第26話(五)「二上山」
――同じ座敷である。
図書助が、膝を立てた。
立って、座敷を見回した。
見回してから、言った。
「――この者を、取り押さえよ」
声が、はじめて高くなった。
「三好に降った者じゃ。城を売り、一門を売り、その者どもを連れて参った。……この首を持って行けば、こちらの言い開きが立つ」
誰も立たなかった。
縁側に近いところで、一人が膝を立てかけた。片手を床について、腰を浮かせた。浮かせて、そのまま止まった。
止まって、座り直した。
誰も、その者を見なかった。
「――聞こえぬか」
図書助が、もう一度言った。
「取り押さえよと言うておる」
「――山の裏に、旗が」
と、末座で誰かが言った。
図書助が、そちらを見た。
「旗が、どうした」
「櫓の者が、算えており申した。……算えきれなんだと」
「算えきれぬはずが、あるか」
「二度、算え直しましてござる。二度とも、途中で分からのうなったと」
図書助は、それきり何も言わなかった。
勘助は、柱際でそれを聞いていた。
この座敷の者どもは、三日のあいだ、飯の減るのを算えていた。算えられるものを算えて、日ごとに減るのを見ていたのである。
算えられぬものが山の裏に立ったのは、昨日の夕であった。
算えられるものと、算えられぬもの。
どちらを恐れるかは、腹の減り具合で決まる。
誰かの膝が、鳴った。
立とうとしたのではない。しびれた足を動かしただけである。
その音のあとで、下を向いていた者が幾人か顔を上げ、上座を見て、目を逸らさなかった。
勘助は、そこではじめて分かった。
この男には、もう命じる先が無い。
秀種の左手が、鞘の口へ下りた。
膝の向きが、わずかに上座へ寄った。
図書助が、皿の骨を一本つまみ上げた。
「……鮒じゃ。池のが、まだ死んでおらぬ」
骨を折敷へ戻し、指を袖で拭いてから、脇の刀へ手を伸ばした。
鞘へ手をやったのではない。柄へやったのでもない。鞘の中ほどを掴んで引き寄せた。刀を、荷物のように持つ持ちかたであった。
立ちながら鯉口を切ろうとして、指が滑った。二度目で切れた。抜きざま、柄が板の縁に当たって刃が半分しか出ぬうちに止まり、それを力で引き抜いた。
上から打ち下ろしてきた図書助の刃は、肩から先だけで振られていて足がついてきておらず、躰が刀に引かれて前へ泳いだ。
その泳いだ胸へ、秀種が座ったまま右膝を立てざま、身を左へ流して抜き打ちに斬り上げた。
「うぬ!!」
声を出したのは、図書助のほうである。
刃は脇腹から胸へ入って止まり、骨に当たったその手応えのまま、秀種は一度手を戻し、肩を落として、押すのではなく引いて抜いた。
図書助が、二歩下がった。
膝が、抜けた。
「……あ」
と、言った。
「あ、あっ……」
板へ落ちてからも、右手はまだ刀を持っていた。持ったまま、それを一度見た。それから秀種を見て、また刀を見た。何が起きたのかを、この男は最後まで数えていない。
血が、袖無しの脇から板へ落ちた。
落ちて、広がった。匂いが、灯の油に混ざった。
折敷が倒れた。
椀が転がって、皿の骨が板に散った。
六十人が、動かなかった。
外で、犬が鳴いた。
鳴いて、すぐ止んだ。
*
秀種は、刀を下げたまま立っていた。
息が上がっている。
肩が二度、大きく動いた。動くたびに具足の下から音がした。三度目で、それが小さくなった。
刀を、持ち替えた。
手が震えていたのではない。血の重みで手元が滑ったのである。左の袖で刃を拭い、拭ってから鞘へ納めようとして、一度先が入らなかった。二度目で入った。
納めてから、袖の内を一度だけ押さえた。
そこに何が入っているのかを、勘助は知らない。
奥が産むのは、卯月の初めである。十日ほど先であった。
一門を一人減らした男の、十日先に、一門が一人増える。
「――蔵を、開けよ」
と、秀種が言った。
声が、割れていた。
誰も、答えなかった。
答えなかったが、渡りに近いところにいた者が二人、立った。
立って、外へ出ていった。
「木沢は、ここにおる」
と、秀種が言った。
「討たれたのは長政様お一人にあらず、河内へ行った者は皆討たれ申した。行かなんだ者が、この座敷におる」
誰も、動かない。
「……飯盛には、御隠居が籠っておられる。叔父御も二人、あちらじゃ。生きておられるか、拙者は知らぬ。落ちたとも、籠っておられるとも聞いてござらぬ。……知らぬものを、あてにはできぬ」
「長政様の御子は、母方が三好の御一門にござれば、あちらが引き取られよう。木沢の名は、残るやもしれぬ」
秀種は、そこで一度、息を継いだ。
「なれど、名が残るのと、この座敷におる者が生きるのとは、別のことにござる」
勘助は、柱際でそれを聞いた。
聞いて、杖の先を一寸だけ動かした。
――三好へ、落ちるか。
己が仕えているのと同じ名の、別の家である。討った側と討たれた側が、同じ名の下に並ぶことになる。それがいつ面倒になるかは、いまは分からない。分からぬが、面倒になる日は来る。
「――今月の九日に、公方様が畠山の御当主を御敵に付けられた」
秀種の声が、そこで一段上がった。
「木沢は、その御敵の側にござる。……いまこの城に立っておる旗は、公方様が討てと仰せられた旗にござる。討った者に、咎めは無い。咎めが無いということは、明日から誰が来ても構わぬということにござる」
後ろで、誰かが草鞋を履き直した。
「去年の秋、木沢は田から人を取った。取って、河内へやった。……取られた田は、この春もそのまま起こされており申さぬ」
秀種は、そこで板の間の端まで目を送った。
「飢えた年に、戦を重ねたのじゃ。重ねた側が、いまこの座敷におる」
板の間の隅で、二人が顔を寄せた。寄せて、すぐ離れた。
「明日、この山の下を誰が通ると思われる。筒井か。越智か。箸尾か。……この十年、木沢の名で押さえつけてきた者どもにござる」
秀種は、上座の折敷を見た。倒れた椀の脇に、鮒の骨が散らばったままである。誰も片づけていない。
「押さえつけられておった者は、押さえが退いた日から数えはじめる。数え終えたころに、田が焼ける。郷が焼ける。……この座敷におる者の在所が、焼ける」
誰かの膝が、板を擦った。
喋りながら、秀種は右の手を袴で拭った。
二度拭って、まだ滑る。人の血は、乾きかけると却って粘るものであった。
「拙者は、長政様に殉ずるつもりはござらぬ」
座敷が、鳴った。
縁側のほうで、誰かが低く「おう」と洩らした。洩らしてから恥じたか、その者は袖で口を押さえたが、押さえたころには座敷じゅうが揺れていた。
「殉じて、何になる。首を並べたところで、公方様の御下知は消えぬ。田は焼ける。妻子は攫われる。……忠義で郷が守れるものなら、拙者は今日この座敷で腹を切っており申す」
「切らぬ」
と、秀種は言った。
「切らずに、旗を替える」
声が、そこでもう一段上がった。
「――木沢は、拙者が残す」
六十のうち、幾人かが膝を進めた。進めてから、進めた己に気づいて止まった。
「名を残すのではござらぬ。この山にいま立っておる者と、その者の在所を残す。そのために木沢の名を使うのであれば、拙者は幾らでも使う。……使い切って、それでも残らなんだら、そのときに終いにいたす」
一人が、血の広がるほうへ膝を少し引いた。
「不服の者は、拙者を討たれよ」
秀種は、刀を鞘ごと膝の前へ置いた。
置きようがまずい。鐺が板を打って、思いのほか高く鳴った。鳴らしたことに、この若い男は気づいていない。
置いてから、続けた。
「いま、この座敷で討たれよ。討った者が、この城を継げばよい。……ただし」
板の血が、まだ広がりきっていない。
「討ったあとの始末は、討った者が付けよ。明日の飯も、明後日の田も、公方様の御下知も、みな討った者が付けよ。拙者は、明日の飯まで見て決めた。……明日の飯を見ずに討つ者には、この城は渡せぬ」
誰も、立たなかった。
立たぬまま、しばらく誰も動かなかった。
やがて、末座で板が鳴った。
さきほど旗のことを言った男である。膝を折り、両手を板について、頭を下げた。下げてから、動かない。
次に鳴ったのは、その隣であった。
それから、二つ離れたところで一つ。
三つ目からは、間が詰まった。
板の鳴る音が、末座から上座のほうへ寄せていく。一人が下りるたびに、下りた者の背が次の者の目に入る。目に入ってから手をつくまでに、わずかな間があった。その間が、いちばん長い者で、十を数えるほどある。
勘助は、数えていた。
六十を数え終えるまでに、六十が下りた。
最後に下りたのは、縁側に近いところで一度膝を立てかけ、立たずに座り直した男であった。
この男は、手をつく前に一度、上座を見た。
上座には、まだ叔父が横たわっている。
見て、それから下げた。
板の血は、まだ乾いていない。
乾いていない血の前で、六十人が頭を下げていた。
秀種は、それを見ていた。
見ていて、刀を取らなかった。膝の前に置いたままである。
「――面を、上げられよ」
と、秀種が言った。
誰も、上げなかった。
上げてよいのかどうかを、この者どもは知らないのである。三日前まで、頭の下げ先は別にあった。
秀種は、二度は言わなかった。
二十七まで、決めることを教えられずに育った男である。
教えられぬまま、二日で二度、決めている。
三度目に、人が下がった。
*
「――飯を、出す」
と、秀種が言った。
「蔵の残りを、今夜のうちに炊く。明日からは、名を書いた者に出す。在所へ帰りたい者は帰ってよい。帰る先の無い者は、残られよ」
座敷の奥で、また誰かが立った。
止めるために立ったのではない。渡りのほうへ走っていったのである。
走る足音が、板を鳴らして遠ざかった。
やがて、外で音がした。
重い木の擦れる音である。閂を抜き、引き、それから両側へ開く音であった。
*
勘助は、杖を取って立った。
立って、はじめて口を開いた。
「――松永の家の者にござる」
六十の顔が、こちらを向いた。
「三好の、松永久秀が家中の者にござる。旗は、山の裏に立ててござる」
六十のうち、五人か六人が渡りのほうへ首を回した。
北の斜面は、この座敷からは見えない。
見えないのに、見ようとしたのである。
嘘は、まだ言っていない。
立っているとは言った。幾つ立っているとは、言っていない。




