第26話(九)「二上山」
――同じ夜の、遅くである。
座敷へ通したのは、一人であった。
万歳の使いだという。
この山のまわりには、木沢に付いていた国人の家が幾つかある。万歳はそのうちの一つで、二上山の東の麓に館があった。門が開くのを、この家は麓から実際に見ている。
男は、名を告げた。
告げてから、当主の名も告げた。
「――一昨夜、旗を見ましてござります」
と、その男が言った。
「見られたか」
「北の斜面にござります。……幾つとも、算えられませなんだ」
勘助は、杖の先を土へ立てた。
それが返事であった。
「当主が、一度お目にかかりたいと」
「明日にでも」
「明日にござるか」
「明日、こちらへ参られよ。飯の刻がよい」
男は、そこで少し黙った。
「……食わせていただけるのでござりまするか」
「食わせる」
男の肩が、わずかに落ちた。
落ちてから、膝を進めた。
「――当主が、もう一つ言うておりました」
「うむ」
「田のことにござる。……当家の田を、そのままとお認めいただけるならば、と」
灯の芯が、じりと鳴った。
勘助は、それが鳴り終わるまで待った。
信貴山でなら、この場で認めていた。認めても、こちらは一坪も持っておらぬのだから、認めること自体には何も要らない。要らぬものを渡して、城が一つ開くのであれば安い——そう算えて、実際に一つ開けた。
開けた翌日に、三千の口が付いてきた。
安いはずのものが、日に十二石になっている。
「……田の安堵は、拙者が決めることではござらぬ。殿がなさる」
と、勘助は言った。
「殿と仰せられますると、どなたにござりまするか」
「松永久秀にござる。三好の家中の者で、いまは摂津におられる」
「なれば、その御方への御取次を、お願い申し上げたい」
「拙者が、取り次ぐ。……ただし、今日は何も答えぬ」
男は、腑に落ちぬという顔をした。
落ちぬまま、頭を下げて出ていった。
勘助は、そのあとしばらく灯を見ていた。
言えたはずの一言を、言わなかった。
*
同じ在所の国人衆に、岡と箸尾がある。
この二つからは、使いが姿を見せなかった。
来たことは来た。
夜の遅くに麓の番のところへ立ち、名を告げずに二つ三つ訊いて、返事を聞いて帰っていったという。合印も出さず、来た道と帰った道が違っていた。
「――二日で、三つにござる」
と、次郎太が言った。
「万歳と、岡と、箸尾にござる。あとの二つは、麓の番のところへ立っただけで、名を告げませなんだ」
「訊いていったのは、何じゃ」
「三つとも、同じことにござる。……飯は、まことに出るのか、と。それだけ訊いて、帰りましてござる」
勘助は、脇の板を見た。
そこに、今日の帳が積んである。
「明日、万歳が食えば、明後日には岡と箸尾が来る。……この三つは互いに見合うておるゆえ、一つが動けば残りも動く」
「参りましょうな。館の者を連れて参りましょう」
「来れば、そのぶん口が増える」
「増えまする。……四百の日銭は、今日の暮れで終いにござるが」
次郎太は、言いかけた口を閉じた。
閉じた歯の欠けたところから、息が洩れた。
吐いてから、言った。
「――四百の口は、どこから食わせまする。あれらは銭で来ておる者にござるゆえ、銭が切れれば、明日の朝には半分に減りまする」
勘助は、答えなかった。
答えずに、板の上の帳を揃えた。
次郎太は、それきり訊かなかった。訊いても日銭が増えぬことを、この男は知っている。ただ、今日は座を立つのが少し遅かった。
*
旗は、倒していない。
夜のあいだも、火は焚かせてある。生木を混ぜた煙が、尾根を越えて谷へ落ちていく。斜面を歩かせる者は減らしたが、まったく止めてはいない。
「……いつまで、立てておかれる」
と、去りぎわに次郎太が訊いた。
「――米が、続くまでじゃ」
次郎太は、片眉を上げた。
上げたが、何も言わずに出ていった。
麓の者は、もう知っている。番の者に訊けば四百と答えるし、四百と答えるなと言い渡してもいない。列に並んでいる三千のうちにも、数えた者は幾人もおろう。
――知らぬのは、遠くの者だけじゃ。
旗が支えているのは、坂の下ではない。まだこの山を見ていない者の目である。倒せば、その者どもの目が一斉にこちらを向く。
立て続けるには、四百がそこにいなければならない。
四百がそこにいるには、四百が食わねばならない。
*
――弥生二十二日の、暁である。
帳場の板の間に、二人でいた。
机は片づけていない。莚の上に昨日の帳が積んだままになっている。脇に升が一つ、伏せて置いてあった。昨夜、米を量ったときのものである。量り終えて、伏せたまま誰も戻していない。
外は、まだ暗い。
東の縁だけが、わずかに白んでいる。
戸を開けたままにしてあるので、夜露の匂いが入ってきていた。昨夜の竈は落としてある。落とした灰の匂いが、露に湿って重くなり、板の間の隅にたまっていた。
光秀が、束を開いていた。
河内と山城で押さえてきたほうである。角の折れた一枚を上にして、灯を寄せて読んでいた。
「――蔵と、買い上げたぶんを合わせて、幾日持ちまする」
と、光秀が訊いた。
「二日にござる。今日を入れて、二日」
「信貴山のぶんは」
「今朝、下の三千から三百出して、担ぎに立たせてござる。早うて明後日の暮れ、遅ければ三日目の朝にござる。……着けば、四日は延びまする。旗の四百に扶持を出しますゆえ、日に十九石で算えてござる」
「その七日のあとは」
「知らぬ。……知らぬまま、旗を立てておる」
勘助は、伏せた升を見ていた。
昨日、この升で量った。量りながら、思い出したことがある。信貴山を出る前の夜、あの広間で、掌に載るほどの包みが一つ、宿老の袂へ移った。灰吹きの銀である。米にすれば、十石ばかりであった。
あれが、この城の一日であった。
銀ひと包みが、一日である。
「……勘助殿」
「うむ」
「米は、ござる。この帳の中に、まだ残っておりまする」
勘助は、顔を上げた。
「どこにある」
光秀が、束の一枚をめくった。
めくって、指で押さえた。
「――去年の秋、木沢が預けておりまする。同じ数が、二つの帳に出て参る。片方には、渡した先が書いてござる」
「幾らほどじゃ」
「二つの帳の差を取りますると、三百石は超えましょう。……上手をすれば、四百に届きましょう」
三百石であった。
三千の口で、日に十五石。旗を持つ四百を入れて十七石。扶持を出せば、十九石。
――ひと月に、足らぬ。
だが、いま無いものが、そこには在る。
「どこへ預けた。渡した先が書いてあると言うたな」
「鵤と、書いてござる」
勘助は、その名を知らなかった。
大和の郷の名であろうということは分かる。分かるが、己も、光秀も、大和の生まれではない。片方は東国を流れて来た牢人で、片方は近江から来た。
板の間の端に、もう一人いた。
昨夜から、そこに座っている。座敷を出てから、誰とも口をきいていない男である。
その男が、顔を上げた。
「――鵤は」
と、木沢秀種が言った。
「鵤は、寺の荘にござる」
灯が、一度だけ揺れた。
■用語解説
・預け米…家の兵糧を、寺や有力な社に預けておくこと。寺は焼かれず、盗られず、貸し借りの証も立つので、戦国の武家はしばしば米を寺へ預けた。預けた先が寺であるということは、取り返すのに兵が使えないということでもある。




