第5話(前)「品書きの夜」
夜で、あった。
灯台の火が一つ。油の乏しい細い灯である。越水の城の、宿直の長屋のその隅であった。
連子窓の隙から朔は外を見た。
城下に火が点っている。ひとつ、ふたつと数えるうちに指では足りなくなった。施行の小屋のまわりに、流民の焚火が散らばっているのである。
風が、向きを、変えた。
甘いような饐えたような匂いが、板間に忍び込んでくる。城の上まで粥の湯気は届かぬ。届くのはこればかりであった。
(……今日も幾人か)
朔は窓を閉てた。
窓を閉てても匂いは、板間に居坐っている。
朔は火桶の炭を掻き起こした。そこへ香をひとかけら落とす。伽羅には遠い安物の練香である。細い煙が立ち、甘く青い匂いが饐えた匂いの上へ薄く被さっていった。
(……これで匂わぬ)
匂わねば無いも同然か。窓の下では人が飢えて死んでいる。その匂いに蓋をして、見ぬ顔で机に向かう。
口の端が歪んだ。笑いではない。
——死臭に香を焚くのが得手な男に、これから命の値が書けるか。
*
文机に紙を置く。硯に水を落とす。墨をする。
——書付を書く夜であった。
久秀には口であらまし渡してある。品の名と値と、効き目の口上を。だが書いたものはまだない。
「書付は後日」——そう言うて日を延ばしてきた。紙は残る。残るものは敵になる。矢倉であの人と交わした掟であった。「書付は絵図。裏は耳で取る」。
それでも書く。頭の中の目録は、朔ひとりの胸にある。朔が明日、道端で物盗りに遭えば目録も共に消える。前の世の己の末路であった。——ひとりの胸は脆い。だから書く。
墨が、濃くなった。
朔は、筆を、執り、紙の右肩に、まずこう記した。
天文九年 長月 会
(会記の体を借りる)
茶の湯の会には会記がある。その日、床に何を掛け、釜は何、茶碗は何と品目を書き連ねる覚え書きである。名物の目録でもあった。
——もしこの紙を誰かが拾うたとする。数寄の心得のある者なら、ああ松永の小者が見よう見まねの茶の真似事を、と笑うて捨てるであろう。
それが、狙いで、あった。危ういものには無害な顔をさせておく。久秀に習うたやり口——いや、香を焚くのと同じ己の癖であった。
*
一、と書く。
荒銅より、白きを絞る事。
荒銅とは粗き銅の塊。その赤黒い塊の中に銀が眠っている。溶かし、鉛を添え、幾度も吹き分ければ眠っていた銀が白く滲み出る。——南蛮吹き、と朔は呼ぶ。その名も絞りようも紙には書かぬ。中身は買うた後に耳で渡す。口上だけをそっと添えた——「使うほど値の下がる品にて。お早めに」。
筆を、止めて、朔は、また窓の方を見た。閉てた連子の向こうに、あの火が、ある。
銀は、銭に、なる。銭は米を、買う。米はあの火の下の者を生かす。——そこまで、はよい。
だが銭は槍も買う。腹の張った者は槍を担ぐ。担げばいくさに往く。いくさはまた、あの火を殖やす。銀は米にも槍にも化けた。化けようを決めるのは絞った者ではない。買うた者であった。
(過ぎた智慧を——次々とこの世に放ってよいものか)
前の世で朔は見ている。人の手が天より速く走った果てに、野がいちどきに灼けた景色を。名は言えぬ。言えばこの世の誰も知らぬ言葉になる。だがその白い灼けあとだけは、瞼の裏に残っていた。
墨が、筆の先で、一滴、太った。落ちる前に、朔は、紙を、避けた。
*
二、と書く。
来る年の、田の実り不実りの事。
いずれの年に天が飢えを深め、いずれの年に緩めるか。この飢饉の底も明けも、朔の胸には年ごとに刻まれている。窓の下のあの火の、殖える年と減る年とが。
これはあの人がもう買うた。飢饉の五年の大筋をまとめて。ゆえに値の下へ小さく「済」と入れる。
筆が、止まった。
——載せぬものが、ある。
火の事である。硝石の丘。飛ぶ火の玉。——これは書かぬ。値も付けぬ。
作りようならあの人はとうに知っていよう。配下の者に村を一年、嗅ぎ回らせたあの帳面である。硝石の丘も権六玉も、洗いざらい写し取られていたはずだ。いまさら朔が売れる品ではない。あの人の頭の内にもうある。
売り物で、もないものを、なぜ書かぬのか。
——知られて、おるのと紙に載るのとは、違う。あの帳面はあの人の懐の内。されど朔の品書きに、朔の手で、「硝石」と記せば、それは水江の衆が火を、蓄えておるという動かぬ証文になる。証文はいつでも村の喉元へ返ってくる。あれを紙に載せた日が、村と己の首の締まる日であった。
知って、いて双方、口を、つぐむ。——その黙りこそが、互いの首へ縄を掛け合うた、その縄の結び目で、あった。
載せぬものが、いま一つ。
茶の湯の品で、あった。
矢倉であの人が求めた。朔は断った。「名物は持つ者を選びまするゆえ」。——あれは朔がただ一つ、あの人の先々へ掛けておこうと決めた手綱である。売れば手綱はもう己の手には残らぬ。
だが、手放さぬかぎりこの一品は、朽ちぬ。
いつかあの人が、この棚を、力ずくで、も開けさせにかかる日が来よう。——その日こそ値を談じる座が立つのである。「しかるべき時に、しかるべき対価で」。そう言うたのは、あの人のほうであった。強いられて、開く品ほど高く売れる。売り急がぬことが次の商いを太らせる。
筆が、宙で、迷った。
——いっそ品書きから名すら消して、おくか。
消せばあの人は、この品の在ることを忘れるやもしれぬ。忘れておれば後の値は朔の言い値になる。
そう思うて、朔は、その一行を、書かずに、飛ばした。
飛ばして、——手が、止まった。
(いや)
あの人は忘れぬ。矢倉で、一度、求めて、断られた品である。断られたことを、あの人は、帳面に、付けずとも胸に刻んでいよう。書付からその名が、ただ抜けていたなら——あの乾いた目は抜けた穴の形を見る。(水江はこの一品を隠したな)と。
そして、探る。痛くも痒くもない腹の底まで、探る。何ゆえ隠す、何を、待っていると。
朔はその問いに応える言葉を持たぬ。応えれば先々の目算まで開いてしまう。
壁の一枚向こうに、聞き耳が、ある。廊下には、同輩の目。城じゅうが器用な小僧の次の一手を、見ていた。
(下手に動くな)
——この目の中で、利口に、振る舞うことが、いちばんの下手であった。
朔は、飛ばした一行へ筆を、戻した。そうして、口で、言うたままを書いた。
茶の湯の品々。ただし、いまだ売らず。
それ以上は一字も足さぬ。紙が己の口より多くを語らぬように。
手綱は、一本、残した。だが手綱と縄とは違う。首の縄は双方の首を、絞め合える。が、いくら絞めて、も相手の往く先まで、は引けぬ。売った智慧は戻らぬ。あの人の手に、渡ったものが、朔の掟と逆の方へ転がったとて——もう拾えぬ。
朔は筆を置いて掌を見た。乾いた墨が指の腹に染みている。
(売る相手を間違えてはおらぬか)
矢倉の日に、も同じことを、思うた。答えは、まだ出ていなかった。
筆が、止まった。部屋は、静かである。墨の乾いてゆく静けさであった。
——その静けさに、ひとつ、余計な息が、まじっている。
己のもので、は、ない。
いつからそこに、いた。
■用語解説
・宿直…城郭や官衙などで、夜間の警衛や緊急の雑務に備えて宿泊・勤務すること。
・連子窓…木枠に細い角材(格子)を並べて取り付けた窓。通気・採光を保ちつつ外部からの視線を適度に遮る効果がある。
・練香…香木や香料の粉末に蜂蜜や梅肉などを加えて練り合わせた香。直接火をつけるのではなく、火桶や炉の灰に埋めた炭火の熱で薫ぜさせる。
・会記…茶の湯の会において、開催日時、客の名、使用した茶道具(床の掛け軸、茶釜、茶碗など)の品目を記録した控え書き。




