第4話(後)「主の目」
碗を膝の前に置いたところで、主は少し間を置いた。
それから静かに訊いた。
「この飢饉は来年も続きますか」
座の音が、遠のいた。
庭の蝉も、風も、久秀の気配も、一瞬耳から消えた。——来た、と思った。田の話でも、御坊の話でもない。これが、今日の、いちばんの荷である。
朔は、知っている。この天文の飢えがいつ底を打ち、いつ緩むか。翌年のことも、その先のことも。書付には書いてある。
だが、書付を読んだ顔を、してはならぬ。
朔は、目を伏せた。返答に迷う体を装った。装いながら、半分は本当に迷っていた。どこまでを、伏せるか。
「……天の胸のうちは、田を見る者にも読めませぬ」
「読めませんか」
「はい。ただ……来年の種籾さえ、食い潰さねば。村は死にませぬ。飢えても種さえ残れば、次の年が」
言い終えて、朔はひとつ余計を口にしたと悟った。
次の年が。——まるで、次の年が来ると、見てきたような言いようであった。
主は、碗を置こうとしていた。
その手が止まった。
畳の上、あと指一本というところで、碗が宙に止まっている。長い止まりではない。息を半分だけ入れるほどの間である。だが、確かに止まった。
朔の背に汗が伝った。
主は、碗をそっと置いた。音は立たなかった。
「……次の年、ですか」
「は」
「そなたは来年を見てきたように言いますね」
朔は答えなかった。答えれば声が揺れる。膝の上で手を握った。掌が湿っている。
主はしばらく朔を見て、それから、久秀へ目を移した。
「松永」
「は」
「聞いております。あの村は、田ばかりではないそうですね」
主の声は、静かなままである。静かなだけに、逃げ場がない。
「硝石の丘。火薬。……飛ぶ、火の玉までとか。——田を教えた御坊は、火薬も教えましたか」
来た。田でも、飢饉でもない。これこそが、久秀の恐れていた問いである。学僧が村の子に火薬を仕込む——その作り話は、この御方の前では、もう保つまい。
朔の喉が乾いた。
そのとき。
久秀の扇子が、膝を打った。とん、とん。二度。
——いつもの癖では、ない。合図であった。
朔は身をすくめた。すくめた拍子に、袖が膝前の碗を払った。
碗が、転がる。残った茶が、畳を主の膝の先へ糸を引いて流れた。
一拍、誰も動かなかった。
「——無礼者ッ」
久秀の声が、四畳半を打った。あの乾いた男の、どこにこんな声があったか。
「御前であるぞ。下がれ。下がらぬか」
朔は、平伏し、後じさった。詫びの言葉も、まともに出ぬふりをして、口の中で潰した。
引き据えられ襖の際まで下がる、その一瞬。
朔は、主の顔を盗み見た。
怒っては、いなかった。呆れてもいなかった。零れた茶を見もせず、ただ、退がってゆく朔を——静かに、見ていた。見抜けぬ者の目ではない。
(……見ておられる)
うなじが冷えた。見抜けぬ主ならこわくはない。見抜いた上で、泳がせておく主が——いちばん、こわい。
襖が閉まった。
閉まる間際、主の声が、聞こえた。朔にではない。久秀にかけた声である。
「よい。松永。……あの者は大事になさい」
咎めてはいなかった。
襖の向こうで、なお、独り言のように、続いた。
「利発な者は世に多い。……理を恐れぬ者は少ない」
*
門を出て坂を下る。
施行の列は来たときのまま、そこにあった。日が傾きかけて、痩せた影が、長く伸びている。
濡れた小袖の裾が、歩くたび足にまとわりつく。こぼした茶の、冷えた重みである。
「よう、こぼした」
と、久秀が言った。門の外の、素の声である。
「あと半息遅ければ、火薬の出所を答えさせられておった。……あの御方は、御坊では得心なさらぬ」
「合図が参りましたゆえ」
「うむ」
久秀は、少し歩いてから付け加えた。
「じゃが——しまいの一言。来年の種の、あれはいかぬ。あれだけは、わしも止められなんだ」
「……気づかれました。私が、来年を知っていることに」
「気づいてはおらぬ。引っかかっただけよ。喉に刺さった小さな骨じゃ。……今日は、飲み下される」
「今日は」
「案ずるな。あの御方は賢い。賢いゆえ、いまは抜かぬ。抜かせぬのが、わしの役目じゃ」
久秀の口の端が上がっている。
「それに——茶の味も知らぬ上に、御前で茶をぶちまける粗相者じゃ。行儀を仕込むまでは、目通り無用。はじめから、そう申し上げてある。今日の一件で、それが、いよいよ動かぬ」
「次に御目にかけるは」
「そなたに、行儀の備わったのち。——行儀などというものは、なかなか、備わらぬものよ。幾年でも、な」
会わせぬための、布石であった。今日の一度は、主が、無理に手を伸ばして掴んだもの。次は、掴ませぬ。危ういものは、蔵の奥へ。売り物を、客の目に幾度も晒しはせぬ。
朔は、振り返らなかった。振り返れば、あの静かな四畳半と宙で止まった碗の白が、目に灼きつく気がした。
(売る相手は、久秀どの、ひとりではなかった)
初めて会うたあの若い主の、碗を置く手の止まりを——朔は、長く忘れなかった。
そして、忘れるべきではなかったのである。
久秀は、あれを飲み下される骨と見た。その見立ては、半分外れていた。あの若い主は、飲み下してなどいない。掌の小魚を放つように、泳がせておいたのである。松永を信じて泳がせた。——信じているあいだは、それでよかった。
魚を掬う手は、水の濁った日に上がる。この日の、置かれた碗の音の無さを、あの若き主は、忘れなかった。三十七年の川を下った果て、その手が「あの者を、渡せ」と伸べられる、その日まで。
一、消費なし
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■用語解説
・天文の飢…1540年(天文9年)前後から悪天候や害虫被害によって畿内を中心に全国を襲った大規模な飢饉(天文の大飢饉)。朔は、故郷を飢えと暴力から救うため、農業系の知識を駆使し、松永の情報網に引っ掛かり、発見された。
・種籾…翌年の田植え(播種)のために、飢えの中でも食いつぶさず残しておく種用の稲籾のこと。
・硝石…黒色火薬の主原料となる硝酸カリウム。当時、日本国内では採取・精製が難しく、極めて貴重な軍需物資であった。
・目通り《めどおり》…貴人や主君などの目上の人物に直接対面(拝謁)すること。




