↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/126

第27話(三)「木沢の帳面」

――同じ日の、暮れである。


 帳場は、門を入ってすぐの空き地に据えてある。


 机が四つ。むしろを敷き、筆とすずりと、束が積んである。


 その脇に、縄をかけられた男が一人、坐らされていた。


 昨日、山で捕らえられた者である。木沢の残りが河内から入ってきているという話は聞いていたが、実際に連れてこられたのは、これがはじめてであった。


 連れてきたのは、陣借りの三人組である。


 三人は、勘助の前で掌を出した。勘助が油紙の包みを開いて、粒を二つ、そこへ落とした。


 落ちるときに、音がしなかった。


 三人は粒を懐へ入れ、頭も下げずに戻っていった。


 縄の男は、その粒を目で追っていた。


 「――名を、訊いておけ」


 と、光秀は書役へ言った。


 「縄は」


 「解いてよい。……逃げるなら、逃げた者として帳に載せる」


 載せられる者は、逃げぬ。


 縄の男は、それを見ていた。


 目が、粒を追って、懐まで行って、それから止まった。


 夕餉ゆうげは、日の落ちる前に配られた。


 釜が四つ。列は、坂の途中まで伸びている。


 だが、この日は前と違った。


 噛む音がしていた。


 まばらに、あちこちで立つ。飲み込むのではなく、噛んでいる音である。飯が二度目になると、人はまず噛むことを思い出す。


 列の脇に、木沢秀種が立っていた。


 昨日も、一昨日も、そこにいる。椀を受ける者は、その前を通るとき、必ず一度そちらを見た。


 次郎太が、椀を配りながら光秀のところへ来た。


 「……今日から、俵にござる。日銭は一昨日の暮れで尽きましてござれば、この二日は蔵の底を掻いて繋いでおりました」


 言いながら、椀を三つ、続けて渡した。


 「あと一日遅ければ、日銭で雇うた四百人は、半分に減っておりましたな。……あれらは、飯が出ぬと知れた朝に下りまする」


 「間に合うたか」


 「間に合い申した。……手前は、銭より俵のほうがよろしゅうござる。銭は袋の中で減っても分かりませぬが、俵はかさで知れますゆえ、抜かれればその晩に分かりまする」


 欠けた歯のところから、息が洩れた。


 笑ったのである。


 光秀は、笑わなかった。


 銭で雇うた者が、銭では動かなくなり、米で動くようになる。そのことの意味を、この男は考えていない。考えずに、勘定だけしている。


 ――考えぬほうが、よう働く。


 光秀は、竹筒の水を含んだ。


 ぬるい。


 ぬるいまま、飲み下した。


    *


 灯を寄せたのは、暮れてからである。


 櫃の掛け金が、錆びていた。


 棒を差して二人で捻り、それでも回らず、蓋の縁へ楔を打って浮かせた。久しく開けていない蓋である。木のはぜる音がして、そこではじめて動いた。


 匂いが立った。


 新しい俵の藁の匂いが空き地じゅうに満ちていて、そこへ、蔵に長く寝ていたものの匂いが混ざった。かびである。乾いた黴の、粉のような匂いであった。


 中は、束であった。


 紐で括ってあるものと、括っていないものが混ざっている。括ってあるほうは表が揃い、括っていないほうは端が反り返っていた。


 光秀は、括っていないほうから取った。


 一枚目は、去年の秋の、平群谷へぐりだにの年貢の帳である。


 二枚目も、同じ谷のもの。ただし数が違う。


 三枚目で、手が止まった。


 同じ谷、同じ年の帳が、もう一通あった。


 三通とも、数が違う。


 書き損じではない。いた分の立てかたが、三通とも違うのである。一通目は損亡そんもうを大きく見て、二通目は小さく見て、三通目はその間へ落としてある。


 ――算えたのではない。算え直したのである。


 誰かが、三度算えた。


 三度算えて、どれを上げるかを迷った跡が、そのまま束になって残っている。


 光秀は、三通を並べた。


 並べて、端の署判しょはんを見た。


 二通には、判がある。


 一通には、無い。


 判の無いほうが、いちばん数字が細かかった。


 光秀は、その一通を灯のほうへ寄せた。


 寺へ持ち込むのは、こちらである。


 預けた家は滅び、預けた当人は死んでいる。そこへ他家の者が行って「返せ」と言うのだから、寺が求めるのは一つしかない。


 ――誰が、いつ、幾ら預けたか。


 それを書いた物と、書いた者である。


 物のほうは、この櫃のどこかにあろう。


 書いた者は、生きているかどうかも分からない。


 夜が更けても、灯を落とさなかった。


 束は、六十通を超えている。一枚ずつ見ていけば、五日はかかると踏んだ。


 五日は、かからなかった。


 三十枚ほど繰ったところで、繋がってしまったからである。


 河内の代官所の帳と、大和の谷の帳と、山城の関の帳と――同じ手が、三国にまたがって出てくる。


 名が違うのではない。書いている者が、同じなのである。


 この十年、河内と大和と山城を回していたのは、木沢長政という男ではなかった。


 この男の名で、判を押した者どもである。


 その者どもは、いまどこにいる。


 二人は太平寺で死んだ。何人かは散った。一人は筒井へ走った、と聞く。


 残りは。


 光秀は、灯を持って立った。


 持って、門の外へ出た。


 坂の下に、火が見える。三千の者が、そこで寝ている。


 この城の飯を食い、この城の帳に名を書かれ、明日の朝も列に並ぶ者どもである。


 名も、在所も、よわいも、手に職も、こちらは既に訊いてある。


 訊いていないことが、一つあった。


 ――誰の名で、判を押しておったか。


 この帳を書いた者は、まだ生きておる。


 生きて、下の火のところで寝ている。


 その者を見つけねば、寺の門は開かぬ。


 門が開かねば、五日目に、この火が消える。


    *


 櫃の底まで、繰った。


 法隆寺の預状は、無かった。


 三つとも底まで繰って、寺へ持ち込める書付は一枚も出なかったのである。あるのは、預けたという事実の影だけであった。二つの帳の差に、預けた米の嵩が出る。出るが、差は書付ではない。寺へ持っていって、これが証にござると言える証文ではない。


 ――物では、なかった。


 光秀は、灯を落とした。


 落としてから、暗いところでもう一度算えた。


 証は、書いた者のほうにある。


    *

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。