第4話(前)「主の目」
坂を登る。
八月の日が、まだ首筋を焼いていた。城へ上がる道の脇に、莚を敷いた列がある。施行の粥を待つ者たちである。晴れた日ほど、痩せた頬の翳りが濃く出る。風の向きが変わると、甘いような、饐えたような匂いが混じった。誰かが道の端で、動かずにいる。
(見るな)
自分に言い聞かせて、朔は前だけを見た。見たところで、いまの己には一椀の粥も足せぬ。
前を行く久秀が、振り返りもせずに言った。
「よいか、朔。そなたの田のことは、殿もあらまし聞いておられる。飢饉の中で村が飯を切らさなんだこと、虫を凌いだこと。……隠すな。隠せば、要らぬ疑いを招く」
「はい」
「出所を訊かれたら、いつもの筋じゃ。村におった御坊の教え。法華の乱で京を追われ、流れてきた学僧。とうに、村を出た。……確かめる先が、ないのがよい」
「はい」
「行儀のことは、案ずるな。殿には、かねて申し上げてある。——まだ礼を仕込んでおらぬ田舎者ゆえ、目通りは、いま少し待たれよ、と」
「では、何ゆえ、今日」
「あの御方が、無理を通された。どうしても会う、と仰せでな。ゆえに、多少の無作法は、はじめから詫びてある。粗相をしても、咎めは薄い。田舎の小僧と、侮られておけ。それが、こちらの得じゃ」
「はい」
「じゃが——たった一つ、詫びの効かぬ無礼がある。先の世を、見た顔じゃ。器用な小僧は、召し抱えられる。明日を言い当てる者は、化け物じゃ。化け物は、飼わぬ。斬る」
「……はい」
「いま一つ。田のことは、御坊で通る。じゃが、硝石じゃ、火薬じゃ、あの飛ぶ火の玉じゃ——村のいくさ支度を訊かれたら、御坊では、通らぬ。火薬を教える御坊は、おらぬでな」
「では、どう」
「訊かれる前に、退がる。よいか——わしが、扇子で膝を、二度打つ。とん、とん、とな。それが出たら、何ぞ粗相をせよ。茶を、こぼすがよい。派手に、な」
「……わざと」
「無礼を叱る場に、詮議はない。叱られて、退がれ。火薬の話は、それで流れる。……行儀のなっておらぬ子と、いよいよ知れる。それも、狙いのうちじゃ」
慇懃な物言いではない。素の声である。城の門をくぐるまでの、あと数十歩のうちだけ、この人は素で喋る。門の内では、また「私」に戻る。仮面を、着ける前の声であった。
門の脇で、玄斎が待っていた。手に、釣り竿を一本提げている。城で釣りもあるまいと思ったが、この老人に理由を問うても無駄である。
念流の遣い手で、酒に焼けた声をしている。もとは、朔の村の者であった。いまは松永の禄を食む身だが、この城のうちで朔が背を預けられるのは、この偏屈な老剣客のほか、そう多くはない。斬る気のない者には剣を教えぬ、という妙な掟を持つ男である。
玄斎は朔を上から下まで眺め、それから久秀に、ぼそりと言った。
「小綺麗にしたのう。……あらぬ噂が立つぞ」
久秀は、眉一つ動かさぬ。
「立てておけばよい。理由の分かる噂より、分からぬ噂のほうが、人は詮索を諦める」
「ふん。松永どのが、見目のよい若いのを、手元に置いて離さぬ。……世は、その手の噂を、好むでな」
「好かせておけ。見えておる噂の裏は、探られぬ」
玄斎は、竿の先で朔の肩を軽く小突いた。
「よう聞け、朔。今日は、器用なだけの小僧でおれ。賢いのは、よい。賢すぎるのは、毒じゃ」
器用なだけの小僧。——その皮の下に、いちばん高い荷が入っている。玄斎の皮肉は、いつも遠回りに、正しい。
*
四畳半であった。
障子は開け放してあり、庭の白砂に日が跳ねている。床には、何も掛かっていない。花もない。がらんとした、静かな座であった。物を飾らぬことが、かえってこの主の性根を語っている。
上座の男は、まだ若い。二十歳には、なるまい。だが、若さの匂いがしなかった。背筋がまっすぐで、手が、膝の上で静かに揃えられている。目だけが、こちらを見ていた。
「松永。……この子が、伊丹の田を実らせた、という」
「はい」と久秀。門の内の、慇懃な声である。
「水江の荘の名主にて、歳は十三。農事と山の理に、人並みはずれて明るうございます。村におりました御坊に、仕込まれたとかで。……ただ、先だっても申し上げましたとおり、行儀の一つも、まだ仕込んでおりませぬ。御前での粗相、平に、ご容赦を」
「構わぬ、と言うたはずです」
若い主の声は、静かであった。
「わたしが、見たいと言うたのです。礼を知る子など、掃くほど、おる。……飢饉の中で田を実らせた子は、一人しか、おりませぬ」
(この御方が、無理を通された——)
久秀が幾重にも詫びを敷いて、なお会わせたくなかった相手。その懐へ、いま、入ってゆく。
主は、朔を見た。値踏みの目ではない。もっと静かな、こちらの底に何が沈んでいるかを、水越しに透かすような目であった。
(久秀どのとは、違う目だ)
久秀の目は、値をつける。この人の目は、理に合うかどうかを、問うている。
「面を上げよ」
朔は、面を上げた。
「田のことを、訊きましょう。……今年の摂津の作は、去年より、悪いですか」
「……悪う、ございます」
朔は、ひと呼吸おいて、言った。政の問いである。だが、答えは、田の話でよい。
「去年は、夏じゅう、雨が続きました。川が溢れ、田は水を被り、稲は根から腐りました。あれが、飢えの口開けにございます。今年は、雨こそ退きましたが、こんどは、蝗に雲霞。稲の汁を吸い、葉を食む虫が、湧きました」
「その虫を、どうします」
「水を先に抜き、株の間を空け、夜は畦に松明を焚きまする。虫は火を慕うて寄りますゆえ、鉦を打って、村の外れへ送り出す。……古い、田仕事にございます」
主の目が、わずかに、細くなった。
「その古い田仕事で、そなたの村は、飢えずにおる」
答えは聞くまでもない、という顔であった。この人は、久秀の報せで、とうに知っている。
「……はい」
「どこで、覚えました」
「村に、御坊がおられました」
嘘では、ない。半分は。
「京を追われて、流れてこられた学僧にて。田のことも、山のことも、よう存じておられました。あとは……私が、あれこれ、試しただけにございます」
「その坊主は」
「乱の鎮まったころ、また、いずこかへ。……いまは、おりませぬ」
主は、しばらく朔を見ていた。井戸を覗く者の目である。だが、井戸の底は、暗い。覗いても、水面が、己の顔を映し返すだけであった。
「よい心がけの、坊主ですね」
そう言って、茶を点てた。所作に、無駄がない。差し出された碗を、朔は両手で受けた。指が、湿っている。
一口、含む。苦い。
「うまいですか」
「……分かりませぬ」
正直に言うと、主の口の端が、ほんの少しだけ、動いた。
「正直ですね。うまい、と言う者のほうが、多い」
久秀が、庭を見て、黙っている。口を挟まぬことが、この場での久秀の芸であった。本人の口で語らせるほど、話に、綻びが出ぬ。
——ここまでは。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
よければ、ブックマーク登録や、下の評価で★を入れていただけると、作者はとても喜びます!
■用語解説
・施行…寺社や武家、富裕な者が、困窮者や流民に対して粥や米などを無償で施し(分け与え)救済すること。
・法華の乱…1536年(天文5年)に起きた「天文法華の乱(天文の錯乱)」。延暦寺の僧兵らが京都の法華宗(日蓮宗)寺院を全焼させ、京の法華宗徒が市外へ追放された大乱のこと。
・念流…室町時代初期に念阿(相馬四郎義元)によって創始された、日本の兵法・剣法における最古の流派の一つ。
・伊丹…摂津国伊丹(現在の兵庫県伊丹市周辺)を拠点とする有力国人・伊丹氏の領地。前作において、松永久秀が朔を手に入れるため、謀略を駆使した上で領主を切腹に追い込み、現在は三好領となっている。
・蝗に雲霞…稲などの作物を食い荒らす害虫の大発生のこと。「うんか」は群がり飛ぶ様が雲や霞のように見えることから名付けられた。




