第5話(後)「品書きの夜」
壁の向こうで衣擦れの音がした。
——やはり、いた。
宗治である。塗師の顔をした久秀の目。いつから聞いていたか知れぬ。この男の息の潜めようは、村の一年で朔もよう知っている。水江の村で朔の一年を残らず帳面に取った男が、いまは越水まで影のように付いてくる。
筆の音は壁を、越える。朔は運びを変えなかった。音を殺せばかえって、聞き耳の甲斐が、ある。いつもの手つきで、いつものように、書く。それがいちばん読まれぬ。
(見せて隠す)
これも久秀に、習うたやり口で、あった。
*
戸が、鳴った。
「……朔。起きておるか」
酒に焼けたしゃがれ声である。返事を待たず、玄斎が入ってきた。
手に竹の皮の包みを提げている。それを文机の端へ置いた。
「食え」
干し柿が、幾つか。
「城の女中がくれた。儂は甘いものはいらぬ」
嘘で、あった。この老人は甘いものに、目がない。
「腹が減っては字も曲がる」
朔は一つ取った。口へ入れると、乾いた甘さが舌の奥でほどけた。城下の焚火のことをしばし忘れた。
玄斎の目が、文机の紙に、落ちた。
「会記か」
「……のようなものだ」
「ふん」
老人は朔の書いた品目を、上から下へ一度なめるように、見た。読めぬ字はない。だが中身は読めぬ。読めぬように書いてある。
しばらくして、玄斎は、ぽつりと言った。
「売り物の目録とは……命の目録よな」
朔は、筆を、置いた。
「載せた品が一つ売れるたび、どこぞで人の生き死にが動く。荒銅の白は銭になる。銭は兵になる。兵は……」
玄斎はそこで、言葉を、切り、干し柿を一つ己の口へ放った。やはり好物であった。
「窓の下のあの火よ。あれを増やすも減らすも、この一枚次第か」
「……分からん」
「ほう」
「増やすつもりで減らすやも。減らすつもりで増やすやも。——書付は絵図だ。絵図の通りには川は流れぬ」
玄斎は口の端の柿の皮を、指で、取った。
「重い紙じゃな」
「ああ」
「じゃが」
と、老人は、言った。
「書かぬはもっと重かろう」
朔は、答えなかった。
窓の下の火を思うた。書かねばあの火は、ただ消えて、ゆく火で、あった。書けばあの火のいくつかは、明日も燃える。——どちらの重さも己が負う。
「食え」
と、玄斎が、また言った。柿を、一つ、朔の膝の前へ転がした。
*
玄斎が、帰った。
戸の閉まる音のあと、朔は、いま一度筆を、執った。
——長屋の外の廊下を、足音が、通った。
宿直の同輩である。厠の帰りか、水でも飲みに立ったか。その足音が朔の戸口の前で、わずかに緩んだ。
連子窓の隙から細い灯が漏れている。
「……水江の。まだ起きておるのか」
「はい。文を少し」
「精が出るのう」
足音は、また遠ざかった。
朔は灯を掌で半ば覆うた。
(見られたのは灯だけ)
紙の中身までは見えておらぬ。何を書いているかまでは。
だがあの男の目には、一つ残ったであろう。夜半に何かを熱心に書き付ける、水江の小者の姿が。
匂いほどのことで、ある。
——匂いはいつか辿られる。
*
灯を、細めた。
死臭はまだ窓の外にあった。品書はまだ書き終わらぬ。
朔は、紙の右肩の一行を、もう一度見た。
天文九年 長月 会 客 一名 主 水江ノ朔
一名の客のために、朔は命の目録を綴っている。その客がこの目録で、幾人を生かし幾人を滅ぼすか。——それはまだ朔にも読めぬ。
ただ一つだけ、読めて、いることが、あった。
窓の下の火はこれから殖える。飢えは深くなる。——そうなればあの乾いた目の人は、遠からず朔の戸を叩く。こんどは書付の品ではない。この一枚にはどうあっても載せられぬもの。
米で、あった。
朔の蔵に、まだ眠って、いる。
(さて——いくらでお貸ししようか)
朔の口の端がほんの少し上がった。夜の商人の顔で、ある。上がって、すぐに下りた。
窓の外で、風がまた、匂いを、運んでくる。
一、消費なし 残り 四点
■用語解説
・塗師…木器や家具などに漆を塗り重ねて仕上げる塗工職人のこと。
・文机…畳の上に正座し、読書や毛筆での執筆(書写)を行う際に用いる低い木製の机。
・厠…便所のこと。古来、川の上に設けた「川屋」に由来するとされる。
・夜半…夜が深く更けた時刻。真夜中のこと。




