第27話(八)「木沢の帳面」
――同じ日の、昼過ぎである。
帰りの馬は、風が横から来た。
背を押しもせず、行く手を塞ぎもしない、どちらでもない風である。
半日ほど乗って、久秀は一度、馬を止めた。
止めて、袖の内へ手をやった。
折れた扇が、まだそこに入っている。堺で求めたもので、要のところの骨が二本折れている。買い直していない。
値を張った物が欲しくなくなったのではない。
欲しいと思ったときに、値を算えるのが、いまは怖いのである。
馬を止めたまま、久秀は下知のことを考えた。
三つ、出した。
――箱を、焼ける前に取れ。
――紙じゃ。木沢の帳面を、兵より先に押さえよ。
――剣で食うておる庄を、散る前に見ておけ。見るだけでよい。
どれも、短い。
短くしたのは、この二人なら足りると踏んだからであった。
一を言えば、十を汲む。汲んだ十が、たいていこちらの思うたとおりである。書いて渡す手間も、念を押す言葉も、この二人にはいらぬ。使いやすい家来とは、そういう者どもを言う。
――これまでは。
汲まれた十が、こんどは城三つと、兵三千と、人が三百七十二であった。
久秀は、鞍の上で背を伸ばした。
伸ばして、また丸めた。
――一しか言わなんだのは、わしじゃ。
いや、と久秀は思い直した。
一しか言わなんだのではない。
一しか、言えなんだのである。
*
なぜ木沢の帳面が要るのかを、光秀には言えない。
言えば、その次を訊かれる。
木沢が誰と通じておったかを知って、どうなさるのか。去年の秋に何が起き、今年の春に何が起きなんだかを、なにゆえそこまで細かく確かめられるのか。
訊かれても、答えられぬ。
答えるには、摂津の在所に隠してある小僧のことから話さねばならぬ。月に一点ずつ買うている書付のことも、その書付に書いてあった二行が起きなかったことも、起きなかった理由がこちらの手であったことも、みな話さねばならぬ。
――話せぬ。
だから、短く言った。
紙じゃ、木沢の帳面を、兵より先に押さえよ——それだけである。
言葉を足せば足すほど、あの男は、足したところから逆に読む。
なにゆえこの家の帳を、なにゆえ兵より先に、なにゆえ今年でなく去年の分まで。
三つ訊かれれば、二つは答えられぬ。
答えられぬところに、あの男は必ず気づく。
気づいて、黙る。黙って、己で埋める。
――埋められた。
埋めたぶんが、城三つと、兵三千と、人が三百七十二であった。
見るだけでよい、とは言った。見ているうちにそれが無くなる場合のことは、言わなかった。焼ける前に取れとは言ったが、焼けなかったときにどうせよとは言わなかった。城が建ったまま残ったら、そのあとをどうするのか。三千人が散らずに残ったら、誰が食わせるのか。
どれも、言っていない。
言っていないところへ、勘助と光秀は手を入れた。
入れたのは家来である。
だが、そこを空けたのは、こちらであった。
――では、次はどうする。
長く言えばよいのか。
久秀は、馬の首を撫でた。
撫でながら、それを算えてみた。
書付にして渡す。条を立てる。何をしてよく、何をしてはならぬかを、一つずつ書く。そうすれば、あの二人は書いたぶんだけを果たす。
果たすであろう。
果たして、それだけになる。
片目の男が谷の口で四百人を二日坐らせておいた手も、旗を山の裏へ立てた手も、条には書けぬ。書けぬ手を出せる者に条を渡せば、条の内側で止まる。
――足せば、鈍る。
足さねば、また獲る。
久秀は、そこでしばらく動かなかった。
この二人を、去年、己で選んだのである。
一を言えば十を汲む者を、値を付けて買った。買っておいて、汲まれすぎたと言うて悔いている。
――買うたのは、わしじゃ。
*
馬を出して、しばらく行ったところで、久秀は手綱を引いた。
書院の、あの間である。
――そなたは、いつ知った。
あのとき、あの若い主が呑み込んだ一句が、いま分かった。
なにゆえ、済む前にわしへ申さなんだ。
訊かれなかったのは、久秀を庇うためではない。
訊けば、答えが一つしか無いからである。
――申し上げましても、御下知は変わらぬと存じましたゆえ。
そう答えられれば、あの主は、己が何のためにあの座に坐っているのかを、己で問わねばならなくなる。
問うて、答えが出ぬ。
二十一である。
家督を継いで、三年になるかならぬかの主が、宿老でもない祐筆あがりの被官から、済んだあとに書付一通で城三つを知らされた。
咎めることは、できる。
だが咎めれば、咎めたぶんだけ、次からは何も上がってこなくなる。それが分かっているから、咎めずに褒めた。
褒めて、一句を呑んだ。
――寂しがらせた。
久秀は、鞍の上でそう思った。
思ってから、その言いようを己で嫌った。主を寂しがらせたなどというのは、家来の言うことではない。
嫌ったが、ほかに言いようが無かった。
黙っておったのは、あの御方の器を量ったからではない。
量ったのは己の首のほうで、家来の独走を先に申し上げれば、独走させた者の落度になる。それを恐れて、済むまで黙っていた。
――こちらの都合じゃ。
だが、黙られた側には、都合など見えぬ。
見えるのは、言うてもらえなかった、という一つだけである。
言うてもらえぬ者は、なにゆえ言うてもらえぬのかを、己の内に探す。
探して、たいていは、己の足りぬところに行き当たる。
――行き当たらせた。
久秀は、手綱を握り直した。
光秀へ一しか言えなんだのは、言えば秘密の底が知れるからであった。
長慶へ何も言わなんだのは、言えば己の落度になるからであった。
どちらも、こちらの都合である。
どちらも、相手には見えぬ。
――同じことを、二度しておる。
馬を出した。
風は、まだ横から来ていた。
その夜、宿で帳面を出した。
墨を、下ろす。
一、月々の入り 一点
一、借入 二点――二年にて返す
残り 五点
書いて、筆を止めた。
止めてから、もう一行、書き足した。
一、人 三百七十二 目録一通 差シ上グ
数だけを書いた。
役は、書かなかった。
書けば、己が何を手に入れたのかを、己で認めることになる。
筆を置こうとして、置かなかった。
置かずに、しばらく穂先を見ていた。
旗のことを、まだ一行も書いていない。
書けば、いつ立ったかを書かねばならぬ。いつ立ったかを書けば、城が開くより前であったことを書かねばならぬ。
墨が、穂先で膨らんだ。
膨らんで、落ちた。
帳面の上に、丸い染みが一つ残った。




