投げかけることでしか役に立てんと思うていたが……まさか、生き延びるとは」
老人が、自嘲気味な笑みを零す。
「何を仰ります。先生には、これからも後進の指導をしていただかなくては困ります」
姿勢を正し、アランが答える。
虐げられ、身の置き所なく過ごしていたアランが剣を覚えたのは、王城に出入りしていた指南役のダウズウェル伯爵が、自らの時間を割いて指導してくれたからだ。
「人を育てようにも、仕えるべき王家がこれではと思っていたが……」
細められた老人の瞳には、柔らかな光が灯っていた。
「殿下が立ち上がってくださるならば、まだ……見捨てるには早いですかな」
老人の言葉に、アランが拳を握りしめる。
打倒王太子ローレンスを掲げ、王家に反旗を翻した──今のアランは、いわば逆賊だ。
ローレンスが水面下で行ってきたことを知らぬ者達にとっては、悪でしかない。
無事にローレンスから国を取り戻せたとして、果たして民衆は簒奪者を認めてくれるかどうか──王族らしからぬ扱いを受け続けてきたアランには、そんな疑念が常に付き纏っていた。
「先生が見捨てずにいてくださるならば、それだけで勇気が持てます」
アランの言葉に一度は緩んだ老人の表情が、再び引き締まる。
「王城に向かうならば、どうか十分に警戒を──今の城は、とてもまともではない」
「まともではない……と言うと?」
老人の忠告に、アランがゴクリと唾を飲み込む。
「ここ数年、何度も陛下に謁見を願い出たが……それが認められたことは、一度もなかった。いや、それだけではない」
声の合間に、老人の唇から深いため息が零れ落ちた。
「ここ半年ほど……陛下が寝室から出られた形跡すらない」
「兄上が……?」
アランの瞳に、動揺の色が滲む。
長年自分を虐げ続けた相手とはいえ、彼にとってはたった一人の血を分けた兄弟だ。
「病で伏しているということか?」
切羽詰まったようなアランの声に、老人がゆるりと首を振る。
「宮廷医が出入りしている様子もありません」
「ならば……」
アランが、言葉を飲み込む。
既に政は国王オスニエルの手から離れ、実権はローレンスが握っていると思っていた。
だが、王城の実態は、彼の想像を超えていた。
(病で動けぬままに放置されているのか、あるいは──)
最悪の事態が、頭を過る。
国王オスニエルが身に着けている王の証──御璽の刻まれた指輪。
多少強引な手段を用いてでも、それさえ手に入れることが出来れば、次期国王としての体裁は保てると考えていた。
果たして、今のオスニエルはどのような状態にあるのか。
ざわめく心を抑えつけ、恩師に一礼し、アランは再び王城への道を歩き始めた。
広場から離れるにつれて、血の臭いは薄れていったが、戦地の喧騒は王都全体を包み込んでいた。
家財を纏め、荷車を引いて歩く商人。
怯えて身を寄せ合う親子。
この世の終わりだとばかりに、酒に溺れてくだを巻く男。
そんな人々の波を押し退けながら、武装した兵士達が街を見回っていた。
アランの所在が知られた訳ではない。
だが反乱軍は南門を破って、王都にまで潜入している。
殺気立った様子で街を見渡す兵士の目が、ひときわ大柄なフード姿を捉えた。
「おい、お前」
兵士に声を掛けられ、アランが足を止める。
「何者だ」
「何処へ行く?」
目深に被ったフードの下で、アランは額に汗を滲ませていた。
声を掛けてきたのは、五人組の兵士達。
歴戦のアランにとっては、苦戦をするような相手ではない。
しかし、今は混雑する街中だ。
ここで一戦を交えれば、周囲を行き交う人々に被害が及ぶばかりか、騒ぎを聞きつけた他の兵士達もすぐに駆けつけてくるだろう。
「怪しい奴だな」
兵士の一人が、怪訝な顔で、アランに歩み寄る。
目立たぬようにとあえてボロボロの外套を身に纏ってきたが、身なりの見窄らしさと筋骨隆々な体躯の組み合わせは、かえって兵士の目に留まってしまったようだ。
(どうする……)
逡巡し、外套の下に隠した剣の柄に手を掛けた、その時だった。
「おいお前、こんなところに居たのか」
荒々しく怒鳴り付けるような声が、王都の一角に響いた。




