第6話(前)「貸米の談判」
鉄瓶が、鳴っている。
久秀は、膝の前の扇子を見ていた。動かさぬ。動かさぬまま、頭の中では算用が走っている。
——この話、なかったことにして済むか。
済みはせぬ。久秀は、承知していた。飢饉のいま、一千石の米を他のどこから引く。米屋の蔵は、底を突いている。銭を積んでも出てこぬ。この小僧の蔵より外に、一千石の余りなど畿内のどこにもない。
のみならず。
これを米の貸し借りと見るのが、そもそもの間違いであった。
飢饉は村を散らす。人は飢えれば、土を捨てて逃げる。逃げた田は翌年から一粒の年貢も生まぬ。兵も、出さぬ。——一千石を撒いて百姓を土に縛りつけておけば、その田は来年も再来年も実り続ける。村を散らさぬ。それだけで持ち出しの元は、とうに超えていた。
いま一つ。
水江の田の作りようは、よう実る。だが百姓は、新しいやり口を嫌う。伊丹の役人が力ずくで移し替え、ことごとくしくじった土地じゃ。腹が満ちておれば、誰も聞く耳を持たぬ。——飢えた今なら、別である。飢えた手に粥を一椀。里芋の一株。「この作りようなら来年は飢えぬ」と実らせて見せる。飢饉こそが、固く閉じた戸をこじ開ける鍵であった。一度、味を覚えた村は、幾年もこちらの蔵へ返してくる。
損して得を取る。この一千石は米ではない。三好領の明日を買う銭であった。——断ってよい話ではない。
とはいえ、二つ返事で頷くのも癪である。
久秀は、朔の動かぬ顔を見た。
(この小僧は、はじめから知っておったな)
わしが、折れられぬことを。飢えた城が一千石を喉から欲しがっていることを。——知っていて、なお硝石にだけは、頑として応じなかった。この話を蹴られるかもしれぬ、という刃の下で。飢えた城を人質に取られながら。それでも縄にだけは指一本掛けさせなかった。
甘いのではない。削ってよい肉と断ってはならぬ骨とを、寸分たがわず見分けている。
——見事な、ものであった。
久秀の口の端が、ふ、と緩んだ。凍っていた四畳半に、そのわずかな緩みが灯のように点る。
久秀は膝の前の扇子を取り上げた。
硝石は忘れる。喉から手が出るほど欲しいが——火薬ひと樽より、縄一本のほうが遥かに高い。載せぬことにこそ値があった。
そして、その理が、いま一つの答えを、連れてくる。
水江の衆を、軍役に出せば、いざの時、あの者らは飛ぶ火の玉を使う。衆人の前であれを一度でも投げられては、矢倉で埋めた縄が根こそぎ掘り返される。——硝石を帳面に載せぬのと、水江の衆を戦場に出さぬのとは、同じ一本の縄であった。
おまけにあの村は、先の戦で人を減らしている。もとより、出せる兵は少ない。免じたところで、こちらの懐は痛まぬ。
久秀は扇子をぱちりと鳴らした。凍っていた空気が、その音でほどけた。
「——軍役は二年と言わず」
朔が顔を上げた。
「水江の衆は当分戦場へは出すな。鍬を持たせておけ。槍なら余所にいくらでもおる」
朔は、しばし久秀を見た。それから深く頭を下げた。
「……ありがたき仰せにて」
その声から、商いの乾いた響きがほんの少し抜けていた。先の戦で欠けた村の男らの顔でも思うたか。
久秀は見て見ぬふりをした。踏み込めば、また隠す。——今日はこれでよい。
*
「あとひとつ」
と、朔が言った。声がそこでまた低くなった。
「施しの米に、水江の名は——出されませぬよう」
久秀は朔を見た。
これは算用に合わぬ。
暴利も掴まず、硝石も出さず、年貢と軍役はきっちり取る。そこまで寸分たがわず数えた者が、最後に名を捨てると言う。一千石で領国の飢えを救えば、その恩は村の名を高くする。名が高まれば、後ろ盾がつき狙われても庇う者が増える。損得で言えば、名は出したほうが得であった。
その得だけをこの者は要らぬと言う。
「銭をこれほど数えた男が。なぜ功だけは捨てる」
朔はすぐには答えなかった。
火桶の炭が、ひとつ爆ぜた。
その、ひと呼吸の間に——朔の目が、ふと連子窓の外へ向いた。あの雨に打たれて丸くなってゆく背を見ている——そういう目の色であった。何かがそこで動いた。
だが、それは瞬く間に消えた。
「……目立てば、狙われまする」
朔は常の声で言った。
「名の高い蔵は次の飢饉に真っ先に破られまする。伏せておくが水江のためにて」
損得の答えであった。塗りたての損得であった。
久秀はその塗りの下を、見ようとした。
見て——読み切れなかった。
(この年で、ここまで銭を数える者が、飢えた者を憐れまぬはずが、ない)
十いくつ倍で売れる米を抱えていながら、暴利を掴まぬ。掴めば水江が銀の山を抱えていると天下に知れる。飢えに乗じて肥えた蔵は、いちばん先に狙われる。——だから掴まぬ。掴まぬ理由を損得できっちり言える。
だがその損得の底に、もう一枚ある。
救える口の数が己の蔵の届く数より、遥かに多いことをこの者は知っている。だから施さぬ。施せば村の蔵が先に尽き、いちばん守るべき者を守れぬ。ゆえに売る。売って、わしの手に己の届かぬ先まで米を撒かせる。——己の名を消してまで。
そうして、その一枚だけは見せぬのである。憐れみをこの久秀に握られれば、そこから値を崩されると知っているゆえに。上から損得を厚く塗る。危ういものに無害な顔をさせるように。香を焚くように。
(妙な小僧よ)
憐れみを売り物にする坊主なら、掃いて捨てるほどおる。憐れみを隠して、なお暴利を捨てる者は——ただ一人であった。
「よかろう」
久秀は言った。
「一千石。そなたの値で買う」
玄斎が、また目を閉じた。開いていた間、ひと言も発しなかった。ただ朔の横顔を一度だけ見た。
*
久秀は己の帳面を開いた。
点の帳面は残り幾らもない。だが今日開くのは、そちらではなかった。
新しい紙に、久秀は筆を下ろした。
一、借入 米麦一千石 水江ノ衆ヨリ
返済 三年賦・豊作ノ年ヨリ
利 年一割
水江ノ荘 三年 年貢免ズ
教導ノ衆 差遣 村々ヘ(田作リ・救荒ノ作モノ)
水江ノ衆 軍役免ズ・戦場ニ出サズ
名 出サズ
書いて、久秀は筆を止めた。
書かなんだ一行が、ひとつ、あった。
硝石の、一行である。載せぬと決め載せなかった。——その、載らぬ一行こそが、この商いの、地金であった。二人の首に掛かった縄が、今日もまだ、切れずにあることの証であった。
点の帳面と、米の帳面と。二つが、並んだ。
外では、まだ時雨が降っている。列は、まだ動かぬ。だが、明日は、あの列に粥が回る。
(この小僧、銀の山を元金に毛の生えた値で寄越しおる。命を延ばす知恵まで添えて)
その安値の裏に飢えた者への憐れみを一枚、折り畳んで隠して。
久秀は、それを買った。憐れみごと買うたのである。
損して得を取る買い物であった。そのうえ憐れみが、ひと荷おまけに付いた。
——存外に安い買い物であった。
一、消費なし
残り 四点
■用語解説
・石…容積の単位。米一石は大人一人が一年間に食べる米の量(約180リットル/約150kg)に相当する。
・年貢…領主(武家や公家・寺社)が土地の収穫物(主に米)に対して百姓に課した租税。
・軍役…領主の要求に応じて、兵士や人夫、兵糧などを出して軍事行動に従事する奉仕義務のこと。
・三年賦…借入金や未納分などを3年の分割で返済(納付)すること。
・教導の衆…農業などの技術や方法を各地の村々に教え導くために派遣される指導員のこと。
・飛ぶ火の玉(権六玉)…焙烙玉と呼ばれる手投弾・投擲兵器の一種。内部に火薬とともに陶器の破片や鉄片などを混ぜて威力を高めたもので、スリング(投石器)で射出して使用する。朔が開発し、前作における水江村の戦いで使用された。




