第6話(後)「貸米の談判」
鉄瓶が、鳴っている。
久秀は、膝の前の扇子を、見ていた。動かさぬ。動かさぬまま、頭の中では、算用が、走っている。
——この話、なかったことにして、済むか。
済みはせぬ。久秀は、承知していた。飢饉のいま、一千石の米を、他のどこから引く。米屋の蔵は、底を突いている。銭を積んでも、出てこぬ。この小僧の蔵より外に、一千石の余りなど、畿内の、どこにも、ない。
のみならず。
これを、米の貸し借りと見るのが、そもそもの、間違いであった。
飢饉は、村を散らす。人は、飢えれば、土を捨てて逃げる。逃げた田は、翌年から、一粒の年貢も生まぬ。兵も、出さぬ。——一千石を撒いて、百姓を土に縛りつけておけば、その田は、来年も、再来年も、実り続ける。村を散らさぬ。それだけで、持ち出しの元は、とうに超えていた。
いま一つ。
水江の田の作りようは、よう実る。だが百姓は、新しいやり口を、嫌う。伊丹の役人が、力ずくで移し替え、ことごとくしくじった土地じゃ。腹が満ちておれば、誰も、聞く耳を持たぬ。——飢えた、いまなら、別である。飢えた手に、粥を一椀。里芋の一株。「この作りようなら、来年は飢えぬ」と、実らせて、見せる。飢饉こそが、固く閉じた戸を、こじ開ける、鍵であった。一度、味を覚えた村は、幾年も、こちらの蔵へ、返してくる。
損して、得を取る。この一千石は、米ではない。三好領の、明日を買う、銭であった。——断って、よい話ではない。
とはいえ、二つ返事で頷くのも、癪である。
久秀は、朔の、動かぬ顔を、見た。
(この小僧は、はじめから、知っておったな)
わしが、折れられぬことを。飢えた城が、一千石を、喉から欲しがっていることを。——知っていて、なお、硝石にだけは、頑として、応じなかった。この話を蹴られるかもしれぬ、という刃の下で。飢えた城を、人質に取られながら。それでも、縄にだけは、指一本、掛けさせなかった。
甘いのではない。削ってよい肉と、断ってはならぬ骨とを、寸分たがわず、見分けている。
——見事な、ものであった。
久秀の口の端が、ふ、と緩んだ。凍っていた四畳半に、その、わずかな緩みが、灯のように点る。
久秀は、膝の前の扇子を、取り上げた。
硝石は、忘れる。喉から手が出るほど欲しいが——火薬ひと樽より、縄一本のほうが、遥かに高い。載せぬことにこそ、値があった。
そして、その理が、いま一つの答えを、連れてくる。
水江の衆を、軍役に出せば、いざのとき、あの者らは、飛ぶ火の玉を使う。衆人の前で、あれを一度でも投げられては、矢倉で埋めた縄が、根こそぎ、掘り返される。——硝石を帳面に載せぬのと、水江の衆を戦場に出さぬのとは、同じ一本の縄であった。
おまけに、あの村は、先の戦で、人を減らしている。もとより、出せる兵は、少ない。免じたところで、こちらの懐は、痛まぬ。
久秀は、扇子を、ぱちりと鳴らした。凍っていた空気が、その音で、ほどけた。
「——軍役は、二年と言わず」
朔が、顔を、上げた。
「水江の衆は、当分、戦場へは出すな。鍬を持たせておけ。槍なら、余所に、いくらでもおる」
朔は、しばし、久秀を見た。それから、深く、頭を下げた。
「……ありがたき、仰せにて」
その声から、商いの、乾いた響きが、ほんの少し、抜けていた。先の戦で欠けた、村の男らの顔でも、思うたか。
久秀は、見て見ぬふりを、した。踏み込めば、また、隠す。——今日は、これで、よい。
*
「あと、ひとつ」
と、朔が言った。声が、そこで、また、低くなった。
「施しの米に、水江の名は——出されませぬよう」
久秀は、朔を見た。
これは、算用に合わぬ。
暴利も掴まず、硝石も出さず、年貢と軍役はきっちり取る。そこまで、寸分たがわず数えた者が、最後に、名を捨てると言う。一千石で領国の飢えを救えば、その恩は、村の名を高くする。名が高まれば、後ろ盾がつき、狙われても庇う者が増える。損得で言えば、名は、出したほうが得であった。
その得だけを、この者は、要らぬと言う。
「銭を、これほど数えた男が。なぜ、功だけは、捨てる」
朔は、すぐには答えなかった。
火桶の炭が、ひとつ爆ぜた。
その、ひと呼吸の間に——朔の目が、ふと、連子窓の外へ向いた。あの、雨に打たれて丸くなってゆく背を、見ている——そういう、目の色であった。何かが、そこで、動いた。
だが、それは、瞬く間に消えた。
「……目立てば、狙われまする」
朔は、常の声で言った。
「名の高い蔵は、次の飢饉に、真っ先に破られまする。伏せておくが、水江のためにて」
損得の答えであった。塗りたての、損得であった。
久秀は、その塗りの下を、見ようとした。
見て——読み切れなかった。
(この年で、ここまで銭を数える者が、飢えた者を、憐れまぬはずが、ない)
十いくつ倍で売れる米を抱えていながら、暴利を掴まぬ。掴めば、水江が銀の山を抱えていると、天下に知れる。飢えに乗じて肥えた蔵は、いちばん先に、狙われる。——だから、掴まぬ。掴まぬ理由を、損得で、きっちり言える。
だが、その損得の底に、もう一枚、ある。
救える口の数が、己の蔵の届く数より、遥かに多いことを、この者は知っている。だから、施さぬ。施せば村の蔵が先に尽き、いちばん守るべき者を、守れぬ。ゆえに、売る。売って、わしの手に、己の届かぬ先まで、米を撒かせる。——己の名を、消してまで。
そうして、その一枚だけは、見せぬのである。憐れみを、この久秀に握られれば、そこから値を崩されると、知っているゆえに。上から、損得を、厚く塗る。危ういものに、無害な顔をさせるように。香を、焚くように。
(妙な、小僧よ)
憐れみを売り物にする坊主なら、掃いて捨てるほどおる。憐れみを、隠して、なお暴利を捨てる者は——ただ一人であった。
「よかろう」
久秀は、言った。
「一千石。そなたの値で、買う」
玄斎が、また、目を閉じた。開いていた間、ひと言も、発しなかった。ただ、朔の横顔を、一度だけ、見た。
*
久秀は、己の帳面を開いた。
点の帳面は、残り幾らもない。だが、今日開くのは、そちらではなかった。
新しい紙に、久秀は筆を下ろした。
一、借入 米麦一千石 水江ノ衆ヨリ
返済 三年賦・豊作ノ年ヨリ
利 年一割
水江ノ荘 三年 年貢免ズ
教導ノ衆 差遣 村々ヘ(田作リ・救荒ノ作モノ)
水江ノ衆 軍役免ズ・戦場ニ出サズ
名 出サズ
書いて、久秀は筆を止めた。
書かなんだ一行が、ひとつ、あった。
硝石の、一行である。載せぬと決め、載せなかった。——その、載らぬ一行こそが、この商いの、地金であった。二人の首に掛かった縄が、今日もまだ、切れずにあることの、証であった。
点の帳面と、米の帳面と。二つが、並んだ。
外では、まだ時雨が降っている。列は、まだ動かぬ。だが、明日は、あの列に、粥が、回る。
(この小僧、銀の山を、元金に毛の生えた値で、寄越しおる。命を延ばす知恵まで、添えて)
その安値の裏に、飢えた者への憐れみを、一枚、折り畳んで、隠して。
久秀は、それを買った。憐れみごと、買うたのである。
損して、得を取る買い物であった。そのうえ、憐れみが、ひと荷、おまけに付いた。
——存外に、安い、買い物であった。
一、消費なし
残り 四点
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■用語解説
・地金…メッキや装飾などの下にある本物の金属。転じて、隠された物事の本当の姿や本質のこと。
・時雨…主に秋から冬にかけて、降っては止むを繰り返す一時的な小雨のこと。
・利一割…年利10%のこと。当時の米や銭の貸借における金利としては極めて低く抑えられた良心的な条件であった。




