第27話(七)「木沢の帳面」
――卯月(四月)二日の、朝である。
越水の書院は、東が開いている。
朝の光が、板の間の半分まで入っていた。空は晴れて、雲は縁のところに薄く残っているだけである。
久秀は、次の間で待たされていた。
半刻ばかりになる。
膝を崩さずに待つのは、久しかった。木津川の東に陣を張って十日、床几に腰を掛けるか、馬の上にいるかのどちらかであった。膝の裏が、こわばっている。
道中で、三通り組んできた。
一つ目は、短く言う。大和の儀、家来の不調法にござる、と言って頭を下げる。
二つ目は、家来の名を出す。山本勘助と申す者が、下知を待たずに動き申した、と言う。
三つ目は、己が下知したことにして被る。焼ける前に取れと申したのは私にござる、と言う。
三つ目が、いちばん高くつく。
高くつくが、家来の名が主家の帳に載らずに済む。
久秀は、三つのどれで行くかを、まだ決めていない。
決めていないというより、決めずに来た。
――顔を見てから決める。
それが、この男の癖であった。
*
通されたのは、四半刻あとである。
長慶は、脇息に肘を置いていた。
二十一になる。この一年で顎の線が変わったと、久秀は思った。太平寺の野で首を検めたときに一度会って、それきり半月ぶりである。
久秀は、平伏した。
「――お召しもござりませぬのに、罷り越しましてござります。木津の陣を、二日ほど空けましてござる」
「木津から二日か。急いだの。……残党狩りのほうは、もう手が空いたか」
「河内の口はあらかた片づきましてござります。あとは山へ入った者を待つばかりにござれば、留守でも回りまする」
久秀は、そこで顔を上げた。
上げて、まず一庫のことから入った。
詫びる前に、済んだ話を一つ置いておく。置いておいて、そのうえで大和の話へ入る——先に一つ渡しておけば、次の一つは通りやすい、というのが、この男の順であった。
「――去る十八日の未明、摂津の一庫が落ちましてござります。二の木戸まで抜き、明るくなるのを待って城中の者を出させましてござる。塩川国満は、討ち取りましてござります」
「四日かかっておるな」
「陣が日ごとに動きましたゆえ、使いが手前に行き当たるまでに三日かかりましてござります。……城は焼いておりませぬ。蔵も、そのままにござります」
「兵糧は」
「大小あわせて二百石ばかり。武具のたぐいも残ってござります。……城に入った者どもが食うぶんは、蔵の帳とは別に綴じさせてござります。何月何日に何石、米と麦を分けて」
長慶が、脇息から肘を外した。
「――別に、綴じさせたか」
「一つに綴じますれば、減った帳になりまする。別に綴じますれば、借りた帳にござる。……あの城は、まだどなたにも宛がわれておりませぬゆえ」
長慶は、しばらく久秀を見ていた。
見てから、うなずいた。
「城を一つ拾うて、蔵の一粒も食わなんだ、というわけか。……ようやった」
――そこで、済んでしもうた。
久秀は、頭を下げたまま、そう思った。
半年前、己で決めたことがある。一庫ひとつを、いま御前へ置いてみよ。よう働いたと仰せられて、それで終いになる。谷まで抱えてから置けば、同じ城が倍で通る——そう算えて、届けるのを遅らせてきた。
その札を、いま切った。
切ったのは、売るためではない。大和の話を通すために、先に一つ置いたのである。
置いた。置いて、褒められた。
褒められたぶんだけ、札は薄くなった。
久秀は、頭を下げた。
下げながら、次へ移った。
「――そのうえで、大和の儀にござりまするが」
言いかけたところへ、長慶が脇の文箱へ手を伸ばした。
「その儀じゃ。……別に綴じたのは、一庫だけではなかろう」
久秀は、顔を上げた。
文箱から出たのは、一通の書付であった。
畳の上を滑らせて、久秀の前へ来る。
久秀は、それを見た。
見て、動かなかった。
己の名が、端に書いてある。
その下に、見覚えのある手があった。光秀の手である。整いすぎていて、少し冷たい。
一、人 三百七十二
内 筆ノ立ツ者 二十九
内 人ヲ率イル者 五十一
内 手ニ職アル者 四十四
いずれも松永殿の帳に載りし者
久秀は、その数を三度読んだ。
三度読んで、まだ読んでいた。
書院が、静かであった。
東が開いているので、庭の音は入る。だが、この座に音が無い。長慶は待っており、待っている者は音を立てぬ。久秀の耳に届いていたのは、己が紙を持つ指の、乾いた擦れだけであった。
「――今朝、と仰せられましたか」
「今朝じゃ。川が出て、二上山から四日かかったそうな。使いの者は、まだ台所で寝ておるわ」
長慶が、書付の端を指で揃えた。
揃えて、もう一度揃えた。
その手つきに、久秀は見覚えがあった。己が、算えの合わぬときにする手つきである。
――この御方も、算えておられる。
長慶は、身を少し前へ出した。
「そなたの家来は、人を数えるのが上手いの」
言って、その一行を指の腹で押さえた。
「わしは、この筆ノ立ツ者二十九という一行を二度読んだ。……三好の家中を残らず集めても、帳を任せられる者は、そうはおらぬ」
長慶は、そこで指を書付から離した。
離して、庭のほうを見た。
「――畠山と遊佐は、いまだに飯盛を囲んでおる。木沢の父御が籠っておるゆえな。榎並も、そちらへ人を出しておるそうじゃ」
畠山と遊佐は、太平寺で木沢を討った当人である。榎並は、その日は出ていない。……その三家が、いま一つの城の周りで足を止めている。
久秀は、黙っていた。
「囲んでおるあいだに、大和と河内の残りを、そなたのところが食うた」
声は、咎めていない。
「城が三つ、兵が三千、名と役の分かった者が三百七十二人。……飯盛の城ひとつを囲んでおるうちに、まわりが全部無うなっておったというわけじゃ。囲んでおる者どもは、まだ気づいておるまい」
長慶は、そこで少し笑った。
笑ってから、笑いを収めた。
「気づくのは、囲みが解けた日じゃ。……その日に、誰が何を持っておるかを、皆で数えることになる」
長慶は、そこで指を一本だけ立てた。
「三つのうち一つは、山城じゃな」
「……相楽にござります。木沢が守護代を勤めておりました筋の城にて」
「勤めておった、な」
長慶は、そこだけを繰り返した。
久秀は、平伏したまま動かなかった。
守護代というのは、家の物ではない。上から預けられる役である。木沢が死ねば役は空き、次に誰を据えるかは上が決める。
城を拾うたと申せば、拾うたで済む。
拾うた城が山城に一つあると申せば、上は、役のほうを継ぐつもりかと訊いてこられる。
――訊かれて、いいえとは申せぬ。
いいえと申せば、なぜ持っておるのかが要る。
そうかと申せば、そのまま望んだことになる。
久秀は、板の目を見ていた。
この主は、盤面を上から見ている。
己は十日、木津川の東で、目の前の者を捕らえては帳に載せていた。その同じ十日を、この二十一の若い主は、囲みと囲みの隙間として見ていたのである。
「――足りぬな」
と、長慶が言った。
「は」
「三千の口を抱えて、城が三つじゃ。旧い木沢の者と、銭で雇うた牢人と、そなたの家来が二人」
指が、書付の上で止まった。
「……その二人は、そなたの家来であって、わしの家来ではない。城を預けるには、遠すぎる」
久秀は、顔を上げた。
上げて、そのまま止まった。
「不調法があった、と申しておるのではないぞ」
と、長慶は言った。
「数が足りぬと申しておる。家来二人で三千人は持てぬ。持てぬ物を持たせておけば、いずれ落とす。……落とした城は、落ちたと知れた日から、まわりの者の物になる」
「……仰せのとおりにござります」
「よって、こちらから出す」
長慶は、指を三本立てた。
「二上山へ五十人、信貴山へ三十人、平群谷の口へ二十人。いずれも家の者じゃ」
立てた指を、一本ずつ折った。
「人別と兵糧の帳は、こちらの手の者に写しを取らせる。……そなたの家来には、そのまま置いてもらう。追い出すのではないぞ」
*
「それから、人のことじゃ」
長慶は、書付をもう一度取り上げた。
「この三百七十二人を、どこへ置く。……そなたが抱えるのか」
久秀は、答えられなかった。
抱える器が、この身には無い。所領も無く、家格も無い。三百七十二人を養う扶持は、どこからも出ない。
「抱えられまい」
と、長慶は言った。
「わしのほうで受けるにしても、いきなり三百七十二人を家中へ入れれば、譜代の者どもが騒ぐ。役に就けるにも順があるし、扶持の出しようも決めねばならぬ。……それに、上の御目に、どう映るかがある」
久秀の背が、そこで動いた。
動いたのを、押さえた。
「木沢は、管領様の御被官であった。旧い領をどう割るかは、上から下りてくるのが筋じゃ。……そこへ、こちらが人と城を先に取っておる」
長慶は、書付を膝へ置いた。
「先に取ったこと自体は、責めぬ。取らねば筒井が取った。取られてから取り返すのは、いま取るより、よほど高うつく」
「……左様にござりましょう」
「じゃが、順は繕わねばならぬ。繕いかたを間違えれば、こちらが上の物を掠め取った形になる」
久秀は、平伏したままであった。
言おうとしていたことを、主のほうが先に言っている。
しかも、こちらより広く見たうえで言っている。
「人の手当ては、別途沙汰する」
と、長慶は言った。
「一度に決める話ではない。……近いうちに、二人で話そう。人を入れず、二人でじゃ」
久秀は、額を板へ付けた。
「――有難く存じ奉ります」
声は、震えなかった。
板へ付けた額の下で、息を一つ吐いた。
吐いてから、吐いたことに気づいた。
三千の口と、城が三つと、在地の者が五十一人。これを、家来二人で持たせておくには限りがある。米は尽きかけ、銭はもう無い。家の者が入るというなら、その日から先の勘定が変わる。
思って、次に気づいた。
――入られる。
家の者が入るということは、あの城が、もうこちらの物ではないということである。人別の帳の写しが取られるということは、あの三千人が、こちらの帳から出ていくということであった。
「久秀」
と、長慶が呼んだ。
「は」
「そなたの家来は、そこまで見たうえで動いたのであろうな」
久秀は、答えなかった。
答えれば、嘘になる。
あの片目の男が何を見て動いたかを、久秀はまだ聞いていない。聞いていないものを「見たのでござりましょう」と言えば、それは主家へ嘘を渡したことになる。
黙っていると、長慶が言った。
「――よき家来を、持ったの」
久秀は、平伏したままであった。
「……は」
それだけ言った。
長慶が、少し間を置いた。
「……そなたは、いつ知った」
「――いずれも、済みましてのちにござります」
「そうか」
長慶は、そこで訊くのをやめた。
やめたことが、久秀には分かった。
次に来るはずの一句があった。それを、この若い主は呑み込んだのである。
呑み込んだ理由までは、そのときの久秀には分からなかった。
「――松永は、いつも多い」
長慶は、それきり何も言わなかった。
褒められたのか、数えられたのかが、分からない。
三通り組んできた詫びは、三つとも出せなかった。
出す場所が、無くなったのである。
管領様、という語は、この座で一度だけ出た。
出したのは、長慶のほうであった。
久秀は、一度も口にしていない。
言おうとしていたことを、先に言われてしまえば、あとから同じことを言うのは、詫びではなく念押しになる。
――言う場所は、二人で話す日にある。
そう思った。
思ってから、久秀は、その思いようが去年から幾度目かを算えかけて、やめた。
*




