91:王弟は潜入する
「おいお前、こんなところに居たのか」
荒々しい声と共に近付いてきたのは、みすぼらしい衣服を纏った大柄な男だった。
薄汚れた肌にボサボサ髪、伸び放題の髭。
一目見ただけでスラム街の住人と分かる風体だ。
「あ? なんですか、旦那方。こいつに何か用で?」
「あ、あぁ……」
男が近付いてくるにつれて、兵士達が後退る。
周囲には、酒気と体臭の混じり合った、鼻を突くような臭いが漂っていた。
「すいやせんねぇ、こいつぁ口が利けねぇんですわ。でもまぁ、この通り図体はでかいってんで、雑用をやらしてんですけどね。こいつが、なんかしでかしましたか?」
男が豪快に笑いながら、アランの背を叩く。
そのあっけらかんとした様子に、兵士達は顔を見合わせた。
「……なんでもない。行くぞ」
「お、おう」
気まずそうな表情を浮かべながら、兵士達が歩き出す。
スラム街の住人、それも酔っ払いなんかに絡んでも、ろくなことがない──そんな様子が、ありありと見てとれた。
へらへらと笑みを浮かべていた男の顔が真顔に戻ったのは、兵士達の姿が完全に見えなくなってからのことだった。
「こっちに来な」
アランを促すようにして、男が歩き出す。
足を止めたのは、大通りから外れた路地──薄汚れた裏通りの一角だった。
「……助かった、ありがとう」
フードを目深に被ったままで、アランが礼の言葉を口にする。
「別にいいってことよ。……あんた、反乱軍の人だろう?」
男の言葉に、アランは黙り込んでしまった。
恩人に嘘を吐く気にはなれないが、そうと認めることも、また躊躇われた。
「ああ、別に確認しようなんてつもりはねぇんだ。ただ……」
薄汚れた男の顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「なんでも、その反乱軍……ってのは、ガザード公爵家の人達だって言うじゃねぇか。俺達ぁ、あの人に恩があるんだ」
「ガザード公爵家に、恩……?」
アランの言葉に、男が頷く。
「王家も、他の貴族達も、誰も助けちゃくれねぇ……そんな中、あのお嬢ちゃんだけが、俺達に手を差し伸べてくれたんだ。こんな薄汚れた街で、綺麗なおべべを着た嬢ちゃんが、自ら汗水垂らして働いてな」
蘇るのは、王都に流行り病が蔓延し始めた頃の記憶。
前世で命を落としたウェズリーを救う為に、ディアナは自ら率先してスラム街に赴き、事態を収束させる為に動いた。
(あの時の──)
当時のディアナは、必死だったのだろう。
だがその行動によって変わったのは、ウェズリーの運命だけではない。
スラム街に住む彼等もまた、ディアナによって救われたのだ。
(俺はまた、ディアナに助けられたのか……)
そう思えば、アランの口元には自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
「俺等にゃ、難しいことは分かんねぇよ。ただ……あの嬢ちゃんがやることなら、助けてやらねぇとな」
「ああ、そうだな」
彼等を助けることが出来なかったのは、アランも同じだ。
ディアナだけが、彼等に手を差し伸べ、病の流行を抑えることが出来た。
未来を知り、それを変える為に迷わず動けるディアナだからこそ、成し得たことだ。
「ありがとう。君達がディアナの恩義に報いてくれたように、俺もまた、君達に報いよう」
「なんでぇ、照れ臭いじゃねぇか」
アランの言葉を、男が豪快に笑い飛ばす。
「でもまあ、感謝してるってんなら、今度酒の一杯でも奢ってくんな」
「ああ、必ず」
男の差し出した手を、アランが強く握りしめる。
再び歩き出したアランの顔は、力強い決意に満ち溢れていた。
目指すは、王城。
城内に潜入するならば、複数人で動くより、単身忍び込んだ方が人目に付きにくい。
そう考え、皆の制止を振り切って、一人ここまでやって来たのだ。
ラトリッジ王城は、アランにとっては生まれ育った我が家だ。
王となるべく教育を受けてきた兄オスニエルとは違い、長年放置されてきたアランにとって、王城は庭同然の場所だった。
幼心に好奇心を覚え、広い敷地内を幾度となく探検したものだ。
複雑に入り組んだ王城内に設置された、王族のみが知る隠し通路。
その幾つかは、幼いアランにとって、城から抜け出す為の通り道であった。
兵士の目を避け、裏通りを縫うようにして進むこと暫し。
アランが足を止めたのは、王都の外れにある、誰も立ち寄ることのない小さな祠だった。
「さて、と」
敷石をずらせば、下に続く階段が現れた。
地獄へと繋がるかのように、ぽっかりと口を開けた暗がりへ、一歩、また一歩と降りていく。
幼い頃は不気味に感じていた暗闇も、今となっては何も感じない。
迷うことのない足取りで、アランは真っ直ぐ王城に続く秘密通路を歩いていった。
秘密の抜け道は、王城の庭園にある庭師の作業小屋に通じていた。
出口を塞ぐように積まれた麻袋をなんとか押し退け、小屋を出る。
色とりどりの花が咲き誇る、ラトリッジ王家自慢の庭園。
その華やかな庭園さえも、戦の気配が立ち込める今は、色褪せて見えた。
王城への侵入は、当然警戒されている。
だが、その為の人員の多くは、城門を守るように配置されていた。
まさか総大将自らが単身乗り込んでくるなどと、誰が想像しようか。
人に出くわすより先にと、アランが庭園を走る。
目指すは、オスニエルの居室。
使用人用の通用口から城内へ滑り込み、薄暗い廊下を進む。
歩き慣れた居城を進む内に、人の気配を感じて、アランは思わず足を止めた。
アランとて、誰にも出くわさずにオスニエルの元まで辿り着けるなどとは、考えていない。
多少の血が流れることは、覚悟の上だ。
(やるか……)
気配を押し殺し、腰の剣に手を掛ける。
王城の一角に、張り詰めた空気が漂っていた。




