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第26話(十)「二上山」

――弥生(三月)二十二日の、夜である。


 山城の南、木津川の東に陣を置いていた。


 三好の兵三百を預かって、木沢の残りを追っている。追うといっても、もう追う相手が少ない。この五日で捕らえたのは十七人で、そのうち十四人は武具を捨てていた。


 陣は、川に近い。夜になると水の匂いが上がってきて、それに馬の匂いと、乾ききらぬ具足の匂いが混ざる。陣は日ごとに移すが、移した先でも匂いは同じであった。五日も嗅いでいると、その三つが一つになって鼻につかなくなる。


 久秀は、床几しょうぎに腰を下ろして段銭たんせんの割り付けを読んでいた。


 昨日、越水から届いたものである。読んでも読まなくても、村ごとの取り分は去年と変わらない。


 同じところを、三度読んだ。


 三度目で、読むのをやめた。


 脇の板に、碗が一つ置いてある。


 昼に点てさせた茶が、半分ほど残っていた。


 碗の隣に、扇。


 去年、堺で求めたものである。骨は白竹で、かなめのところに小さな金物が入っている。値は言わぬが、久秀はこれを人前で開かない。開けば、値を知る者が寄ってくるからである。


    *


 摂津から使いが着いたのは、日の暮れであった。


 弟の家の者である。顔は知っている。名は、たしか助七といった。


 三日も鞍の上にいた者の膝の折り方であった。袴の裾が乾いた泥で白くなっており、烏帽子の下から出ている髪に、細かい埃が積もっている。それでも、片膝をついてから背だけはまっすぐに伸ばした。


 水も飲まずに、そのまま口を開いた。


 「――一庫、落ちましてござります。十八日の未明、二の木戸まで抜き、明るくなるのを待って城中の者を出させましてござります」


 久秀は、割り付けを膝へ置いた。


 「四日かかっておるな」


 「殿の御陣が日ごとに動かれまするゆえ、木津へ着くまでに三日かかりましてござります。十九日の朝、一庫を発ちましてござる」


 「よい。……手順から言え」


 久秀は、床几の上で少し脚を組み替えた。


 脚を組み替えるついでに、扇の要で膝を一度だけ叩いた。


 急いで結びを聞くつもりはなかった。順に聞けば、この使いがどこまで見ていて、どこから人伝てかが分かる。分かれば、弟がこの者に何をどこまで喋らせたかも分かる。


 「は。谷の口の手前で、河内から戻ってきた塩川の手の者と行き合いましてござります。討ち取って、その具足を着せ、塩川の旗と主の身柄をもって、麓の館の木戸を開けさせましてござります」


 「開いたか」


 「開き申した。ただ、木戸番の老足軽が松明の数を算えはじめましてござりまするゆえ、殿が『河内じゃ』と一言、投げられました。それで算えるのをやめましてござります」


 久秀は、うなずいた。


 数えられるより、慌てられるほうがよい——そう教えたのは、久秀である。


 「塩川国満は」


 「討ち取ってござります。二の木戸の内で、殿御自らの手にて。……ただ、暗いうちに討たれたのではござりませぬ。明るくなるまで、一刻ほどお待ちになりました」


 「待った、と」


 「待たれましてござります」


 久秀は、そこで少し黙った。


 夜のうちに討てば、討たれた側の顔が見えぬ。見えぬままにしておくのは、討つ者の側の楽である。楽をしなかった、ということであった。


 「肩は」


 「左に、骨まで届く傷を負われましてござります。金瘡医は谷の者を使いました。腕は上がりまするが、槍はまだ持てませぬ」


 「うむ」


 「城は焼けておりませぬ。蔵も、そのままにござります」


 「よい」


 これでよい。


 「――それで、あとの御指図をいただきたいと、殿が仰せにござります。城の始末、人の始末、蔵の始末。四つほど、伺うてまいれと言いつかってござります」


 「申せ」


 「一つ。城は、破りまするか、置きまするか」


 「置け」


 「置くとなりますると、誰が」


 「長頼が入れ。当分、動くな。城下へも下りるな」


 「……殿は、次は河内へ回りたいと仰せにござりまするが」


 「回らせぬ。肩に穴の空いた者を、どこへも出さぬ」


 久秀は、そこで言葉を足した。


 「――座っておるのも役目のうちじゃと、そう申せ。あれは、じっとしておるのがいちばん下手じゃ」


 使いの口の端が、わずかに動いた。


 笑いかけて、慌てて戻したのである。伝えろと言われた冗談を、伝えてよいものか迷った顔であった。


 弟は、この者を選んで寄越している。ものを覚える者を選んでいる。


 「二つ目は」


 「蔵にござります。兵糧が、大小あわせて二百石ばかり。武具のたぐいも残っておりまする。越水へ運びまするか」


 「運ぶな」


 「置きまするか」


 「置け。ただし、数えよ。米も、麦も、弓も、矢も、一つ残らず数えて帳に載せて、その帳をわしのところへ回せ」


 「承知つかまつりました」


 「載せたうえで、動かすな」


 使いが、そこで顔を上げた。


 「……お待ちくだされ。城には、殿の御手の者が入りまする。入って、当分は動くなと仰せられた。……うちの荷は、もう底にござります。落ちた日から四日、囲まれておった者どもへ、こちらの米で粥を炊いておりますゆえ」


 「食う物は、そこにあるではないか」


 「動かすなと、仰せられました」


 「動かすなとは申した。取るなと申したのじゃ」


 久秀は、扇を取って、膝の上へ横に置いた。


 「――食え。食うて、食うたぶんを帳の脇へ別に書け。何月何日に、何石。米と麦は分けて書け。……その脇の帳は、蔵の帳とは別に綴じよ」


 「別に、にござりまするか」


 「一つに綴じれば、減った帳になる。別に綴じれば、借りた帳になる」


 「……借りると申されましても、あの城は、もう」


 「まだ、誰の物とも決まっておらぬ」


 久秀は、割り付けの紙を膝の上で揃えた。


 「長慶様が、あの城を誰ぞに宛行あてがわれる日が来る。その日に蔵が減っておれば、減らしたのは松永じゃ。……城を一つ拾うて、二百石の借りを背負う。安い買い物ではないわ」


 「なれば、別に綴じました帳は」


 「そのまま、長慶様への口上になる。一庫を落として、蔵の一粒も食わなんだ、と。……食うても、食うたと書いてある帳は、食わなんだのと同じじゃ」


 「承知つかまつりました」


 言いながら、この男は口の中で二、三度、いまの言葉を繰り返していた。覚えて帰るつもりなのである。


 外で、馬が一頭、鼻を鳴らした。


 「三つ目は」


 「谷から放ちました者どもにござります。百十三人ほど出しましたが、日に十人ばかり、戻ってまいりまする。追い返しておりまするが」


 「受けよ」


 「……受けて、よろしゅうござりまするか」


 「受けよ。名と、齢と、在所と、手に職を訊いて、帳に載せよ。載せた者には飯を出せ。載らぬ者には出すな。それだけでよい」


 「飯を、出しまするか」


 「出さねば、山へ入る。山へ入られると、あとで銭がかかる」


 使いは、それを覚えるという顔で二度うなずいた。


 「四つ目は」


 「谷の奥にござります。切り出しの跡が、幾つか残っておりまする。古いものにござりまするが、殿が、人を入れて改めまするかと」


 久秀は、そこで初めて間を置いた。


 碗のほうへ目をやり、目をやっただけで、手は伸ばさなかった。


 「――入れるな」


 「は」


 「誰も入れるな。改めるな。数えるな。近くの者にも訊くな。あの谷の奥のことは、当分、どの帳にも載せぬ」


 「……なにゆえと、殿にお訊ねされました節は」


 「訊かぬ男じゃ。訊かぬゆえ、任せておる」


 使いは、それ以上は訊かなかった。


 「越水へは、わしから出す。長慶様の御耳には、わしの名で入れる」


 「……長頼様の御名は」


 「出すな」


 「手柄にござりますのに」


 「手柄は、届け方で値が変わる。早う出せばよいというものではない」


 久秀は、割り付けの紙を膝の上で揃えた。


 「一庫ひとつを、いま長慶様の御前へ置いてみよ。よう働いたと仰せられて、それで終いじゃ。……谷まで抱えてから置けば、同じ城が倍で通る」


 「なれど、落としましたのは、我が殿にござりまする」


 「落とした者の名を出せば、次からは長慶様が、あれに直に物を言われる。直に言われるようになれば、あれの働きは、あれの物になる」


 使いが、膝の上の手を握り直した。


 「それに、名の出た者のところへは、あとで訊きに来る者も来る。……あれは、訊かぬ男じゃが、訊かれれば答える」


 「――あれには、まだ早い」


 「――ほかには」


 「ござりませぬ」


 「大儀であった。馬を替えて、休め。明日の朝、発て」


    *


 一人になってから、久秀は口の端が上がるのを、しばらくそのままにしていた。


 弟には、出しぎわに四つしか言っていない。連れてゆくのは家の者だけ、城は焼くな、蔵も焼くな、あとは己で決めよ——それだけである。


 そのとおりに歩き、そのとおりに落とし、落としたうえで、決めきれぬところだけを四つに束ねて訊いてきた。


 訊いてきた四つが、どれも訊くべきことであった。


 あれは、育った。


 一庫は、谷の戸口である。


 戸口の主が代われば、谷の奥のことは、こちらの都合で決められる。あの谷の上に何が眠っているかを知っている者は、この世に幾人もいない。


 去年の秋、その城を四十七日囲んだのは、こちらであった。囲みを解かせたのが木沢で、その木沢が五日前に討たれ、いま城が落ちている。


 順が、揃っている。


 ただ一つ、揃っていないものがあった。


 塩川国満という男のことは、朔から買うた行のどこにも書かれていない。訴え出る者の名は三宅と伊丹であって、塩川ではなかった。書かれていない男が去年から一庫に居座り、書かれていない日に死んだのである。


 ――紙の外で、人が死んだわ。


 久秀は、それを軽く思った。


 思って、割り付けを拾い直した。


 水の流れを、少し変えたやもしれぬ。


 変えたところで、致し方あるまい。あの谷を抱えるには、一庫が要る。要るものを獲るのに、書付の都合まで見てはおられぬ。


 石を投げれば、輪が出る。


 輪の出ぬ石は無い。


 投げねば、何も獲れぬ。

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