第7話(前)「撒かれる知恵」
――天文九年(一五四〇)神無月
馬の沓が凍てた泥を踏み割る。
久秀は、近郷へ馬を出した。祐筆とはいえ、奉行を兼ね、談判の使いにも立つ身。城を出るのは珍しくもない。——が、この日は御役目ではなかった。帳面の数字と目で見た飢えとは、別のものであった。撒く前に、一度だけ、己の目で飢えを見ておく。——それだけの遠出であった。
供は二人。弟の長頼と、行商人のような顔をした、甚内。
道は白い。霜が枯れ草を縁取っている。その白い道の端に、人が倒れていた。
筵も、掛かっていない。若い男であった。膝を抱えて丸くなっている。眠っているように見えた。だが、その頬に霜が降りている。
——息をする者の頬に、霜は降りぬ。
久秀は馬を止めなかった。
烏が二羽、その骸の傍らに下りている。人を恐れる様子もない。この道で、烏は、飢えていなかった。飢えているのは人ばかりであった。
さらに行けばまた一つ。
今度は老婆である。道の真ん中に座り込んだまま事切れていた。目を開けている。落ち窪んだ乾いた目が、来もせぬ何かを待つように街道の先を見ていた。手には木の根が握られている。齧りかけの木の根であった。
「……木の根まで掘り尽くしたか」
長頼が馬上からぽつりと言った。冷えた声である。この弟は、修羅場を幾つも潜っている。右の目の下に古い傷があった。声に波はない。
野犬が一匹、痩せた尻を見せて、藪へ消えた。何を咥えていたかは、見ぬことにした。
集落に入ると生きた者もいた。
戸口に、蹲っている。骨と皮であった。破れた小袖の下に、あばらが透けて見える。目ばかりが大きい。その目が通り過ぎる馬を追った。物を乞う力も、もう無いらしい。声を上げぬ。ただ、目で追う。
井戸の傍らに、一人の女が座っていた。
乳飲み子を抱いている。子は動かぬ。女はその動かぬ子に、涸れた乳を含ませていた。含ませて、揺すって、また含ませる。子はもう吸わぬ。女は、それを知らぬのか、知ってなお、そうしているのか。
——分からぬ。
久秀はその女を見た。
見て馬を進めた。
(この景を、覚えておこう。……撒く米の一粒の重さを忘れぬために)
久秀の目は乾いている。憐れみに濡れてはいない。だが、その乾いた目が一つひとつを、確かに拾っていた。倒れた若者。木の根の老婆。乳を含ませる女。値踏みでは、ない。刻みつけているのであった。
——この男、こういうところがある。
人の生き死にを、あたかも帳面の数字のように眺めておきながら、その数字の一つひとつを、生涯忘れぬのだ。
*
「兄上」
長頼が、言った。
「粥を配りますか」
「配る」
「幾日、保ちましょう」
久秀は、答えなかった。
粥を配れば、この者らは今日死なぬ。だが明日は。ひと月ののちは。来年は。——粥はその日を延ばすだけである。延ばした先に、実る田がなければ、列はまた立つ。
(撒くのは粥ではない。……種よ)
飢えた田を来年実らせる。逃げる百姓を土に縛りつける。そのための一千石であった。
——だが、種には蒔き時がある。
借りた一千石は、米と麦であった。その麦こそ、いま蒔かねば間に合わぬ。神無月のうちに土へ入れておけば、冬を越し初夏には穂を結ぶ。稲よりひと足早い。来年の秋の実りまで、飢えた口をつなぐ——細い命の橋であった。
日は、ない。
稲は来る春に蒔く。だが、水江の作りよう——朔の村の、痩せた土から余所の倍を絞り取る、あの妙な作りよう——を力ずくで移せばしくじる。
かつて、伊丹の役人が、それを、余所の田へ力ずくで移そうとして、ことごとく、しくじった。飢えた百姓は、新参のやり口を、頑として、容れぬ。
久秀は馬首を返した。
(麦は急がせる。……稲は見せて選ばせる)
城への道を戻る。帰りも同じ道である。倒れた若者は、まだそこにいた。老婆もいた。烏の数だけが増えていた。
久秀は、その傍らを過ぎた。
過ぎて、一度だけ振り返った。
——撒く米の一粒が、この道に間に合うか。
そればかりを考えていた。
■用語解説
・神無月…旧暦(和風月名)の10月のこと。
・馬の沓…馬の蹄を保護・防滑するために藁などで編んで履かせた「馬沓」のこと。
・奉行…武家社会において、行政・政務・裁判・軍務などの実務を分掌・担当する職制・担当者のこと。
・松永長頼…松永久秀の実弟。1540年当時は三好長慶の家臣として軍事や兵站などの実務を担当していた。後に丹波国に赴き同国を統治する武将(内藤宗勝)として活躍する。




