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第26話(七)「二上山」

――弥生(三月)二十日の、暮れである。


 その日の暮れに、帳を数えた。


 名が、二千九百と幾つ。


 城にいたのは三千である。足りぬ百ばかりは、昨夜から今日にかけて坂を下りた者であった。


 下りた側の数は、書いていない。


 帳に載らぬ者を数える役は、この城の誰にも言いつけられていなかった。


 そのうち、在所の欄の空いているものが、二百と幾つあった。


 光秀は、束を揃えて置いた。


 置いてから、脇の己の紙束を見た。河内と山城で押さえてきたほうである。角の折れた一枚がいちばん上にあった。


 二千九百幾つの名と、その一枚とが、同じ板の上に並んでいる。


 ――これは、軍ではない。


 書き上がったものを見て、そう思った。


 家を失うた者の、交名きょうみょうである。


    *


 弥生二十一日の、夕である。


 釜を、四つ据えた。


 城の空き地である。三つは城の板場から出し、一つは麓の家から借りた。据えるだけで半日かかった。据えてから、水を運ぶ者を三十人、薪を割る者を二十人、それぞれ帳から選んで出した。


 選ぶ元は、光秀の帳である。名の下に、手に職を書いた欄がある。


 水は、谷から上げた。


 薪は、旗の竿の余りを割って足した。



 米は、麓の郷から買い上げた。


 買い上げた、と言えば聞こえがよい。実のところは、四つの郷を回って、出したのが二つである。


 出さなかった郷では、庄屋が土間へ手をついた。銭は要らぬ、と言った。要らぬから、米も無い、と言った。


 人を出した者どもの話では、どの郷にも子供の声がしなかったという。


 子供が声を出すのは、まだ元気なほうである。


 二上山の蔵にあったのは、三日ぶんに足らぬ。城の者が三千いて、日に十五石を食う。足りぬぶんを買うために、勘助は谷を三つ下りた郷まで人を出した。


 銭は、四百の日銭の残りから出した。旗の布と麻を買うて残ったものであるから、四百の三日ぶんにも足らぬ。三千の口には、初めから届いていない。


 九十日、と己で申し上げた。


 如月の末、越水の広間である。三つの城へ入る荷を数え、その入りようから割った数であった。


 入る荷は、数えられた。


 出る荷を、数えなかった。


 木沢が河内へ出るとき、蔵は荷駄に付いて山を下りている。高屋の囲みも、この蔵から食うていた。負けた先で、それがどうなったかは知れている。


 もう一つ、あった。


 割るときに使うたのは、旗の数である。旗は、椀を持たぬ。人足がおり、小者がおり、厩の者がおり、飯を炊く女がおる。みな、旗を持たずに食う。


 ――九十日は、荷の入るあいだの九十日であった。


 入らなくなった日から先のことは、あの数のどこにも書いてはおらぬ。


 「――今日で、三日目にござる」


 と、次郎太が言った。


 「今日の暮れで終いにござる。明日からは、殿の銭を待つことになりまする。……越水へ使いを立てても、往きに二日、返りに二日にござろう」


 「待つよりない」


 「待って、来なんだら、いかがなされまする。四百に、明後日の日銭が無いということにござるぞ」


 釜の蓋が、鳴った。


 勘助はそちらへ顎をやり、それで返事にした。


 湯気が上がっている。四つとも、蓋が動きはじめていた。


 やがて、匂いが来た。


 炊き上がりの匂いである。並んでいる者の列が、そこで一度、前へ詰まった。詰まってから、また元に戻った。


 四つのうち一つは、底を焦がした。焦げた匂いは甘く、遠くまで届く。


 その釜の列だけ、動きが遅くなった。


 「……底を、いただけませぬか」


 と、年寄りが一人、言った。


 「上のは、歯にかかりませぬ。焦げは、しばらく口に残りますで」


 杓子しゃくしで底を掻いて、椀へ入れてやった。


 年寄りは、それを一度、鼻へ寄せた。


 寄せてから、食った。



 麦は、混ぜなかった。


 混ぜる麦が無かったのである。買い上げた米はそのまま米で、麦を足せばかさが増えることは分かっていたが、麦は郷にも残っていなかった。前の年の暮れに食い尽くしている。


 塩は、入れた。


 入れたのは、勘助の指図である。


 「――塩を、惜しむな」


 と、飯を炊く者へ言った。


 「握らせるなら、塩が要る。握らずに椀へ盛るなら、上へ振りなされ」


 「……塩は、値が張りまする。米より高うつく日もござる」


 「張るであろうな」


 「なれば、米を減らして塩を足されまするか。同じ銭であれば、そのほうが」


 「減らさぬ。塩の入っておらぬ飯は、腹に入っても力にならぬ。……今日の一杯で、明日も来ると思わせねばならぬのじゃ」


 炊く者は、それ以上は訊かなかった。


 塩は、信貴山から担がせてきた。旗の布を買った銭で、麻と一緒に買ったものである。


    *


 列は、日の落ちる前にできた。


 三千である。


 四つの釜では足りぬので四列に分けたが、分けてもいちばん後ろの者は坂の途中まで並び、そこから先はもう釜の湯気も見えぬところで、誰も喋らずに立っていた。


 椀を持っている者は、四人に一人ほどであった。


 持っていない者は、両手で受けた。


 受けて、熱くて持ち替えられず、そのまま立っている若い者がいた。手のひらの上で握り飯が転がり、落としかけて、膝を折って受け止めた。受け止めてから、周りを見た。


 誰も見ていなかった。


 皆、己の手のものを見ていた。



 掻き込む音だけが、していた。


 喋る者はいない。噛む音も、ほとんどしない。飲み込むようにして食い、食い終わると、掌を、椀を持つ者は椀の底を、指で拭う。拭った指を舐める。


 三千が同じことをしているので、その音が地面から立つように聞こえた。


 列の脇に、木沢秀種が立っていた。


 何も言わず、椀を受ける者を一人ずつ見ている。受けた者は、その前を通るとき、必ず一度そちらを見た。見てから、旗のほうを見る者もあった。


 勘助は、少し離れて立っていた。


 次郎太が、脇へ来た。


 「……三日ばかり食うておらぬ者の、食いようにござる。噛まずに飲んでおりまする」


 「三日ではない」


 「なれば、幾日にござる」


 「あれは、十日じゃ。十日食わぬと、噛むことを忘れる」


 十日食っておらぬ者は、掻き込まない。掻き込む力が残っておらぬからである。掻き込めるのは、まだ体が動く者だけであった。



 袖へ、入れようとした男がいた。


 握り飯を二つ受け取り、一つを口へ入れ、もう一つを袖へ落とそうとした。落とす途中で隣の者と目が合い、その手が止まった。


 男は、出した。


 出して、口へ入れた。


 入れながら、隣の者を見なかった。


 勘助は、それを見た。


 見て、何も言わなかった。


 己の椀も、脇に置いてある。受けたが、まだ手を付けていない。


 一口食うと、塩が利きすぎていた。惜しむなと言うたのは己であるから、文句の持って行き先が無い。


 二口で食い終えて、椀の底を指で拭った。


 拭ってから、三千が同じことをしているのに気がついた。


    *


 机が、片づけられずに残っている。


 光秀が、そこで帳を繰っていた。飯の刻になっても離れず、書き終えた束を一枚ずつ繰り返して見ている。


 「……お頭」


 と、声がした。


 振り向くと、男が一人、椀を持ったまま立っていた。


 日に焼けて、首の後ろだけ白い。右の親指の腹に胼胝がある。昨日、机の前で木挽と答えた男であった。


 「――七蔵と申します」


 「うむ」


 「今朝、机の前で名を書いていただきました者にござります。……載せていただいて、ありがたいことにござります」


 男は、頭を下げた。


 椀を持ったまま下げたので、中の飯が少し傾いた。傾いたのを慌てて直し、直してから、もう一度下げた。


 「……木挽の口を、書いていただきました」


 声が、湿っていた。


 「あの欄は、去年の秋から、誰にも訊かれておりませなんだ」


 「まだ挽けるか。指は動くか」


 「挽けます。三年ばかり触っておりませぬが、手のほうが覚えておりましょう」


 「大鋸おがは、持っておるか」


 「……秋の普請の折に、取り上げられましてござります。あれは高うござりますゆえ、買い直しもできませなんだ」


 「なれば、買うてやる。挽くには、要るものじゃ」


 男が、顔を上げた。


 上げてから、二度、口を開けて閉じた。


 「……よろしゅうござりまするか。手前ごときに」


 「挽く物が要るのじゃ。挽く者に道具が無うては、こちらが困る。……礼を言うのは、こちらのほうよ」


 男は、また頭を下げた。


 下げたまま、しばらく上げなかった。


 勘助は、顎を引いた。


 それ以上は言わなかった。買うてやると言ったが、その銭はまだ無い。


 男が下がってから、光秀が束を繰る手を止めた。


 「……いまの者は、どなたにござりまするか」


 「木挽じゃ。今朝、そこもとの机の前に立った者よ」


 「……名を、聞き洩らしました。四つ訊いて、四つとも書いたはずにござるが」


 光秀は、束を戻して繰り直した。一枚、二枚と繰って、三枚目の途中で指が止まった。


 「――七蔵」


 と、読んだ。


 昨日、己で書いた名である。


 三千とは、そういう数であった。



 釜の底を掻く音が、止んだ。


 止んだのは、四つのうち二つである。二つは空になり、残る二つにはまだ湯気が立っていた。列の後ろのほうで、肩の下がった者どもがいる。


 勘助は、次郎太を呼んだ。


 「――明日の分は」


 「一日に、十五石にござる。一人五合で算えて、三千で十五石」


 「十五石か」


 「三千で日に十五石。それに旗を持っておる四百を入れますると、十七石にござる。……四百は、いま山の裏で歩いておるだけにござるが、あれも食いまする」


 次郎太は、そこで一度、口を閉じた。


 「郷から買えるのが、あと二日ぶんにござる。三日目からは、買う先がござらぬ」


 「銭が、無いのか」


 「銭も、明日には尽きまする。……そのうえ、売る米そのものがござらぬ。銭を積んでも、無いものは出て参りませぬ」


 「隣の郷は、当たったか」


 「当たってござる。……銭を積んでも、無いものは出て参りませぬ」


 「奈良まで出れば、あろう」


 「ござりましょう。なれど、遠うござる。往きに一日、返りに一日、担ぐ手が道々で食いますで、着くころには目減りしておりまする」


 去年と一昨年、畿内は飢えている。麦は食い尽くし、米は種籾たねもみまで手を付けた郷が多い。銭を積んだところで、無いものは出てこない。


 勘助は、山のほうを見た。


 信貴山は、尾根の向こうである。ここからは見えない。


 「……信貴山には」


 と、次郎太が言いかけた。


 「あの蔵にはまだ、たんとござる。手前どもが数えてござる。俵で、二百は残っておりましょう。谷を三つ越えて二日、担ぐ手を三百も出せば、四日目からの飯が立ちまする」


 「立つな」


 「なれど、あの戸には木沢の花押が据えてござる。据えさせたのは、御身にござろう。守っておるのも、木沢の者にござる」


 「そうじゃ」


 「……なれば、切れませぬな」


 「切る」


 次郎太が、こちらを見た。


 見て、しばらく口を開けていた。


 「……御身が、御自ら貼らせたものにござるぞ」


 「貼らせた。貼らせて、木沢の者に守らせた。……銭で来た者は、銭の切れた日に守るのをやめるゆえ、己の家の物を守る者に守らせたのじゃ」


 「なれば、なおのこと」


 「切る。三千が明後日から食えぬのに、尾根の向こうで俵が二百寝ておる。寝かせておく道理が無い」


 うしろで、灰を踏む音がした。


 振り向くと、秀種が立っていた。列の脇からいつのまにか来ている。どこから聞いていたかは、分からない。


 「――切られよ」


 と、秀種が言った。


 「使いは、拙者が立てまする。あの戸を守っておるのは、昨日まであの蔵の物を守っておった者どもにござる。皆、名を知っておりまする。拙者の書付を持たせれば、退きまする」


 「退かれては、困る」


 秀種が、眉を寄せた。


 「……あの蔵は、そちらの物にござろう。城も蔵も、渡してござる。安堵をいただいた覚えもござらぬ。……手前どもに、いまさら守る筋はござらぬが」


 「筋の話ではござらぬ」


 勘助は、そう言った。


 「あの封は、木沢から蔵を守るために貼ったものではござらぬ。こちらの四百から守るために貼ったのじゃ。銭で来た者は、銭の切れた日に手を出す。己の家の物を守る者は、焼いてでも渡さぬ。……ゆえに、御身の花押をお借りした」


 秀種が、口を閉じた。


 「借りた物は、まだ返しておらぬ。……御身が書付一枚で退かせれば、あれは、頼めば退く花押にござる。頼めば退くと知れた花押は、明日からこの山で一枚も効き申さぬ」


 「……この山で、拙者の名を、まだ使われるか」


 「三千が、おりまする。この先ひと月、飯も、名も、去就も、御身の名で約したものにござろう。……こちらは、それが効くという値で買うてござる」


 秀種は、しばらく黙っていた。


 「……押し退けられよ、と」


 「押し退けまする。こちらは手を出さぬ。守っておる者どもには、退かぬままでいていただきたい。……退かなんだ者は、明日も守る者にござる。差し出した者は、明日から何も守りませぬ」


 「……そちらは、それで何を得られる」


 「恨まれまする」


 「恨まれて、なんとなさる」


 「恨む相手のおる家は、離散いたしませぬ。離散されては、こちらが困る。……あの蔵を、この先も守る者が要り申す」


 秀種の口の端が、動いた。


 笑ったのではない。笑いかけて、途中でやめたように見えた。


 「……手向かわせまする」


 と、秀種は言った。


 「怪我は、させぬようにいたす。……なれど、守りの者のうち一人だけは、打たれて倒れておくよう申しつけまする。押し退けられて開いたのだと、担ぎに行った三千の目に映らねば、意味がござるまい」


 「御身は、算えかたを覚えられるのが早い」


 「昨日から、そればかり見ており申す」


 次郎太は、まだ得心しない顔をしていた。


 「……あれを切れば、手前どもが見ますぞ」


 「見るな」


 「見まする。押し退けて入ったのだといたしましても、あの戸が開いたことに変わりはござらぬ。……封は切ってよいものだと、四百が覚えまする。覚えた者は、明日この山でも同じことをいたす」


 「そうじゃ」


 勘助は、それを認めた。


 「ゆえに、切る前にやることがある」

■用語解説

端境はざかい…前の年の米が尽き、その年の麦や米がまだ実らぬあいだの季節。春から初夏にかけてがこれにあたり、蔵の底が見える時期である。飢饉の翌年はことに長く、この時季に人を大勢養える家は、そう多くなかった。

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