第27話(三)「木沢の帳面」
――同じ日の、暮れである。
帳場は、門を入ってすぐの空き地に据えてある。
机が四つ。莚を敷き、筆と硯と、束が積んである。
その脇に、縄をかけられた男が一人、坐らされていた。
昨日、山で捕らえられた者である。木沢の残りが河内から入ってきているという話は聞いていたが、実際に連れてこられたのは、これがはじめてであった。
連れてきたのは、陣借りの三人組である。
三人は、勘助の前で掌を出した。勘助が油紙の包みを開いて、粒を二つ、そこへ落とした。
落ちるときに、音がしなかった。
三人は粒を懐へ入れ、頭も下げずに戻っていった。
縄の男は、その粒を目で追っていた。
「――名を、訊いておけ」
と、光秀は書役へ言った。
「縄は」
「解いてよい。……逃げるなら、逃げた者として帳に載せる」
載せられる者は、逃げぬ。
縄の男は、それを見ていた。
目が、粒を追って、懐まで行って、それから止まった。
夕餉は、日の落ちる前に配られた。
釜が四つ。列は、坂の途中まで伸びている。
だが、この日は前と違った。
噛む音がしていた。
まばらに、あちこちで立つ。飲み込むのではなく、噛んでいる音である。飯が二度目になると、人はまず噛むことを思い出す。
列の脇に、木沢秀種が立っていた。
昨日も、一昨日も、そこにいる。椀を受ける者は、その前を通るとき、必ず一度そちらを見た。
次郎太が、椀を配りながら光秀のところへ来た。
「……今日から、俵にござる。日銭は一昨日の暮れで尽きましてござれば、この二日は蔵の底を掻いて繋いでおりました」
言いながら、椀を三つ、続けて渡した。
「あと一日遅ければ、日銭で雇うた四百人は、半分に減っておりましたな。……あれらは、飯が出ぬと知れた朝に下りまする」
「間に合うたか」
「間に合い申した。……手前は、銭より俵のほうがよろしゅうござる。銭は袋の中で減っても分かりませぬが、俵は嵩で知れますゆえ、抜かれればその晩に分かりまする」
欠けた歯のところから、息が洩れた。
笑ったのである。
光秀は、笑わなかった。
銭で雇うた者が、銭では動かなくなり、米で動くようになる。そのことの意味を、この男は考えていない。考えずに、勘定だけしている。
――考えぬほうが、よう働く。
光秀は、竹筒の水を含んだ。
ぬるい。
ぬるいまま、飲み下した。
*
灯を寄せたのは、暮れてからである。
櫃の掛け金が、錆びていた。
棒を差して二人で捻り、それでも回らず、蓋の縁へ楔を打って浮かせた。久しく開けていない蓋である。木のはぜる音がして、そこではじめて動いた。
匂いが立った。
新しい俵の藁の匂いが空き地じゅうに満ちていて、そこへ、蔵に長く寝ていたものの匂いが混ざった。黴である。乾いた黴の、粉のような匂いであった。
中は、束であった。
紐で括ってあるものと、括っていないものが混ざっている。括ってあるほうは表が揃い、括っていないほうは端が反り返っていた。
光秀は、括っていないほうから取った。
一枚目は、去年の秋の、平群谷の年貢の帳である。
二枚目も、同じ谷のもの。ただし数が違う。
三枚目で、手が止まった。
同じ谷、同じ年の帳が、もう一通あった。
三通とも、数が違う。
書き損じではない。除いた分の立てかたが、三通とも違うのである。一通目は損亡を大きく見て、二通目は小さく見て、三通目はその間へ落としてある。
――算えたのではない。算え直したのである。
誰かが、三度算えた。
三度算えて、どれを上げるかを迷った跡が、そのまま束になって残っている。
光秀は、三通を並べた。
並べて、端の署判を見た。
二通には、判がある。
一通には、無い。
判の無いほうが、いちばん数字が細かかった。
光秀は、その一通を灯のほうへ寄せた。
寺へ持ち込むのは、こちらである。
預けた家は滅び、預けた当人は死んでいる。そこへ他家の者が行って「返せ」と言うのだから、寺が求めるのは一つしかない。
――誰が、いつ、幾ら預けたか。
それを書いた物と、書いた者である。
物のほうは、この櫃のどこかにあろう。
書いた者は、生きているかどうかも分からない。
夜が更けても、灯を落とさなかった。
束は、六十通を超えている。一枚ずつ見ていけば、五日はかかると踏んだ。
五日は、かからなかった。
三十枚ほど繰ったところで、繋がってしまったからである。
河内の代官所の帳と、大和の谷の帳と、山城の関の帳と――同じ手が、三国にまたがって出てくる。
名が違うのではない。書いている者が、同じなのである。
この十年、河内と大和と山城を回していたのは、木沢長政という男ではなかった。
この男の名で、判を押した者どもである。
その者どもは、いまどこにいる。
二人は太平寺で死んだ。何人かは散った。一人は筒井へ走った、と聞く。
残りは。
光秀は、灯を持って立った。
持って、門の外へ出た。
坂の下に、火が見える。三千の者が、そこで寝ている。
この城の飯を食い、この城の帳に名を書かれ、明日の朝も列に並ぶ者どもである。
名も、在所も、齢も、手に職も、こちらは既に訊いてある。
訊いていないことが、一つあった。
――誰の名で、判を押しておったか。
この帳を書いた者は、まだ生きておる。
生きて、下の火のところで寝ている。
その者を見つけねば、寺の門は開かぬ。
門が開かねば、五日目に、この火が消える。
*
櫃の底まで、繰った。
法隆寺の預状は、無かった。
三つとも底まで繰って、寺へ持ち込める書付は一枚も出なかったのである。あるのは、預けたという事実の影だけであった。二つの帳の差に、預けた米の嵩が出る。出るが、差は書付ではない。寺へ持っていって、これが証にござると言える証文ではない。
――物では、なかった。
光秀は、灯を落とした。
落としてから、暗いところでもう一度算えた。
証は、書いた者のほうにある。
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