第27話(五)「木沢の帳面」
――弥生(三月)二十七日の、昼である。
その男は、櫃の脇にいた。
帳場の莚の、いちばん端である。日除けの幕から半歩はみ出したところで、片肩にだけ日が当たっていた。
いつからいたのかは、分からない。
莚の端に坐り、膝の上へ板を載せ、その上で書いている。脇に束が二つ積んであり、一つは開いて、上から三枚目のあたりに指が挟んであった。
光秀が近づいても、顔を上げなかった。
四十がらみである。痩せて猫背で、指の先が黒い。墨が爪の際まで入り込んでいて、洗って落ちる色ではなかった。
筆の運びが、速い。
速いが、急いではいない。数のところで一度浮かせ、下ろし、また浮かせる。一昨日、二十九人を試したときに見ていた止まりかたが、この男には全部あった。
「――何を、書いておられる」
男は、答えなかった。
聞こえなかったのかと思い、光秀はもう一度、少し近くで言った。
男は、左の手を上げた。
掌をこちらへ向けて、それだけである。
待て、という手であった。
松永の名で来ている者に向かって、この男は手で待てと言ったのである。
言ったことに、気づいてもいない。
行の終いまで書いて、筆を置き、それから頭を下げた。
「去年の帳にござります。平群谷と葛下の郷が、まだ立っており申さぬ」
言って、書きかけの行を指でなぞった。
「……水と虫でやられた分と、納まらなんだ分が決まりませぬ。引く数が出ねば、締めが書けませぬ」
光秀は、その板の上を見た。
書きかけの一行に、未進の数が入っている。数の下は、空けてあった。
「なぜ、書いておられる」
男は、少し顔を上げた。
訊かれた意味が分からぬ、という顔であった。
「……書かねば、合いませぬゆえ」
名を訊いた。
奥野正次、と答えた。
今朝、若い者が言うた名である。
「――信貴山から、櫃に付いて参られたか。誰ぞに命じられて来られたのであれば、その者の名も伺いたい」
「命じた者はござりませぬ。櫃を山へ下ろすと聞きましたゆえ、荷の後ろに付いて歩いて参りました。……止める者も、おりませなんだ」
「なにゆえ、付いて来られた」
男は、そこで筆の穂先を見た。
見てから、言った。
「……帳と離れる訳を、思いつきませなんだ」
光秀は、それきり訊かなかった。
訊いても、この男から出てくるのは同じ形の答えばかりであろうと分かったからである。
昼の飯が来た。
奥野は、握り飯を二つ受け取ると、板を膝から下ろし、莚の端まで下がって坐り直した。
束から三尺ばかり離れている。
そこで食った。
掌を上に向け、下から口へ運ぶ。落ちたものがあっても、束のほうへは落ちない位置であった。
二つのうち、一つを食った。
もう一つは、袂へ入れた。
「……夜に数えますと、腹が減りますゆえ」
訊いてもいないのに、そう言った。
食い終わると、指を袴で拭いた。
拭いてから、その指をもう一度見た。
見て、それからようやく束のほうへ戻った。
三十年の癖である。
この男は、身分でも忠義でもなく、この癖で三十年立ってきたのであろう、と光秀は思った。
午後、光秀は帳場へ坐らせた。
坐らせて、去年の平群谷の三通を出した。
「これは、そこもとの手か」
「判の無いのが、手前にござります。あとの二通は上へ差し出すほうにござりますれば、右筆が清書いたしました」
「そこもとは、清書はせぬのか」
「いたしませぬ。字が悪うござりますゆえ、上へ出す物には向きませぬ」
言いようが、卑下ではなかった。事実を言っているだけの声である。
光秀は、束の中から一枚を抜いた。
昨日、灯を近づけて見た一枚である。余白に、細かい字がある。
――未進、四十三石。ただし郷、焼く。改めに行けず。
――卯月、改める。
「これは」
「手前にござります」
「卯月、改めると書いてある」
「行くつもりにござりました」
「行けるか」
奥野は、そこではじめて黙った。
黙ってから、言った。
「……郷が、まだござりましょうか」
光秀は、答えなかった。
答えられなかったのである。
「――閉じられたら、そこもとは何をなさる」
訊いてから、光秀は己が何を訊いたのかに気づいた。
奥野は、板の上の書きかけを見ていた。
「……閉じてしまえば、手前の役は終いにござります」
声が、平らであった。
「去年の分が立ちませぬゆえ、今年の分も立ちませぬ。今年が立ちませぬゆえ、来年も立ちませぬ。……その先までは、まだ考えておりませぬ」
考えていないのではない。
考えずに済むところに、この男はいる。
主が死に、家が無くなり、行く先も無い。無いのだが、目の前に閉じられぬ帳が一つあって、閉じられぬかぎり、明日も同じ場所へ坐ってよい。
――救われておるのじゃ。
光秀は、そう思った。
思って、それを口にしなかった。
*
「――そこもとの下におった者は、幾人おられた」
と、光秀は訊いた。
「帳面を扱う者は、七人にござりました。二人は太平寺で討たれ、三人は散ったと聞いてござります」
指を折るでもなく、そらで言った。
「一人は筒井の御方へ参ったと申す者がおりましたが、これは確かではござりませぬ」
「なれば、残るは」
「手前と、もう一人にござります。下の、坂の途中におりまする。……昨日、飯の列で見かけましてござります」
「名は」
奥野は、そこで少し黙った。
「……名では、出て参りますまい」
「なにゆえ」
「名を呼べば、呼ばれた者が一人、立ちまする」
奥野は、筆の穂先を見た。
「いま入り用なのは、一人にござりましょうか」
言いようが、詫びてもいなければ、驕ってもいなかった。
十一年、同じ部屋で銭の受け取りを書いていた者どもである。一人ずつ呼び出すより、一度に立たせるほうが早い——それだけの話をしている顔であった。
光秀は、筆を置いた。
「――なれば、何と呼ばれる」
「役で」
「呼んでいただけるか。……こちらが呼んでも、出て参らぬ」
「呼べまする」
奥野は立ち上がり、莚を降り、坂のほうへ二十歩ばかり歩いた。
歩いて、坂の下へ声を出した。
「――去年の受け取りを書いておった者」
名では、呼ばなかった。
役で、呼んだのである。
声は、大きくない。
だが、坂の途中で人が動いた。
一人立ち、その脇でもう一人立ち、少し離れたところでまた一人立った。
立ったのは、五人であった。
五人は、机の前まで来て並んだ。
並んでから、誰も何も言わない。
言う役は、奥野のほうにあると思っているらしかった。
「――そちらの五人は」
「みな、手前の下で帳面を扱うておった者どもにござります。……三人は散ったと聞いてござりましたが、戻っておったようにござります。筒井へ参ったと申しておった者も、そこにおりまする。手前も、いま知り申した」
奥野は、五人のほうを見なかった。
見ずに、束のほうへ戻ろうとした。
光秀は、それを止めた。
「――待たれよ。……こちらは二日かけて、出てきたのは二人であった。そこもとは一声で五人じゃ。何をなされた」
奥野は、少し考えるふうをした。
考えてから、言った。
「手前が呼びましたゆえ、出て参ったのではござりますまい。……呼んだ者が、まだ帳を付けておりますゆえ、あの者どもも、まだ付けてよいのだと思うたのでござりましょう」
*
その日の暮れ、勘助が上がってきた。
杖を突いて帳場の脇に立ち、坐りもせずに、机の上の束を見ていた。
「――八人になったと聞いた。一人が五人を連れて参ったか」
「連れて参ったのではござらぬ。呼んだだけにござる。……名も呼んでおりませぬ。去年の受け取りを書いておった者、と言うただけにござる」
勘助は、鼻から息を出した。
笑ったのではない。数を確かめたときの、この男の癖であった。
「なれば、あと二百人ぶんの筆試しは要らぬな」
勘助は、杖の先を莚の縁へ当てた。
「二十九人を拾うのに、そこもとは二日かけた。あの男は一声で五人出しておる。……人を揃えるには、頭を一人取れば済むということじゃ」
言われて、光秀は少し黙った。
黙ってから、言った。
「……済み申さぬ」
声が、少し低くなった。
「頭ごと来るということは、木沢の帳の付けかたが、そのまま動くということにござる。書きようも、除きようも、どこを空けておくかも、みなあの男の流儀にござろう」
「悪いか」
「悪うはござらぬ。ただ、こちらが選んだのではのうて、向こうが束のまま――」
そこで、続きが出なかった。
言葉にすると、己がいま何を望んだのかが、はっきりしてしまうからである。
勘助が、束のほうへ顎をやった。
「米は、どこまで見えた」
「今日を入れて、あと一日にござる。……明日の暮れで、山の米は終いにござる」
光秀は、束の上へ手を置いた。
「……その先は、鵤の法隆寺にござる。一昨年の暮れから、木沢が三度に分けて預けており申した。三百石は超えると、河内から持ち帰った帳より読み申した」
勘助が、はじめて身を乗り出した。
「預けた先は、寺じゃな」
「寺にござる」
「……厄介じゃ」
言ってから、勘助は付け足した。
「――使いが、二つ入っておるそうな。河内の遊佐長教と、榎並の三好政長じゃ。……木沢を討ったのは、遊佐じゃ。政長どのは、太平寺には出ておられぬ」
それだけ言って、勘助は杖を突き直した。
攻め口の無いものを前にすると、この男は数を算えはじめる。坊が幾つ、僧が幾人、道が何里、と口の中で言っているのが、離れていても分かった。
光秀は、奥野を呼んだ。
「――法隆寺の米のことを、伺いたい」
奥野は、板を膝に載せたまま顔を上げた。
「預けてござります。一昨年の暮れに百二十石、去年の夏に八十七石、秋に百二十石。都合三百二十七石にござります」
数を、そらで言った。
「預けた証は、残っておるか」
「預状が三通ござります。こちらに三通、寺に御控えが三通、合わせて六通で一組にござります。……一組が揃わねば、寺は出しませぬ」
「その三通は、誰が書いた」
光秀は、そこで一度、息を置いた。
「手前にござります。三通ともにござります。……納めに参ったのも、手前にござります。三度とも、寺の納所の御方と、庭で数を突き合わせましてござります」
「――顔を、知られておるか」
「一度目に十日、二度目に六日、三度目に八日、寺に泊まっておりますれば」
言いようが、自慢でもなければ、頼みでもなかった。
書いたのは己で、運んだのも己で、数えたのも己である——それだけのことを言っている声であった。
答えてから、奥野は顔を上げた。
この男が、己から何かを訊いたのは、これがはじめてであった。
「――一つ、伺うてもよろしゅうござりまするか」
「うむ」
「この帳は、どなたの物になりまするか」
光秀は、すぐには答えなかった。
木沢は無い。二上山の城は、いま松永が預かっている。だが預かっているだけで、宛がわれてはいない。三千の口も、この束も、誰の物とも決まっていない。
「……いまは、決まっておらぬ」
「左様にござりまするか」
奥野は、それだけ言って筆を執った。
顔は、動かなかった。
筆を持つ手だけが、次の行へ移っている。
決まっていないのなら、決まるまで書くだけである——そういう手であった。
――己も、これに近い。
光秀は、そう思った。
主を替えて生きてきた。替えるたびに、前の主の帳を閉じ、次の主の帳を開いてきた。閉じるのが上手いから、次が来る。
違うのは、一つだけである。
この男は、次を待っていない。
奥野は、隠さなかった。
隠さぬかわりに、こちらへ差し出しもしなかった。
訊かれたから答えた、というだけである。
帳に書いてあることは、この男にとって、誰に対しても同じであった。
*
勘助が坂を下りたあと、光秀はしばらく机に坐っていた。
灯を寄せ、六通で一組になるという預状の話を、束の中で探した。
控えは、すぐに出た。
三通とも、同じ手であった。行の頭が、どこまでも揃っている。
ただし、これは奥野の手控えである。
寺へ差し出す預状の三通は、櫃の底にも無かった。寺が持っているのは寺の控えのほうで、こちらの三通が無ければ、六通で一組にならぬ。
――揃わぬ。
揃わぬものを揃えるのは、紙ではない。
――明日、この帳場に別の主が坐ったとしても。
この男は、同じ顔で、同じことを答えるであろう。
そう思ったとき、光秀の背に、わずかに寒いものが通った。
欲しかった男である。
欲しかった男が、誰の物にもならぬ、というだけのことであった。
■用語解説
・算用…年貢や兵糧の出入りを勘定して、一年の締めを立てること。またその役の者を算用者という。立てた高から、免じた分・災害で損なった分・納まらなかった分を引き、現地で使うた分をさらに差し引いて、前の年の未納を足す。戦のたびに要るのは兵だが、戦のあとに家を保つのは、この者どもである。
・預状…物を預けた証として、預けた側が受け取る書付。寺へ兵糧を預けるときは、預けた者・受けた寺・立会いの三方で控えを持ち合った。紛れれば、書いた者の手が最後の証になる。




