第27話(四)「木沢の帳面」
――弥生(三月)二十五日の、朝である。
机の前へ、十二人ばかりが並んでいた。
昨日の帳から呼び出した者どもである。手に職の欄に、字が書ける、算用ができる、と書き取ってあった者を拾った。
訊くことは、一つに決めた。
書かせるだけである。
「――これを、写されよ」
紙を一枚ずつ渡す。写しの元は、去年の平群谷の帳から一行だけ抜いたものであった。数と、月と、郷の名が入っている。
一人目は、字が大きく、行が下がった。
二人目は、数のところで筆を持ち替えた。
三人目は、月の字を略さずに書いた。
光秀は、書き上がったものを順に脇へ寄せていく。寄せながら、抜いてきた元と見比べた。見るのは字の上手下手ではない。数のところで筆がどう止まるか、である。
銭を扱ったことのある者は、数の前で必ず一度、筆を浮かせる。
浮かせぬ者は、字が読めるだけの者であった。
昼までに、二十二人。
次郎太が、そのころ一度、机の脇へ来た。
「――朝の炊き出しで、九石にござります。あと、三日と半分」
言ってから、そこを動かなかった。
「……半分と申しますのは、その、暮れの一度は出まするが、翌る朝は」
「分かっており申す」
「は」
次郎太は、頭を下げて戻っていった。
半分という言いかたを、この男は昨日からするようになっている。半分でも数に入れておけば、無いと言わずに済むからであった。
夕までに、二十九人。
「……これだけ揃えば、もうよろしいのではござりませぬか。二十九人にござる。……手前も、そろそろ書く手がきき申さぬ」
と、書役の一人が言った。
「数は揃うた。……この二十九人で、去年の締めが立つか」
書役は、答えなかった。
答えられぬのが、答えであった。
なにゆえ、いま去年の勘定なのか。
飯だからである。
この山の三千人は、あと四日で米が尽きる。その先を食わせられるかどうかは、今年の年貢が幾ら入るかで決まる。そして今年の高は、去年の締めが立たねば出ない。
年貢は、立てた高をそのまま取るのではない。免じた分、水や虫でやられた分、納まらなかった分を一つずつ確かめて引き、現地で使うた分をさらに差し引く。そのうえで、前の年の納まらなかった分を足す。
一年ぶんのそれを勘定しきって、残りと不足に決着をつけることを、帳を閉じる、という。
閉じて、はじめて今年の高が立つ。
木沢の去年の帳は、閉じていない。
引く数が、決まらぬからであった。
引く数は、郷へ行って見なければ出ない。その郷が、いま焼けているか、人がいない。去年の秋、木沢は田から人を取って河内へやった。取られた田は起こされておらず、それを見て回る役の者は、太平寺で死んだか、散った。
数が決まらぬから、帳が閉じない。
閉じねば、今年の年貢が立たない。
今年の年貢が立たねば、この三千の口に、いつまで飯を出せるかも決まらない。
――そこまでは、算えた。
算えて、光秀は次を算えた。
閉じるには、去年その帳を書いた者が要る。
書いた者は、この山にいる。
いるのに、出てこない。
二十九人のうちに、木沢の役に就いていた者は一人もいなかった。
寺で習っただけの者、在所の子弟、荷の受け取りを書いていた者——そういう者どもである。
訊いてはある。
八日前から光秀の机の脇に坐っている書役の二人は、この城で帳を付けていた者どもであった。
「――そこもとらの上に、判を据える御方がおられたはずじゃ。名を伺いたい」
二人は、筆を止めた。
止めて、答えなかった。
一人が硯へ筆を戻し、もう一人は戻しもせずに持っていた。それきりである。
押せば、言うであろう。
言わせたところで、名を言うた者と言われた者の両方が、明日から使えなくなる。
光秀は、それ以上訊かなかった。
――出てこぬのではない。出られぬのだ。
それはそうであろう、と光秀は思った。
字が書けると言うのは、損にならない。
木沢の帳を付けておりました、と言うのは、損である。
書けると知れれば使われる。それだけならよい。木沢の名で判を押しておりました、と言えば、こんどは咎が来るかもしれぬ。誰が咎めるかは分からぬが、分からぬから怖い。
主が討たれて、七日である。
七日のあいだに木沢の帳を付けていた者どもが見たのは、城が開き、主の一門が斬られ、旗が立ち、飯が出るようになった、ということだけであった。
明日どうなるかは、誰も言っていない。
だから、黙っている。
列の終いに、一人残っていた。
右の袖が、肘のところで結んである。
その男は、机の前へ来て坐り、左の手で筆を取った。
書きはじめると、字が震えた。
線が波打ち、行が斜めに落ちていく。書き終えるまでに、ほかの者の三倍かかった。
光秀は、それを受け取った。
受け取って、数のところを見た。
線は波打っているのに、十と百の並びだけが、寸分ずれていない。
「――右は、いつじゃ」
「太平寺にござります。押し合いになりましたところで、後ろから来た馬に踏まれましてござります。……刀では、ござりませぬ」
男は、そこで少し笑うような顔をした。
「持って行かれましたのは腕だけにござりますれば、勘定のほうは、こちらに残ってござります」
男は、左の掌を上に向けて見せた。
光秀は、名の下に丸を一つ付けた。
付けただけで、何も言わなかった。
*
その夜、光秀は束を繰り直した。
判の無い控えを、判のあるものと突き合わせていく。
判のある帳は、表へ出す帳である。上へ差し出すために清書したもので、書いたのは右筆であることが多い。
判の無いほうが、要る。
控え、下書き、書き損じ——上へ出さぬために手元へ置いたものである。数が細かく、消した跡があり、余白に「見に行くべし」などと己あての覚えが書いてある。
その手が、六つ出た。
六つのうち、三つは同じ手であった。
残る三つは、それぞれ別。
合わせて四人。
四人で、河内と大和と山城を回していたことになる。
光秀は、灯を近づけた。
三つ同じだったほうの手を、もう一度見る。
字は、上手ではない。ただ、行の頭がどこまでも揃っている。紙の縁から同じ幅で始まり、途中で乱れない。何百枚と書いた者の手であった。
余白に、細かい字がある。
――未進、四十三石。ただし郷、焼く。改めに行けず。
書いた日は、去年の霜月である。
その下に、同じ手で、もう一行。
――卯月、改める。
卯月は、来月であった。
――弥生(三月)二十六日。
朝から、光秀は帳場へ出なかった。
城の広間へ回り、木沢秀種のところへ行った。
「――今日から三日、机の上座にお坐りいただきたい。飯の刻の前に出て、暮れまでおいでいただければ足り申す」
秀種は、意味が分からぬという顔をした。
「坐って、何をいたす。人別なら、そこもとの役であろう」
「何もなさらずともよろしゅうござる。手前が訊き、手前が書き申す。御身は、そこにおられればよい」
「……訳を伺うても、答えては下さらぬのであろうな」
「申し上げぬほうが、効き申す。……効かねば、あとで笑うていただきたい」
秀種は、しばらく黙っていた。
「――坐るだけで、人が出てまいるのか」
「出てまいります」
「……木沢の名で、か」
光秀は、答えなかった。
答えぬのが答えであることは、この若い一門にも分かったらしい。
秀種は、膝の上の手を一度、握って開いた。
叔父を斬った手である。
その手で、叔父の名を看板にする。
黙ってから、うむとも何とも言わずに立った。
この二日で、この若い一門が人に問われて理由を教えられなかったのは、これが二度目であった。
机は、三つ並べたところへ、もう一つ足した。
足した机は、他の三つより半歩前へ出して据えた。
そこへ、秀種が坐る。
光秀は、その脇に立ち、坐る前に一度、頭を下げた。
深くはない。
だが、並んでいる者から見えるだけの深さで下げた。
それから筆を取り、目録の一行目に書いた。
一、木沢秀種
書いてから、束の上へ置いた。置いた束は、机の端の、いちばん人の目に触れるところへ寄せてある。
昼の飯は、秀種の名で出させた。
「秀種様の御差配にて、出しまする」
と、椀を配る者に言わせた。
言わせただけで、光秀は何も足さなかった。
誰も、何も訊かなかった。
列は昨日と同じ速さで進み、同じように噛む音がして、同じように散った。
その日、机の前へ来た者は、一人もいなかった。
いや、来た者はいる。
飯を受ける者、名の書き替えを頼む者、在所へ帰る断りを言いに来る者——それは昨日と同じだけ来た。
字が書けると言いに来た者が、一人もいなかった。
光秀は、暮れまで待った。
日が落ちて、待つのをやめた。
やめてから、束の角を揃えた。
揃えてから、もう一度揃えた。
――外したか。
外したのであろう、と思った。
人は、下げた頭一つで動くものではない。動くのは、明日の飯が変わるときだけである。それを、二上山へ来てからの三日で見てきたはずであった。
寝る前に、もう一度だけ、判の無い控えを見た。
卯月、改める、と書いてある。
書いた者は、来月そこへ行くつもりでいたのである。
主が三月に死ぬとは、思っていない。
*
――弥生二十七日の、朝である。
二人、来た。
一人は五十がらみ、一人は三十そこそこである。
二人とも、机の前で膝をついてから、しばらく口を開かなかった。
先に言ったのは、若いほうである。
「……手前は、信貴山で木沢様の帳を預かっておりました。杢助と申します。こちらは、同じ部屋で紙を継ぎ、束を綴じておりました者にござります」
声が、掠れていた。
光秀は、筆を置いた。
「二人だけか。……よい、責めておるのではない。訊いておるだけじゃ。木沢の帳を付けておったことで、こちらが咎めることはせぬ」
若いほうが、顔を上げた。
「昨日、秀種様が机の上座におられましたゆえ、二人で話しましてござります」
膝の上で、指が動いた。
「……木沢の御名がまだ立っておるのなら、その御名で帳を付けておったことも、まだ咎にはならぬのであろうと。それで、今朝までに腹を決めましてござります」
光秀は、うなずいた。
うなずいて、何も言わなかった。
二日かかった、と思っただけである。
二人を書役の脇へ坐らせ、去年の平群谷の三通を出して、どれが上げたものかを訊いた。
二人は、すぐに判の無い一通を指した。
「これは、上げるほうではござりませぬ。この御方は、上へ差し出す帳をお書きになりませぬゆえ。……清書は、いつも別の者が引き受けておりました」
「その者の名を、聞かせてくれぬか」
「奥野様と申されます。惣算用を長らく預かっておられた御方にござります」
光秀は、筆を取った。
取って、名を書いた。
「――どこにおる」
二人は、顔を見合わせた。
見合わせてから、若いほうが言った。
「……存じませぬ。信貴山におられたはずにござりますが」
その日は、それきりであった。
あとの五人は、まだ出てこない。
■用語解説
・右筆…武家で書状や帳面を書くことを役目とする者。主に代わって筆を執り、文書の作法と先例を身につけた実務の要である。家が滅べば、その者の手だけが紙の上に残った。
・手…筆跡のこと。「手が良い」「見覚えのある手」のように使う。花押や印と違って隠しにくく、書いた者を知る手掛かりになった。




