第26話(十一)「二上山」
――同じ夜、更けてからである。
柳田甚内の手の者が来たのは、亥の刻であった。人が寝しずまる刻限である。
伊賀から大和北部へ伸ばしてある網の、その端のほうの者である。名は、久秀も知らない。知らぬままでよいことになっている。
男は、片膝をついて言った。
「――まず、信貴山にござります。日の順に、申し上げまする」
「うむ」
「十八日の夜、城が開いてござります。夜半に門が開き、寄せ手が入ってござります。……ただ、焼けておりませぬ。一棟も」
「聞いた」
「それと、蔵に封がしてござります」
「封」
「戸に縄を回し、その端へ紙が一枚、貼ってござります。麓の者に読ませましたところ、木沢の花押にござりました」
久秀は、割り付けから目を離さなかった。
「守っておるのは」
「木沢の者にござります。昨日までその蔵を守っておった者どもが、そのまま立っておりまする。……入れ替わってはおりませぬ」
字が、そこで読めなくなった。
城は要らぬ、と言ったのである。焼けたほうが安い、とも言った。物と、紙と、人——三つとも、城が焼けても手に入るからであった。
その城が、建っている。
建っているうえに、蔵が残り、蔵の封を前の主の者が守っている。
「……米は」
「そのままにござります。俵を運び出した跡は、道にも坂にもござりませなんだ」
「箱は」
「十九日の昼に、担ぎ手三十ばかりを付けて山を下りてござります。片目の御方が、御自ら付いて下りられました」
「よい」
よくはない。
獲れと言うたものは、みな獲れている。獲るなと言わなかったものが、そのぶん増えていた。
「――もう一つ、ござります」
と、男が言った。
「大和、二上山にござります」
「二上山」
「十九日の夜、こちらも城が開いてござります。同じく、焼けておりませぬ。……城中の者は散らず、そのまま城におる由にござります」
久秀は、割り付けを膝へ置いた。
勘助である。
あの片目が、二日で二つ目の城を開けた。
「幾人じゃ」
「そこまでは、聞いてござりませぬ。麓より上へは、誰も入れておりませぬゆえ、中のことは麓の噂よりほかにござらぬ」
「よい」
驚きはしなかった。
二日で二つなら、この男の速さとしては、むしろ遅いほうである。
「――それと」
男が、そこで一度、言葉を切った。
「どちらの城の櫓にも、旗が上がっておりまする」
「旗」
「三好の旗にござります。信貴山にも、二上山にも。……どちらも、麓から見上げて数えられるところに立ててござります」
久秀の指が、止まった。
「……両方か」
「両方にござります。麓から、どちらの山も見えまする。……見えるように、立ててござります」
「旗は、いつから立っておる」
「十九日の夕から、と聞いてござります。日の落ちるころに、山の腹で幾つも立ったと」
「夕」
「夕にござります」
久秀は、そこで一度、口を閉じた。
「……城が開くより、前か」
「前にござります。旗が立ってから、門が開くまでに一晩ござりました」
「――下がれ」
男は、下がった。
下がりぎわに、一度こちらを見た。何を見たのかは、分からない。
*
久秀は、床几から立った。
立って、二歩あるいた。
二歩で陣幕に突き当たり、戻って、また座った。
(まずい)
声には出ていない。
(まずい。まずい……これは、まずい)
旗のほうが、先であった。
開いてから立てたのなら、獲った城に印を付けただけである。開く前に立てたのなら、それは印ではない。まだこちらの物でないものに、こちらの名を掛けたことになる。
掛けたのは、久秀ではない。
久秀が銭で雇い、久秀が下知を出した男である。
――誰が、頼んだ。
誰も頼んでいない。
大和に三好の旗が二本立った、ということは、大和の国人が明日から三好へ使いを出すということである。使いは越水へ行く。越水は長慶様の城である。長慶様は、聞かれる。
「――大和は、いつ獲った」
その一言で、済む。
済むが、答えられぬ。
獲れと言われていない。獲ったとも言っていない。言わぬうちに、獲れてしまっている。
久秀は、脇の碗を取った。
取って、一息に干した。
冷えていた。
昼に点てさせたものであるから、冷えているのは当たり前である。当たり前であるが、久秀はいま、その茶の味を一つも見ていない。
この一服の値を、いつもなら算えるのである。
碗を、板へ戻した。
戻す音が、思ったより高く鳴った。
久秀は、脇の扇を取った。
取って、開こうとして、開かずに握った。
握ったまま、考えた。
倒させるか。
いま使いを出しても、着くまでに二日かかる。二日のあいだに、大和じゅうがあの旗を見る。倒したところで、倒したこと自体が、あれは間違いであったと触れて回るのと同じである。
――ならば、認めるか。
認めれば、大和は三好の物になる。
なるが、獲ったのは久秀の家来である。家来の手柄は主の手柄で、主の手柄は、そのまた主の耳へ入る。
入れば、訊かれる。
――いつ、誰が、なんの下知で。
手の中で、音がした。
乾いた、短い音である。
久秀は、手を開いた。
扇の骨が、要のところから二本、折れていた。
しばらく、それを見ていた。
見ていて、陣幕の外で番の者が咳をしたので、すぐに背を伸ばした。
伸ばして、折れた扇を袖の内へ入れた。
「――御用に、ござりまするか」
と、幕の外から声がした。
若い声である。
「無い」
「いま、何ぞ折れるような音がいたしましたゆえ」
「……蚊じゃ」
「は」
「蚊が、おった」
弥生に、蚊はおらぬ。
番の者は、しばらく黙っていた。
「……御免」
と言って、離れていった。
久秀は、袖の内を押さえたまま、その足音が遠くなるのを聞いていた。
久秀は、脇の文箱を引き寄せた。
蓋を開けると、写しが幾枚か重ねてある。
摂津の在所に隠してある小僧から、月に一点ずつ買うておる先の話である。買うた行を久秀が己の手で写したもので、字は久秀の手、書いてある中身は久秀のほかに読めない。
その一枚を、出した。
去年の秋に読み切ったほうである。行が、七つ並んでいる。
越水 囲マル
西宮 火
木沢 京ヘ 訴エ出ル
管領ト 切レル
公方様 近江ヘ
誰モ 担ガズ
来年 三月十七日 河内太平寺 木沢 討死
終いの行は、五日前に当たった。日も、場所も、結果も合った。
上の二行は、起きていない。
なにゆえ起きなかったかは、分かっている。
一昨年の八月、久秀は伊丹を消した。偽の書付を一枚こしらえて、摂津の一族を一つ断ったのである。邪魔であったからで、それだけのことであった。
それだけのことで、木沢の後詰が七百細った。
七百細れば、越水は囲めぬ。囲めぬ手は、はじめから組まれぬ。組まれぬ手は、西宮を焼かぬ。
書いてあった二行が、書いてあるまま、起きずに消えた。
――去年の一庫のとき、わしは安堵しておった。
当たるはずのものが当たらなくなるのは、こちらにとって都合がよい——あのときは、そう思ったのである。
いまは、そう思えなかった。
久秀は、幼いころ、東五百住の裏の川で石を投げて遊んだ。
投げれば、輪が出る。
輪は広がって、岸のところで消える。消えたと思って見ていると、向こう岸の葦が一本、遅れて揺れる。揺れたのが風か、己の投げた石か——それを言い当てるのが、子供の遊びであった。
朔が売っているのは、石を投げる前の川である。
どこが浅いか、どこで曲がるか、どこで淵になるか。それを写した絵図であって、投げたあとの川のことは、一行も書いてない。
伊丹で、一つ投げた。
――一庫でも、投げておる。
日の暮れに、己で数えたばかりであった。
書かれていない男が、書かれていない日に死んだ。そう数えて、軽く思った。紙の外で人が死んだわ、と。
軽く思えたのは、あれがこちらの狙ったとおりに起きたからである。
狙って投げた石の輪は、数えられる。
狙わずに出た輪は、数えられぬ。
久秀は、下の一枚を引き出した。
太平寺の写しである。弥生の座で、朔から一点で買うたほうであった。
その終いに、一行ある。
信貴山城 三月十九日 焼失
指で、なぞった。
なぞって、離した。
焼けていない。十九日は過ぎ、城は建っている。焼かなかったのは、ほかの誰でもない、己が銭で雇い、己が下知を出した家来であった。
――三つ目じゃ。
伊丹で一つ。一庫で一つ。信貴山で一つ。
そして二上山は、どこにも書かれていない。三千の兵が城に残って三好の旗の下に入るなどとは、一行たりとも無い。
四つ目は、もう輪の外にあった。
灯を寄せて、二枚を並べた。
当たった行と、当たらなかった行が、同じ一枚に並んでいる。
これは、当たる写しではない。外れる写しでもない。
――わしが触れた行から、順に死んでいく。
そこまでは、去年のうちに分かっていた。
分かっていなかったのは、その先である。
二上山の三千は、どの行が死んだ代わりに立っている。
――投げねば、何も獲れぬ、と申したな。
己で、申した。
日の暮れに、この床几の上で、口の端を上げて申したのである。
投げねば獲れぬのは、そのとおりであった。
そのとおりであるが、投げた石を、拾いに行くことはできぬ。
久秀は、袖の内へ手をやった。
折れた扇に、指が当たった。
当たって、そのまま握った。
文箱には、まだ写しがある。
五年の絵図がある。飢饉がいつまで続くか、どの家がいつ潰れるか——点を払って買い、まだ手を付けていない行が、幾つも残っている。
それが、どこまで当てになる。
……いや。
久秀は、目を閉じた。
当てにならぬのが困るのではない。
どの行が当てにならぬのかを、触ってみるまで見分けられぬのが困るのである。触れば、その行が死ぬ。死んだあとで、死んだと分かる。
――問わねばならぬ。
朔に、問わねばならぬ。
問うて、なんと答える。
あの小僧が知っているのは、投げる前の川だけである。知らぬものを訊かれれば、知らぬと答えるより仕方があるまい。
それでも、訊かねばならなかった。
訊かねばならぬということ自体が、久秀には初めてであった。これまでは、値を決めて、払って、受け取ればよかったのである。
――値の付かぬことを、あの小僧に訊く。
*
写しを文箱へ戻して、帳面を出した。
墨を、下ろす。
この十日、買った物は無い。月が替わらねば、書き入れるものも無い。書くことは、何も無いはずであった。
墨が、穂先で乾きはじめた。
久秀は、それを硯の縁で一度しごいた。
しごきすぎて、穂が割れた。
割れたまま、書いた。
一、旗 信貴山 二上山
一、借入 二点 ――二年にて返す
残り 四点
誰の許しも得ずに立った物が、帳面に二つだけ載った。
久秀は、筆を置いた。
置いて、すぐまた取った。
新しい紙を、一枚。
文である。宛先は、水江の朔。
――問う。
そこまで書いて、手が止まった。
なんと訊けばよいのかが、分からぬのである。
石を投げた。輪が広がっている。広がった先で何が起きるかを、と書きかけて、そのあとが続かなかった。
筆を置き、袖の内の扇を出して、板の上へ置いた。
骨が二本、要から折れている。
――ずいぶん、値を張ったのじゃがな。
喉の奥で、笑いに似たものが一度鳴った。
この陣には、言う相手がいない。




