55、ピスルリ様御光臨
静かに眠っていた幻海の湖面がさざめき出す。
「お見えになるぞ…」
私達と共にフリケルが窓辺に並ぶ。
促されて幻海の上空を見ると雨雲が垂れ込めている。
雲は瞬く間に重みを増し、爆発的な下降気流を生み出した。
空気は湖面に向けて叩き落ちる。
その力の凄まじさは世界一の深さを誇る幻海の水を吹き飛ばし、湖底を見せる程である。
岸辺に寝かせてあるマリルドの事が心配だったが、爆発的な下降気流は極めて局所的であり、大きな湖の岸に横たえるマリルドは長く真っ直ぐな髪が靡く程度の風しか受けていない。
風が心地良いのか猿面から覗くマリルドの口元には笑みが見える。
吹き飛ばされた幻海の水は雲より高く立ち上がり、爆煙の滝となって再び幻海の中に落ちて行く。
水は空中で飛散して雨粒へと変わり、その水滴を浴びた湖畔の植物は生命の煌めきを放つ。
同じく雨粒を浴びるマリルドも煌めき、そしてゆっくりと立ち上がる。
気が付けば雨雲は消え、澄み切った空が広がっていた。
「上手くいったようだぞ」
フリケルが心配そうにしていたいすずの肩を叩く。
私の左肩も同時に叩こうとしていたようだったが、私は身を引いてそれを躱した。
足の治癒が終わったマリルドがツリーハウスに飛び込んで来る。
「よかったね!もう喋っていいってよ」
「もう走れるの?治るの早いね」
「なぁ、ピスルリがどこにいたかわかった?面の覗き穴が小さいせいでワタは見付けられなかった」
「ピスルリ様と呼べ。1万3千年もの間、この國の動植物を御守りして下さっている神のような御方なんだぞ。我々の前に顕現なされるはずがない」
ぱかんとマリルドの頭を叩くフリケルは何故か得意気で、扁平になった猪の鼻をふごふごと動かせている。
「なーんだ見れねぇのか」
「一説ではピスルリ様の御体は空の青さと同化していて近くにお越しになっていても我々人間は気付けないと言われているがな。よし、治癒を終えたんだ。全員席に着け。今後の段取りを伝える」
フリケルは黒マジョさんは海側に居ると言う情報を仲間達に伝えて共有していた。
しかし前回黒マジョさんによる被害が発生した区域はこの龍の背付近であり、ワルサーが示した地は現在警戒している地点から離れ過ぎている事から信用を得ることは出来ず、フリケルと私達3人が先行して該当地点へと向かう事になった。
「では君達、髪を1本ずつ差し出せ」
「えー、通話魔法石を交換するとか嫌なんだけど」
マリルドの率直な意見にフリケルは青筋を立てる。
「君の足の治癒に時間を取られたし、移動にも時間を要する。黒マジョさんがイサナが示したこの円の中心地点にいつまで留まっていかわからないだろう。この円の外周に君達3人を分散して配置して黒マジョさんの監視に当たって貰う。各自監視配置に就いた後、通話魔法石なしでどうするつもりだ?こちらは黒マジョさんを発見でき次第、君たちに出國の星の星を与えるつもりでいるんだぞ」
「アザーッす。これワタの魔法石ッす」
早くフリケルから解放されたいマリルドはその言葉を聞いて即座に通話魔法石を差し出す。
私もいすずと共に魔法石を差し出しはしたが、3人バラバラに配置すると言うフリケルの案には承諾出来ない。
「あのー、その計画ですがいすずは持病があるので1人にすることは出来ません。私とペアにして配置して下さい」
「持病?」
「突然ぶっ倒れます。見張り要員にいすずは向かないですよ」
「そうか…ならば何とかして対策を講じよう。君達も猿面を装備すると良い。万が一の時にはピスルリ様に助けて頂けるだろう。行くぞ」
理解はして貰えたが黒マジョさん捜索の免除は叶わないようで私といすずの2人も猿面を装着し、ツリーハウスから出るように促された。
フリケルが大槍を薙ぐと風の絨毯が生まれる。
私達を乗せた風の絨毯が飛び立つと桜のツリーハウスの中に風が流れ込む。
その風は壁に貼られた地図をはたはたと翻し、下に貼られた古い地図を見せる。
風が作る空気の層は不思議な弾性を持ち、座り心地がとても良い。
「風の絨毯」と言う名ではあるが速度は遅く、時速60㎞程度と穏やかだ。
だというのにワルサーはやはり飛ぶのは怖いようで左半身の感覚を遮断してしまう。
「最短ルートで北海へと向かうぞ。先ずは棚海が広がる谷を東に飛び、瘋癲の國との國境付近から北上する。ただし棚海上空からマリルドのような神域を犯す不届き者を見付けたら即座に捕獲に向かう。いいな」
気合を入れて言うフリケルに対し、猿面を着けた私達3人は間延びした返事をする。
気合い抜けしてしまったフリケルだったが気を持ち直し、その後は操縦と監視に集中する。
暫くは顰めっ面で無言を通していたフリケルだったが、私達の中身のないお喋りが落ち着いた所で口を開く。
「…君たち、もう宝石の海の石は手に入れたか?折角の機会だし、黒マジョさんの捜索が終わったら海辺で宝石を探すといいよ」
どうやらフリケルは私達の事を毛嫌いしている訳ではないらしい。
沈黙している間、ずっと若い私達が喜ぶ話題を模索していたようだ。
「えぇー!宝石の海の石だなんて…!」
フリケルの提案に何故かいすずが赤面する。
反してマリルドは宝石の海の石探しにやる気を見せている。
「いすずは探したくないの?」
「え、だって…宝石の海の石ってプロポーズするときに相手の人に渡すものやん。まだ早いっていうか、なんていうか…」
そう言っていすずは両手で蒸気する顔を隠す。
「相手が居なくとも早めに探しておく方がいいぞ。とびきり綺麗な石を探して北海に潜り続けている間に好きな女を他の男に連れ去られてしまった俺と同じ轍を踏みたくなければな」
「『俺』…?フリケルさんって前は男性だったんですか?」
「あぁ、そうだよ」
「おっさんダセェな」
「そうやっておっさんを馬鹿にしていられるのも今の内だけだぞ。あっという間に君も吾と同じ歳になるんだからな」
えー、いやだー!と笑う私達3人をフリケルが温かく見守る。
この世界の人々は探し集めた宝石の海の石の中で1番美しく力強い石を産まれてきた赤ん坊に授ける。
鉱山から産出される鉱石と違い、宝石の海に潜む石は赤ん坊の体に溶け込むのだ。
そうすることで人々は宝石や鉱石の色を髪に宿す事が出来ている。
そして赤ん坊に授ける為の石を未婚の者が交換し合う事は、結婚の約束を交わすという意味を持つのだそうだ。
「ねぇ、宝石を探しに行ってみようよ。とびきりの石が見付かるとは限らないしさ」
「誰が1番綺麗な石を見付けるか勝負な」
「えー!綺麗な石って深くて冷たい海の中にあるって言うやん。わたは泳げんし不利やない!?」
「稀に浜辺に打ち上げられることもあるから君は浜辺を探すといいよ。打ち上げられた角がない丸い鉱石を頂いた子は優しい子に育つと言うしな」
「へぇ、浜辺の鉱石もいいね。私も浜辺で探そうかな。マリルドは泳ぐの得意そうだし、綺麗な石を見つけられそうだね」
「別に得意じゃないよ。5分くらいしか潜れないし」
「君、やっぱりすごいじゃないか」
フリケルがマリルドの身体能力の高さに驚く。
褒められても平然としていたマリルドだったが、何かを見付けて急に立ち上がる。
「おっさん、あれ」
マリルドが指差す方を見ると人の影が森の中に見える。
フリケルは風の絨毯の飛行経路を変更し、人影の方へと針路を取った。
「でかしたマリルド。捜索人員を確保するぞ」
建前は神域を犯す不届き者の捕獲だった筈なのに迂濶にもフリケルは本音漏らしてしまう。
風の絨毯は飛行速度を上げ、私といすずは振り落とされそうになる。
片腕でいすずを抱き締めた私が何かに捕まろうとすると、巧みに風の絨毯に踏み留まるマリルドが手を差し伸べてくれた。
安堵したのも束の間、神域への侵入者の元へ辿り着くとフリケルは風の絨毯から飛び降り、私達3人は急停止した風の絨毯から振り落とされてしまった。
マリルドだけが急停止にも難なく対応し、フリケルの横に並び立って侵入者に身構える。
「な、なんだよお前達は!」
「黙れ侵入者め」
「え、何でマリルド取り締まる側の立場みたいな発言ができると!?」
無様に地に転がるいすずの驚愕の言葉に右半身を挺してワルサーの身の無傷を守り通した私は笑い転げる。
「そこの2人静かにしろよ」
「…いや、吾も君には驚いているよ」
マリルドの発言にフリケルは呆れながらも指を鳴らして魔法を発動し、侵入者を縄で拘束する。
「なんだこの縄!」
「ちょっと何!?なんでこのアタシを捕まえんのよ!」
「…ブタ…」
侵入者は3人。
旅行者であることから3人共無性別である筈だけれど、旅を開始する前までは性別を持っていたようで3人共一人称はその当時のままのものを使っている。
1人が元男性で、残りの2人は元女性のようだ。
「君達は許可なく神域を踏み荒らした。因って拘束する。罪を贖うか、永遠にこの地に留まり続けるか選べ」
私達とは逆ルートの東廻りで旅していると言う3人はフリケルの話を聞き、大人しく黒マジョさん捜しに協力する道を選んだ。




