第27話(六)「木沢の帳面」
――弥生(三月)二十八日の、朝である。
飯の列を、勘助が見ていた。
杖を突いて、曲輪の端に立っている。坐りもせず、動きもせず、四半刻ばかり、そこにいた。
光秀は、少し離れて立っていた。
列は、昨日と同じである。釜が四つ、列が四本。坂の途中まで伸びて、前が詰まり、また戻る。
同じにしか、見えない。
「――光秀どの」
と、勘助が言った。
「あの列は、誰が並べた」
「並べた者はござらぬ。釜が四つゆえ、四本に分けて、あとは早う来た者から順に並んでおるだけにござる」
「そう見えるか」
「そうとしか、見え申さぬが」
勘助は、杖の先で、二本目の列を指した。
「なれば、あの列の前から七人目を見ておられよ。……あれが動くと、後ろの四人が動く」
光秀は、そちらを見た。
七人目の男が、椀を持ち替えた。
持ち替えただけである。
だが、その後ろの四人が、揃って半歩、前へ詰めた。
「……たまたまにござろう」
「三日、同じじゃ」
勘助は、こんどは三本目を指した。
「あちらは、前から十二人目。あれが下がると、六人下がる」
言われたとおりになった。
「――なにゆえ、分かり申す」
光秀は、訊いた。
訊いてから、己の声が少し高くなっているのに気づいた。
「五日も同じ釜で炊いておれば、並ぶ順というものは決まってしまう」
と、勘助は言った。
「決めたのは、こちらではない。向こうが、勝手に決めておるのじゃ」
勘助は、杖の先を土へ入れた。
「人は、知らぬ者の後ろには並ばぬ。知っておる者の後ろへ寄る。……寄れば、その者が動いたときに、一緒に動く」
「なれど、名も役も分かり申さぬ」
「名は、要らぬ。誰が動けば何人動くか、それだけ見ておればよい。……名は、そこもとの帳に書いてござろう。あとで突き合わせればよろしい」
光秀は、帳を開いた。
開いて、二本目の列の、前から七人目を目で追った。
名は、書いてある。在所も、齢も、手に職も書いてある。
書いていないことが、一つあった。
――この者の言うことを、何人が聞くか。
己が四列を立てたとき、その一列を思いつかなかったのである。
思いついていたとしても、訊きようがない。
「……そこもとには、幾人まで見えており申す」
「五十人ばかりじゃ。……いや、五十一人じゃ。三本目の後ろに、もう一人おる」
言い直しかたが、算えた者の言い直しかたであった。
*
午後、曲輪へ集めた。
集めたのは、勘助が指した五十一人と、その者どもが動かす者どもである。合わせて千人を超えた。
秀種が、前へ出た。
名は呼ばない。
在所を呼んだ。
「――平群の」
声は、大きくない。
だが、列の中ほどで一人立った。四十半ばの、日に焼けた男である。顔の下半分だけが白く、そこに兜の緒の跡が残っていた。
椀を置いた手が、爪の際まで黒い。洗って落ちる黒さではない。指の節が太く、親指の腹が平たく潰れていた。鍬の柄が、そこへ十年当たっている。
男が立つ前に、その後ろで十七人が立っていた。
返事より、先である。
光秀は、それを見ていた。
見ていて、背に来るものがあった。
「――荒木助左衛門と申します」
男は、そう名乗った。
「木沢の御被官であられたか」
「被官ではござりませぬ。判をいただいたことも、扶持を頂戴したこともござりませぬ。……手前どもは、田を持っており申す。田のあるところに、おり申す。それだけにござります」
言いかたに、含みは無かった。
昨日までは木沢の下にいた。木沢が無くなったので、いまは誰の下にもいない。田は動かぬゆえ、己も動かぬ——そう言っている声であった。
光秀は、帳を見た。
この男の名は、八日前に既に書いてある。名も、在所も、齢も、手に職も。
書いてあるのに、八日、何も分からなかった。
「――明日から、この山の内の差配を預ける。銭は出ぬ。米が出る。日に五合、組の者にもそれぞれ五合。旗を持つ者には、そのうえに五合じゃ」
と、勘助が言った。
荒木は、うなずいた。
うなずいただけであった。
「それから、扶持を出す。……当座は少ないが、追って沙汰する」
荒木の顔が、そこで動かなくなった。
動かぬまま、しばらく黙っていた。
「……扶持は、頂戴いたしませぬ」
「なにゆえじゃ。米より、そのほうが確かであろう」
「扶持を頂戴いたせば、その御方の家来にござります。家来は、御下知のあるところへ参らねばなりませぬ」
声は、低い。
「明日は摂津、明後日は河内と申されれば、参るよりほかござりませぬ。……手前どもは、田のあるところにおり申す。田は、動きませぬゆえ」
*
勘助は、それを聞いて、しばらく杖の先を土へ入れていた。
「――その田は、いま誰の物じゃ」
「木沢様の御下にござりました。……その木沢様が、もうござりませぬ」
「なれば、いまは誰の物じゃ。そこもとが持っておるのか、それとも、まだ誰の物でもないのか」
荒木は、答えなかった。
答えられぬのである。
主が消えた田は、誰の物でもない。誰の物でもない田は、明日、誰かが来て「己の物である」と言えば、その者の物になる。
筒井が来るか、越智が来るか、それとも三好が来るか。
この男が欲しいのは、銭でも米でもなかった。
「――安堵が、要るか」
と、勘助が言った。
荒木は、はじめて顔を上げた。
「頂戴できまするので」
「拙者では、出せぬ」
座が、静かになった。
「拙者は、家来の家来にござる。田を宛がう物は一段も持っておらぬし、宛がう筋も持っておらぬ。……出せる御方は、上におられる。そのまた上にも、おられる」
「なれば、その御方に申し上げていただけますか」
「取り次ぐ。……取り次ぐと申したのは、取り次ぐという意味じゃ。通ると申したのではない。そこは、聞き違えて下さるな」
光秀は、机の脇でそれを聞いていた。
聞きながら、この男は覚えたのだ、と思った。
三日前、万歳の使いが同じことを言いに来たときも、この男は「殿がなさる」と言って、その場では何も約さなかった。以前のこの男なら、その場で約していたはずである。
だから、そこで終わると思った。
終わらなかった。
「――通らなんだときは」
と、勘助が言った。
「銀で、雇い申す。一人に二十粒、年に二度。組の者にはその半分じゃ。……安堵が下りぬあいだは、それを出す。下りたら、やめる」
光秀の指が、止まった。
粒は、一つで米一斗になる。頭ひとりで年に四十粒、米にして四石である。
田を持つ者の実りには、遠く足りぬ。足りぬが、田を持たぬ年を一年、越せる。
荒木は、動かなかった。
動かぬまま、目だけを上げた。
「……銀は、見た者がござります。谷で、噂になってござりますれば」
「なっておろうな」
勘助は、否とも応とも言わなかった。
言わずに、次を言った。
「見た者がおるということは、在るということじゃ。……在る物で払うと申しておる。無い物を約すほど、拙者も焼きが回ってはおらぬ」
荒木は、まだ動かなかった。
「――扶持ではないのじゃ」
と、勘助が言った。
「扶持は、月々の物じゃ。月々くれてやるかわりに、月々使う。それが家来じゃ。……銀は、年に二度きりじゃ。あいだの三百日、こちらはそこもとらに何も申さぬ」
「何も、と申されると」
「田を起こせとも、どこへ参れとも申さぬ。この山の内が静かであれば、それでよい。……静かにしておくのに、そこもとらが幾人使おうと、こちらは数えぬ」
荒木は、そこではじめて膝を動かした。
動かして、頭を下げた。
「――安堵が下りますまでは、そのように」
下げたまま、続けた。
「……山の米が、明日で終いと伺うてござります。当座は、こちらの郷から回しまする。四日か、五日は保ちましょう」
勘助は、うなずかなかった。
「借りるのではない、と申されるか」
「借りるのでもござりませぬ。……手前どもの郷は、この山の下にござります。山が騒げば、田が荒れまする。田を荒らさぬために出すだけにござる」
受けるとも、家来になるとも言わなかった。
言わずに、下げただけである。
光秀は、その下げかたを見ていた。
深くはない。麓の郷で、名主が代官へするくらいの下げかたであった。
座が、鳴らなかった。
第二の谷から上げた四百人のときは、鳴った。銀と聞いて、四百人がいっせいに息を吸った。
ここでは、鳴らない。
荒木のほかは、みな目を伏せていた。
伏せて、動かない。
――知っておる。
光秀は、そう思った。
平群の衆は、既に知っている。知っていて、口にしてはならぬものとして扱っている。噂が回りきった土地では、人は噂を口にしない。
鳴らぬほうが、悪い。
*
日が落ちてから、光秀は勘助に訊いた。
「――いまの銀の儀、殿の御下知はござるか」
「無い。……訊いてもおらぬ」
「銀は、殿の物にござる。幾らおありかも、御身は御存じあるまい」
「知らぬ」
勘助は、それをあっさり認めた。
「拙者が知っておるのは、渡された粒の数だけじゃ。どこから出て、あと幾つ残っておるかは、一度も訊いたことがない。訊けば、答えねばならぬ御方が困られるゆえな」
「……知らぬ物を、五十一人ぶんの担保に差し出されたか。あとで通らなんだら、いかがなされる」
勘助は、そこではじめて光秀のほうを見た。
「――殿は、お断りにならぬ」
言いかたが、静かであった。
「なにゆえ、そう言い切れ申す」
「断れば、この五十一人が離れる。離れれば、下の三千人は半分になる。半分になれば、山の裏の旗を歩かせる者がおらぬ」
勘助は、そこで杖を突き直した。
「旗が倒れれば、大和じゅうが明日から数え直す。……そこまで来てしもうたのじゃ。来させたのは拙者じゃによって、殿は、断れぬ」
光秀は、答えなかった。
答えられなかったのである。
この男は、いままで下知の空いたところへ手を入れてきた。焼けと言われなかったから焼かず、獲るなと言われなかったから獲った。
こんどは、違う。
主が何と答えるかを、先に算えている。
その夜、光秀は目録を仕上げた。
一、人 三百七十二
内 筆ノ立ツ者 二十九
内 人ヲ率イル者 五十一
内 手ニ職アル者 四十四
内 役ハ無キモ在所ノ知レタル者 二百四十八
書き終えて、端に一行だけ添えた。
いずれも松永殿の帳に載りし者
添えてから、しばらくその一行を見ていた。
見ていて、書き足しも消しもしなかった。
目録には、荒木への約定を書かなかった。
安堵の取次のことも、銀のことも、書かなかった。
書かなかったものが、もう一つある。
筆ノ立つ者は、二十九ではない。杢助と、年かさの一人と、奥野と、名を呼ばれて立った五人。合わせて三十七である。
八人を、落とした。
落とした八人は、いま二上山の帳場で去年の帳を繰っている。目録に載せれば、載った先から役が付く。役が付けば、他家からも呼べる者になる。
――閉じるまでは、渡さぬ。
書かぬのは、隠すためではない。まだ使うているからである。
もっとも、そう言うても通るまい、とも思った。
書けば、殿の目に入る前に、越水の御目に入る。
――己で判じて、伏せた。
筆を硯へ戻し、束を揃え、灯を落とした。
*
使いは、その夜のうちに出した。
二上山を発ち、河内を抜けて摂津へ入る。往きに二日である。
門のところまで送って、光秀は坂を見下ろした。
下では、まだ火が燃えている。
五十一人は、それぞれの在所の者と一緒に寝ていた。並び方は、四日前と一つも変わっていない。
召し抱えたのではない。
付いたのである。




