第27話(九)「木沢の帳面」
――卯月(四月)三日の、朝である。
晴れた。
この十日で、いちばん晴れた朝であった。二上の二つの峰が、影の境まではっきり見えている。北の斜面の旗も、竿の一本ずつが数えられるほどに見えた。
数えられては、困る。
だが今朝は、誰も数えていない。
奥野は、日の出前から束を分けていた。
持っていくものと、置いていくものである。
持っていくのは、法隆寺へ預けた三度ぶんの控えと、去年の平群谷・葛下の、締めきらぬ帳。置いていくのは、それ以外の全部であった。
風呂敷に包み、四つ角を結んで、背へ回す。
立ち上がるときに、一度よろけた。
支えようとした杢助を、手で止めた。
「――重うござりまするか。人を付けても構い申さぬが」
と、光秀は訊いた。
「軽うはござりませぬが、人には持たせませぬ。……道で落として濡らせば、預状は預状でなくなりまする。濡れた紙は、寺が受け取りませぬゆえ」
それだけ答えて、奥野は結び目を直した。
*
信貴山からの使いが着いたのは、そのあとである。
若い者が一人、坂を上がってきた。
半日走ったらしく、袴の膝から下が泥で白い。息を整えるより先に、秀種の前で片膝をついた。
告げたのは、一言であった。
「――男子にござります。一昨日の夜、亥の刻を過ぎたころと伺うてござります」
秀種は、動かなかった。
それきり、使いは何も言わなかった。
告げよと言われたのが、それだけだったのである。
母のことは、言わなかった。
秀種は、訊かなかった。
訊かずに、うなずいて、使いに水を出させた。
水を飲ませてから、一つだけ言った。
「――名は、まだ付けぬ。そう伝えてくれ。……日を置くとだけ申せば、向こうは分かる。急かす者があれば、拙者がそう申したと言うてよい」
使いは、腑に落ちぬという顔をした。
落ちぬまま、頭を下げて坂を下りていった。
光秀は、少し離れたところでそれを聞いていた。
名を付けるのに、日を置く家はある。生まれて七日を待つ家もあれば、月を越す家もある。珍しいことではない。
珍しくはないが、この男は理由を言わなかった。
半月前、この男は叔父を斬っている。
斬った手で、名を付ける気に、まだなれぬのであろう。
――それも、訊かぬ。
光秀は、そう決めた。
光秀は、机の上を見ていた。
目録の写しが、まだそこに一通ある。越水へ出した本紙とは別に、こちらに残した控えである。
一、人 三百七十二
この山にいる者のうち、名と役の分かった者が、三百七十二人。
昨日まで三百七十二人であった。
今日も、三百七十二人である。
一昨日の夜に一人増えたが、その一人はここに入っていない。
名が無いからである。
名の無い者は、帳に載らない。
載らぬ者は、飯も出ぬし、役にも就かぬし、召し抱えられもしない。
――そのかわり、消されもせぬ。
光秀は、筆を執らなかった。
執らずに、控えを閉じた。
*
曲輪では、朝の列ができていた。
五十一人が、それぞれの在所の者を並べている。
昨日と、同じである。
一昨日とも、四日前とも同じであった。並ぶ順も、前後も、間の空きようも、一つも変わっていない。
変えたのは、こちらではない。
こちらが変えたのは、渡す物が銭から米になったことだけである。
その米も、四日か五日である。
帳場には、七人を残した。
杢助と、年かさの一人と、あとの五人である。書役の二人には、写しの取りかたを教え込ませた。
残す者へ、光秀は一つだけ言い置いた。
「――去年の帳は、閉じるな。閉じられぬものを、閉じたことにするな」
「は」
「引く数が決まらぬなら、決まらぬまま置け。……空いたところは、空けたまま次へ回してよい」
杢助は、しばらく考えていた。
「……それでは、今年の高が立ちませぬ。高が立たねば、割り付けもできませぬが」
「立たぬままでよい」
光秀は、筆を置いた。
「立たぬものを無理に立てれば、そのぶんは、どこかで誰かの口から出る。田から出るか、飯の椀から出るかのどちらかじゃ。……去年の四十三石は、四十三石のまま残しておけ」
言ってから、光秀は己の言うたことを聞いた。
書けぬところを空けておけ、というのは、判の欄を空けたまま出すのと、どこが違うのか。
――違う。
違うが、どう違うかを、いま言葉にできなかった。
発つ前に、奥野が訊いた。
訊いたというより、確かめる口ぶりであった。
「……兵は、幾人連れられまする」
「二百」
と、光秀は答えた。
「担ぐ手が、三百人。合わせて五百にござる」
奥野の手が、結び目の上で止まった。
「――三百人で、足りまするか」
「三百二十七石を運ぶには、それだけ要る。俵にして八百を超えますれば、一人が一俵ずつ負うても、三度は往復せねばならぬ。……道は三里にござる。日の高いうちに一度、暮れまでにもう一度」
「兵の二百は」
「担がせぬ」
光秀は、そこで一度、言葉を切った。
「山には、木沢の残りが入っており申す。麓の郷にも、去年の飢えで食えぬ者が出ておる。そこへ俵を八百、三里の道に並べて歩くのじゃ。……あれは軍ではござらぬ。荷駄にござる」
「荷駄は」
「襲われる」
奥野は、束のほうを見た。
数を扱う者の目である。
「――十俵持って行かれますると、三千人の一日が消えまする」
「五十俵で、五日じゃ」
「五日は、大きゅうござります」
「その五日を、いま買いに参るところにござれば」
奥野は、うなずいた。
数の話であれば、この男は早い。
「――なれど」
と、光秀は言った。
「寺の門前へは、一人も出さぬ」
奥野が、顔を上げた。
「二百は、寺から十町ばかり手前の辻で止める。木立の陰へ入れて、動かさぬ。……門の前に立つのは、担ぐ者三百人だけにござる。刀は、持たせぬ」
「……なにゆえにござりまするか」
「槍を門前へ並べれば、囲みになる」
光秀は、束の角を揃えた。
「囲みになれば、寺は追い返す筋が立つ。押し込みに来た者を追い返すのは寺の道理にござれば、誰も咎めぬ。……そして、一度追い返された者は、二度と門を叩けぬ」
「立たねば」
「立たぬ。丸腰の者が三百人、門の前に坐っておるだけにござる。……坐っておる者を追い返す言葉は、この世にござらぬ」
奥野は、しばらく黙っていた。
黙ってから、言った。
「――道は、槍で通られる」
「左様」
「門は、紙で開けられる」
「……左様にござる」
光秀は、その言いようを少し長く聞いていた。
三日かけて組んだものを、この男は二た言で言うたのである。
「……下の三千人は、いかがなされます」
訊きかたが、責めていなかった。
数を扱う者が、合わぬ数を見つけたときの訊きかたである。
「――荒木どのが、二度目を回すと申された。……それで、四日か、五日じゃ」
「そのあとは」
光秀は、すぐには答えなかった。
「――そのあとは、法隆寺の蔵の扉が、幾日で開くかで決まり申す」
奥野は、それきり訊かなかった。
訊かずに、束の結び目を締め直した。
合わぬままの数を、また一つ、この男は預かったのである。
*
奥野が、束を負い直した。
背の低い男である。負うと、束の角が肩より上へ出た。
その中にあるのは、三百二十七石の控えである。
控えだけでは、寺は出さぬ。六通で一組になる三通が、こちらには無い。
欠けた三通の代わりに立つのは、書いた者の顔と手であった。
書いた三通を、書いた者が背負って、書いた先へ返しに行く。
朝の光が、東から真っすぐに来ていた。
この十日で、いちばん晴れた朝である。
奥野が、坂へ足を向けた。
その後ろで、勘助が杖を突き直した。
「――書いた者が、取りに参るのよ」
光秀は、答えなかった。
答えずに、坂を下りていく背を見ていた。
八日前、この男の名は、どの帳にも無かった。
いま、この山でいちばん重いものを負うている。
■用語解説
・目録…人や品の名を書き列ねて差し出す書付。献上や引き渡しの品書きにあたる。数だけを告げる報告と違い、目録は一人ずつに責めと扶持が生じるため、これを差し出すことは「中身を相手の目に委ねる」という意思表示でもあった。
・惣算用…家の領する郷を残らず束ねて、一年の出入りを一つに締めること。またその役。郷ごとの帳を集め、突き合わせ、最後に判を据える。判を据える者はふつう一人しか置かれず、その一人が欠ければ、郷ごとの帳がいくら揃っていても年は締まらなかった。




