吾輩はオタクである。
一話完結の連作短編です。
鳥目シアンから始まる、彼女たちの世界をお楽しみください。
吾輩はオタクである。
アニメも見る。ぬいぐるみも集める。イベントに足を運ぶこともある。一つの作品について、聞かれてもいないことを延々説明できる程度の知識もある。
もっとも、今どきオタクという言葉が何を指すのかは、吾輩にもよく分からない。
何か一つ好きなものがあって、それについて少し詳しければ、そう呼ばれることもある。今では、ずいぶん広い言葉になったらしい。
したがって、派手な衣装を着た女が、角だの耳だのをつけて画面の中で喋っていたところで、今さら驚くようなことはない。
VTuberという存在は知っていた。
動画サイトを使っていれば、おすすめ欄で見かけることくらいはある。随分と大勢いるらしいことも知っていた。
ただし、わざわざ見ようと思ったことはなかった。
吾輩がここで初めてVTuberというものを見たのは、ある夜のことである。
おすすめ欄に、やけに華やかな女がいた。
髪はローズピンクを思わせる色をしていて、服は白を基調に、ハートや金の飾りがあしらわれ、頭には姫君めいた飾りまで乗っている。そのうえ、よく見ると耳まで人間のものではない。魔界のお姫様という設定らしい。
ずいぶん盛ったものである。
もっとも、この程度なら吾輩も見慣れている。
カメラだかトラッキングだかで本人の動きを拾い、それを画面の姿へ反映している。そういう仕組みであることくらいは知っている。
知ってはいたのだが、実際にしばらく見ていると、どうも想像していたものと違う。
姿がどう動いているかなど、だんだん気にならなくなってくるのである。
「今日のわたくし、どこが一番かわいいと思う?」
画面の中の姫君がそう言った。同時に、横のコメント欄が急に流れ始める。様々な部位を褒めはじめ、終いには「姫は全部かわいい」などと言う。
「ふふん、そうでしょ。って、それ答えになってないじゃん!」
姫君は声を上げて笑った。
どうやら本当に姫君らしい。
姫君というものは、もっと静かに笑うものだと思っていた。少なくとも吾輩の知る姫はそうである。
もっとも吾輩は姫を一人も知らない。
しばらく見ていると、この姫君はひたすら喋っている。昨日食べた半額弁当の話をし、値段が高すぎて買おうか迷っている物の話をし、途中でコメントを読んでは話が横道に逸れる。
姫君であることは、どこに行ったのだろうか。
横道へ逸れた話が、さらに別の横道へ逸れる。
よくこれで話が続くものである。
「え、うそ。それ昨日も言ったって?」
「じゃあ今日初めて聞いたことにして」
随分と都合のよいことを言う。しかし、それで笑っている者がいる。
もう一つ気になったことがある。姫君は流れていくコメントの中から時々一つを拾い、名前を呼んで返事をする。
「初見さん?いらっしゃい。ゆっくりしてってね」
誰か一人に向けて言ったはずの言葉なのに、不思議とこちらまで言われたような気がした。
無論、吾輩のことではない。吾輩は何も書き込んでいない。
見ているだけである。
それでも少し姿勢を正したのだから、人間とは妙なものである。
吾輩は、途中で配信画面を閉じるつもりであった。少し見れば、どういうものかくらい分かると思ったのである。
三十分ほど経った頃には、おおよそ理解したつもりになっていた。
一時間経った頃には、まだ見ていた。
「またね。次もちゃんと会いに来るんだよ?」
配信が終わる頃、姫君はこちらへ手を振った。
最初は画面を見ていた。途中からは、別のことをしながら声だけ聞き、ときどき画面を見る程度になった。
こちらも、大したことはしていなかったと思う。
結局、何を見せられていたのかと問われれば、吾輩にもよく分からない。
にもかかわらず。
最後まで見てしまった。
それから数日して、吾輩はまたVTuberを見ていた。
別に先日の姫君が忘れられなかったわけではない。
おすすめ欄というものは、一度何かを見ると、似たような者を次々と連れてくる。吾輩が自ら探したというより、向こうから増えたのである。
そういうことにしておく。
その日、画面に現れた者は様子が違った。吾輩もVTuberというものが少し分かったつもりでいたが、今度の者は講義形式で寿司について語っている。
寿司。これなら吾輩にも分かる。
寿司といえば、握り、巻き。ネタで言えば、マグロ、サーモン。このあたりが王道だろう。少なくとも吾輩はそう思っている。
「そもそも、昔の寿司って今みたいなものじゃないんですよ」
開始早々、吾輩の知っている寿司が否定された。
話によれば、寿司はもともと魚を保存するためのものから始まり、やがて酢を使って短い時間で作るようになり、江戸では握ってその場で食べる形まで現れたらしい。
知っているつもりだったが、歴史まで深く考えたことはなかった。
「江戸前って、生の魚を切って酢飯に乗せれば完成、ってわけでもなくて」
画面の向こうの者は、楽しそうに話を続ける。
「コハダは酢で締めるし、マグロの赤身ならヅケにする。保存の工夫から始まったものも、今では江戸前の味として残ってるわけです」
「ワサビだって、ただの薬味じゃなくて、傷みやすい魚を食べるための工夫の一つだったりするんですよ」
コメント欄に、吾輩も頭の中で浮かべていた「トロは?」という疑問が飛んだ。
「あー、今みたいにトロありがたがってなかったんですよ。当時は脂が多くて傷みやすいし」
なるほど。時代が変われば魚の身分まで変わるらしい。
人間も魚も大変である。
盛り上がっているところに、別のコメントが流れた。
「昔ってサーモン食べなかったの?」
「その話すると北海道のルイベまで行っちゃうよ?」
ルイベまで行くと言った口で、今度は海苔の話を始めた。
「ちなみに、昔ながらの寿司屋でも、今使われている海苔がアサクサノリとは限らないんですよ。板海苔はスサビノリ系が主流なんです」
そう言いながら、実にうれしそうである。
吾輩にも覚えがあるので分かる。
ひとしきり海苔について語ったあと、ようやく昔の寿司へ戻った。そこから話は、江戸前という言葉の意味へ行き、冷蔵技術へ行き、なぜ魚に仕事をする必要があったのかというところまで進み、気がつけば現代の回転寿司にまで来ていた。
講義にしては随分と横道が多い。
もっとも、先日の姫君も横道ばかりだった。
VTuberというものは、まっすぐ話すことを禁じられているのであろうか。
気づくとコメント欄には、こちらより一歩先の話をしている者もいた。そこへ別の者が、何やら資料の名前らしきものを書き込む。
「え、それ知らない。あとで見ます」
これほど詳しく喋る者なら、寿司については大抵のことを知っているものだと思っていた。知らないものは知らないと言い、視聴者から教わったことまで普通にメモを取っている。
詳しい者の周りから、別の知識が次々と飛んでくる。
講義というものは、もっと一方通行で退屈なものだと思っていた。少なくとも吾輩が眠気と戦いながら受けてきた講義の多くは、そのような形であった。
そのくせ話題の半分は、
「結局どの寿司が一番好きか」
などという、講義とは到底思えぬものである。
「私はね、最終的には玉子なんですよ」
随分と語った末に、結論は好みであった。
玉子を見れば店の仕事が分かる、なんて話もあるらしい。
もっとも、その話を聞いたせいで、吾輩は次に寿司屋へ行ったら玉子を頼んでみようと思っている。
この点については、少々癪である。
癪ついでにプロフィールを覗くと、何やら寿司の検定まで持っているらしい。道理で詳しいわけである。
そこで吾輩は、ふと先日の姫君を思い出した。
同じVTuberと呼ばれているが、していることは随分違う。それでも、どちらもよく喋る。
どうやらVTuberとひとまとめにして考えるのは、少々乱暴であるらしい。
もっとも、オタクというだけで皆同じ感性を持っていると思われるのも、吾輩としては甚だ心外である。
……先ほどまで同じことをしていた吾輩が言えた義理ではないが。
その次に見た者は、雑談の途中で服の話をしていた。
「ここの飾り、結構動くんだよ」
衣装は随分と布地が少ない。そう言いながら、少し身体を横へ向ける。腰のあたりについた細い紐まで一緒に揺れた。
「あとね、ここもちゃんと動くんだよ」
今度はその場で少し身体を揺らした。途端にコメント欄の流れが速くなる。
「助かる」
「確認しました」
何を確認したのかは、説明されずとも分かる。
実にけしからん。
とはいえ、けしからんと感じるためには、吾輩も相当熱心に画面を見ていたことになる。
この点については考えないことにした。
また別の日、吾輩は一本の歌ってみた動画を開いた。
おすすめ欄に、見覚えのある曲名があったからである。歌っている者については知らなかったが、その曲なら吾輩も知っていた。
プロフィールには、VSingerと書いてあった。VTuberとは、また少し違うらしい。
ずいぶん特徴のある声である。少し癖があって、一度聞けば覚えそうだ。しかし歌い始めると、その癖があまり気にならなくなる。
原曲では軽く流していたところを、この者は少し強く歌う。逆に、盛り上がるはずのところを抑えている箇所もあった。
先ほどまで気になっていた声も、歌の中ではすっかり収まりがよかった。
雑談、講義、歌。まだ色々いるようである。
それから何日かして、吾輩は最初に見た姫君の配信をまた開いていた。
相変わらず、よく喋っている。
今日はいい写真が撮れたという話をしていたかと思えば、その写真から何かを思い出したらしく、いつの間にか昔あった不思議な出来事の話になっていた。
最初に見たときは、こういうものがVTuberなのだと思っていた。
しかし、その後に見た者たちは随分と違っていた。
どうやら、吾輩が最初に思っていたほど、型の決まったものでもないらしい。
それなら、吾輩にも何かしら話せることはあるだろう。
そう考えると、急にやることが具体的になった。
まず、マイクがいる。
調べてみると、マイクにも種類がある。吾輩にはまだ違いがよく分からないので、とりあえず配信向けと書いてあるものを一つ選んだ。
配信にはOBSというものを使うらしい。こちらは無料である。実にありがたい。
さらに調べていると、ストリームデックなるものまで出てきた。画面を切り替えたり、マイクを切ったり、ボタン一つで色々できるという。
必須ではないらしい。
……これも頼んでおくか。
こうして調べてみると、配信に使う道具は思っていたより多い。
もっとも、買って済むものなら話は早い。選んで、揃えればよいのである。
さて、その先である。
何をするかは、始めてから考えてもよい。
まずは、名前である。
これは簡単だと思った。配信で何をするかに比べれば、呼び名を一つ決めるだけである。
試しに、思いついたものを一つ書いてみる。
悪くない。
――いや、少し格好をつけすぎている。
これを毎回名乗るのである。三回ほど声に出してみたところで、やめた。
次は、もう少し普通のものにした。
こちらは名乗りやすい。ただ、検索してみると似た名前がいくらでも出てくる。これでは誰のことか分からない。
漢字を変えてみる。読み方も少し変えてみる。
――今度は、初めて見た者が読めるのか気になってくる。
たかが名前一つに、ずいぶん条件が増えたものである。
何度か書き直しているうちに、最初に考えた名前が一番マシだったような気もしてきた。もう一度戻してみる。
やはり違う気がする。
吾輩はしばらく画面を眺め、それからまた消した。
名前はまだない。
ここでしか見えなかった時間は、別の話に続いているかもしれません。
気になったことがあれば、もう一話だけいかがでしょうか。




