第26話(六)「二上山」
――弥生(三月)二十日の、朝である。
木沢の帳面を押さえよ、というのが明智光秀に下された下知であった。木沢の家の書付は河内にも山城にもあり、この二日、光秀は北を回っている。
押さえた。
押さえたことを申し上げる相手がどこにもいなかった。
本陣は日ごとに動く。行った先で聞けば、昨日発たれたと言われる。二度そう言われて、三度目に出会った物見の者からは、今朝はどちらとも存じませぬ、と返ってきた。
使いは出した。
出したが、返事は待っていない。
二上山の麓へ着いたのは、日の上がりきらぬころであった。
馬から下りたとき、足が地面で一度泳いだ。
二日も鞍の上にいたのである。口の中が乾き、舌が上顎に貼りついていた。懐の紙束は、一枚だけ角が折れている。昨夜、宿の灯の下で開いて、そこだけ折った。
門の脇に、白い布が一枚、竿に結んであった。旗ではない。合印である。昨夜のうちに、誰かが結んだものらしかった。
顔を上げて、山を見た。
旗が、立っていた。
北の斜面である。木の切れたところに、間を置いて並んでいる。数えようとして途中でやめた。数えるより先に目についたものがあった。
紋が、揃っていない。
「……あの旗は、幾人おられての旗にござる」
と、光秀は訊いた。
答えたのは、麓で番をしていた陣借りの一人である。
「四百にござる」
「……いま、四百と言うたか」
「四百にござります。谷の口から上がってこられた御方が、四百」
光秀は、もう一度、斜面を見た。
旗は、二百幾つあった。
「あの二つ引きは、管領様の御紋と見えるが。……細川様の御手勢が、大和におわしまするか」
「さようにござる。管領様の御紋と、伺うてござる」
「どなたが、お立てになった」
番の者は、答えなかった。
答えられなかったのではないらしい。旗は昨日の夕に立てたもので、立てよと言ったのは片目の御方であった——この者にとっては、それで話が終わっている、という顔であった。
光秀は、それきり訊かなかった。
訊かずに、坂を上った。
上りながら算えた。細川の紋は、この場に立てられるはずのないものである。管領家の兵は、この山にいない。いないものの紋が、二百幾つのうちの半ばを占めて立っている。
――これを、殿は御存じか。
存じておられるはずがなかった。二日、行き当たらなかった相手である。
坂の途中で、下りてくる者とすれ違った。
城の者であった。荷を負ったまま、こちらを見ずに下りていく。四人続けてすれ違い、そのあと間が空いて、また三人来た。
誰も、止められていなかった。
*
大手の門は、両側へ開いていた。
開いた門の前に、机が三つ並べてある。
板を渡しただけの机である。その向こうに莚が敷かれ、筆と硯と紙の束が置いてあった。
勘助が、脇に立っていた。
「――遅う参りました。河内と山城を回っておりましたゆえ、こちらへは今朝になりました」
と、光秀は言った。
「早うござる。門が開いたのは昨夜のことにござれば、丸一日と経っておらぬ」
「昨夜の内に、開きましたか。……焼かずに、にござりまするな」
「焼かずに開き申した。中の者も、そのままにござる」
光秀は、門の内を見た。
人が、いた。
曲輪にも渡りにも坂の下にも人がいた。座る者、立つ者、荷を抱えたまま動かぬ者。市の立つ日の門前によく似ていて、ただ、売る物を持った者が一人もいない。
「……この者ども、幾人おられまする」
「まだ数えておらぬ。昨夜入ったばかりゆえ、名も一つも訊いておらぬ」
「見当だけでも、伺いとうござる」
「曲輪と渡りと坂を足して、三千おる」
「……三千、にござりまするか」
「長政どのが置いていった数が、そのままじゃ。……いまのところは」
「いまのところ、とは」
「昨夜から、幾人か下りておる。門は開けたままにしてあるゆえ、止めておらぬ」
「……止められませぬのか」
「止めれば、囲みになる」
光秀は、そこで黙った。
黙ってから、もう一度、門の内を見た。
――三千が、明日も三千でいる道理はない。
「――勘助殿」
「うむ」
「昨夜、開けられたのは城にござりましょう。……この者どもは、何にござりまする」
「城中の者にござる」
「城中の者は、城を出れば、ただの者にござりましょう。出しもせず、抱えもせず、ここに置かれておりまする」
「置いておらぬ。門は開けたままにしてある。出たい者は出ておるし、現に、昨夜から出ていった者もおる」
「では、残った者は、なにゆえ残っておりまする」
「残る先があるからじゃ。……出ていった者は、出ていく先があった者よ」
光秀は、息を吐いた。
この男の答えは、いつもこうであった。起きたことしか言わない。起きたことをどう始末するかは、訊かれるまで言わない。訊いても、たいてい答えない。
「……この者どもは、明日から何を食いまする。三千を二日抱えれば、蔵の底が見えましょう」
「炊く。麓の郷から買い上げる手筈は、昨夜のうちに出してある」
「買い上げて、幾日持ちまするか」
勘助は、杖の先で土を一度掻いた。
掻いた跡は、何の形にもならなかった。
三つ並んだ机の上に、筆と硯と、白いままの紙の束がある。莚も敷いてある。誰かが、これを昨夜のうちに用意させたのである。
――誰がいるのかを、まだ誰も知らぬ。
光秀は、そう思った。
三千を食わせるにも、帰すにも、まず名が要る。名が無ければ、幾つ椀を出すかも決まらぬ。始末をつけたい者がいるのに、始末の元になるものが、この城には一枚も無い。
用意した者は、それが要ることまでは分かっていた。
書ける者が、いなかっただけである。
「――机を、もう一つ出させてくださらぬか」
と、光秀は言った。
勘助が、はじめてこちらを向いた。
「うむ」
「それと、この城で帳を付けておった者のうち、字の確かな者を二人ほど回していただきとうござりまする。拙者ひとりでは、日が暮れまする」
「おろう。昨夜まで木沢の帳を付けておった者が、幾人か残っておるはずじゃ」
「……拙者は、人を借りに参りました」
「借りに、と仰せられたか」
「運ぶ手が、百ほど要りまする。……こちらの四百は、いま山の裏で旗を持っておりましょう。ならば、ここにおる者を貸していただきたい」
「何を運ぶ」
光秀は、紙束の角を指で押さえた。
押さえたまま、何も言わなかった。
殿へ出した使いの返事も、まだ来ていない。返事を待たずに動いている者が、他家の者へ先に手の内を明かす道理はなかった。
勘助も、二度は訊かなかった。
「――三千、おる」
と、だけ言った。
光秀は、机の前へ回った。
回りながら、三千という数をもう一度、頭の中で置き直した。
そのかわりに三千がいて、そのうち百がどれかは、まだ誰にも分からない。
机に着いたのは、昼前である。
書役は二人しかいない。城で帳を付けておった者を出させ、三つ目の机には光秀が自分で座った。
墨を磨る音が、三つ並んだ。磨っていると、前に立つ者の躰の匂いが来る。三日も四日も同じものを着ている者の匂いである。日が高くなるにつれ、それが濃くなった。
訊くことは、四つと決めた。
名。在所。齢。手に職。
「――名は」
「七蔵と申します」
「在所は、どこじゃ」
「葛下の、下田にござります。この山の西の麓から、半里ばかり下りたところで」
「齢は幾つになる」
「三十と、一つに相成りまする」
「手に職はあるか。無ければ無いでよい」
男が、そこで顔を上げた。
日に焼けて首の後ろだけが白い。手の甲と指の節が太く、右の親指の腹に硬い胼胝があった。
「――木挽にござります」
声が、そこだけ大きくなった。
「去年の秋まで。……秋に、普請へ取られましてござります。取られて、そのまま」
光秀は、四つ目の欄へ書いた。
名、在所、齢、手に職。四列である。
「……四列も、要りまするか。名と在所さえあれば、飯は出せましょうに」
と、書役の一人が訊いた。
「三列でよい、と言われた覚えもござらぬ。……訊いておいて要らぬのと、訊かずにあとで要るのとでは、手間が違う」
書役は、それ以上は言わなかった。
昼を過ぎるころには、机の前に列ができていた。
名の言えぬ者はいない。名は、誰でも言う。
詰まるのは、二つ目であった。
「――在所は」
「……」
「在所を、言われよ」
「……ござりませぬ」
「焼けたか。焼けたのであれば、焼けたと書いておく」
「いえ。……焼けてはおりませぬ」
男は、そこで首を横に振った。
「……もう、戻れませぬ」
光秀は、理由を訊かなかった。
訊かずに、欄を空けたまま次へ進んだ。
三つ目で詰まる者も、いた。
「――齢は」
「四十にござります」
「四十には、見えぬな」
「……四十にござります」
書役が、筆を止めてこちらを見た。
齢を多く言えば飯が多く出ると、列のどこかで誰かが言ったらしい。昼を過ぎたころから、四十が続いていた。
「四十と、書いておけ」
と、光秀は言った。
「……よろしゅうござりまするか」
「飯は、齢では出さぬ。……この者は、それを知らぬだけじゃ」
名を二つ持っている者も、いた。
在所での名と、陣で呼ばれている名である。どちらを書くかで、しばらく揉めた。
「――陣の名のほうで、書かれませ」
と、その男は言った。
「在所の名で呼ばれても、いまさら誰も参りませぬゆえ。……こちらの名なら、振り向きまする」
同じことが、その日のうちに幾度もあった。空欄が、続けて三つ並ぶこともあった。並ぶと、そこだけ紙が白く見える。
光秀は、筆を硯へ戻した。
戻した拍子に、墨が一滴、空いた欄へ落ちた。
落ちた墨は、名にも在所にもならなかった。
机の右手に、若い男が立っていた。
昼過ぎからそこにいる。具足はつけておらず、腕も組まず、ただ立って、机の前を通る者を一人ずつ見ていた。
通る者のほうが、見る。
名を言い、在所を言い、齢を言ってから、必ず一度その男のほうを見て、それから列を離れていく。木沢秀種であるということは、書役に訊いて知れた。
――この者どもは、この男を見て並んでおる。
光秀は、そう思った。
昨夜まで木沢の城であったものが、今日は名を書かねば飯の出ぬ場所になっている。それを命じたのは、木沢の名を持つ男であった。
*
弥生二十一日の朝、下りてゆく者があった。
昨日から少しずつ出ている。この朝は、まとまって出た。
列を作って大手道を下りていく。荷を負った者が多い。中には机の前まで来て、書かずに帰った者もいた。
光秀は、机に着いたまま見ていた。
止めなかった。
止めよ、とも言われていない。
列は、坂を下りて、麓を回り、北の斜面のほうへ抜けていった。旗の下を通る道である。通りながら、上を見上げる者がいた。見上げて、隣の者に何か言った。
言われた者も、見上げた。
――あれらは、四千を見て下りていく。
下りた先で口を利く。在所へ帰って道で会った者に話し、話された者がまた話す。二上山に四千がいる、と大和じゅうが言うようになるまで、幾日もかかるまい。
止めなくてよいのである。
止めないほうが、旗は増える。
■用語解説
・交名…人の名を書き列ねた書付。降った者、召し抱えた者、役に就けた者を、名と在所と齢で並べて記す。数を告げるだけの報告と違い、交名は一人ずつに責めと扶持が生じるため、書いた者がそのまま差配を負うことになった。




