第7話(中)「撒かれる知恵」
――神無月。
施行の小屋は、朝から人で埋まっていた。
粥の湯気。饐えた汗の匂い。筵の上に、蹲る影。
——長頼は、その中を、歩いた。
兄・久秀に、施行の差配を任されている。誰に粥を配り、誰を普請に出し、誰を——別の帳面へ書くか。
長頼は人別を取らせた。名を訊き、生国を訊き、何ができるかを訊く。
帳面は二つ。
鍬を持てる者は、一つの帳面へ。新田を開かせ、道を直させ、堤を築かせる。飯を食わせ、来年の田を宛がう。
もう一つの帳面には——腕に、覚えのある者を書く。
そのもう一つの帳面が、揉めた。
「山だと?」
大男が立ち上がった。六郎という。もとどこぞの足軽くずれである。喧嘩で潰れた耳をして、腕は、丸太のようであった。
「俺ぁ、粥を食いに来たんだ。穴掘りに売られに来たんじゃねえ」
小屋がざわめいた。同じ目をした男らが、幾人か六郎の後ろに寄る。飢えてなお、腕に力の残る者ども。長頼の斜め後ろで甚内の行商人のような顔が、すっと、動いた。
長頼は、動かない。
「売るのではない」
長頼の声は、低く、平らであった。
「雇うのだ。飯とを出す。穴を掘れば掘っただけ、出す。……粥をただで啜って、明日野垂れ死ぬか。掘って食うて生き延びるか。選べ」
「穴で生き埋めになるのは御免だぜ」
「では、死ね」
長頼は、言い捨てた。
「ここで木の根を齧って死ね。止めはせぬ」
小屋が静まった。
長頼は、六郎の、潰れた耳を、見た。
「その腕を腐らせるのは、惜しい。……穴の中では腕の太い者が頭に立つ。お前のような男が、な」
六郎の眉が動いた。
——頭に立つ。飢えた足軽くずれが、久しく聞かなんだ言葉であった。
「……飯は白いのか」
「麦飯だ。だが、腹いっぱい食わせる」
六郎は、しばらく突っ立っていた。それから太い息を、吐いた。
「……掘りゃ、いいんだな」
長頼は、頷いた。頷いて、帳面に、一筆——「六郎、山」。
そばで甚内が薄く笑った。目は笑っていない。
「お見事にございます」
「世辞は要らぬ」
「いえ。……ああいう手合いを野に放てば、一揆の頭になりまする。囲うて掘らせておくが、いちばん安うつく。兄君の、お考えの通りに」
長頼は、答えなかった。答えぬことが、答えであった。
——選別しながら、救う。
冷たさと情けとが、同じ一つの帳面の中に並んでいた。
やがて、六郎ら腕自慢の男らは、猪名川の下の古い間歩へ、送られていった。細く、貧しい穴である。銅の気は、乏しい。
「——あのような貧鉱を、なぜ、いまさら」
甚内がひとりごちた。
長頼は、答えなかった。長頼も、知らぬのである。知っているのは、兄と——もう一人だけであった。
*
村は、また別の難物であった。
このやり口を、村々で教えて回るのは、久秀の家来ではない。水江と沢西——朔の荘から借りた、百姓どもである。
その中に、ひとり童がいた。
彦太という。年は、十一。朔より、二つ下の、まだほんの子供である。沢西村の、亡き名主の遺児であった。父を亡くしてからは、幼いなりにその沢西を束ねている。朔の弟子である。朔よりなお小柄で、手足はしなやかによく動く。継ぎ当てだらけの小袖は、貧しくはあるが、いつも、こざっぱりと洗われている。——貧しさの中の、誇りであった。
大きな、黒い目をしている。一度見たやり口は、そっくり、覚えてしまう。人の口真似も、うまい。物言いは、どこか、師の朔によく似ていた。飢えた村に入っても、まず笑い話の一つをこしらえる。「ため息をつくより笑い話を探せ」——それが、この童の掟であった。
その彦太が、いま余所の村の痩せた田の畦に、立っている。松永の、田の教え役として。十一の教え役である。
百姓は疑る。
「童が」
古株の百姓が、鍬にもたれて、彦太を見た。作爺という、村でいちばんの、年寄りである。顔じゅうの皺に、泥が、詰まっている。
「乳臭い小僧に、田の何が分かる」
彦太は、怒らない。にっと、笑った。
「おらにゃ、分からん。……けど、朔殿の言うことなら間違いねえ」
「その朔とやらも、童ではないか」
「ああ。おらより、二つ上の童だ。……けど、その童に村がふたつ救われた」
作爺は、呆れた。呆れて毒気を抜かれた。
彦太は、訛りの強い声で続けた。
「稲は虫にやられたろう。田は空だ。……その空の田を、冬のあいだ遊ばせておくのは、もったいねえ。稲を刈ったあとの田に麦を蒔く。一枚の田から年に二度穫れる。この田を一枚貸してくれ。実らなけりゃ、おらを笑え。種は松永が償う」
「田に麦じゃと」
「ああ。冬のあいだだけ、田を麦畑にするんだ」
作爺は、鼻で笑った。だが、田を一枚貸すことは承知した。飢えている。断る余裕もなかった。
彦太は、その一枚の田を麦畑に変えた。水を落とし、稲のない乾いた土を、鍬で起こす。神無月のうちに、種を入れねば、間に合わぬ。
まず、麦の種を塩水に浸ける。浮いた粒を、掬って捨てる。
「なんで捨てる。もったいねえ」
「浮くのは、中身の痩せた粒だ。沈む種だけ蒔く。……いい子だけ、育てるんだ」
村の子らが、集まってきた。飢えて、目ばかり大きい子らである。塩水に浮く粒を珍しげに覗き込む。一人が、指を浸けて舐めた。塩の辛さに顔をしかめる。彦太は笑った。
——久しぶりに、その村で上がった、笑い声であった。
彦太は帳面を使わぬ。畝の幅を、腕で示す。水の深さを指で示す。「こう、こう」と、体で覚えさせる。字の読めぬ百姓にも、体でなら伝わる。
——学問は紙の上にばかり、あるのではなかった。
日暮れ、彦太は、村外れの、小屋に、泊めてもらった。
薄い粥を、一椀、出された。出したのは、痩せた女房である。己は、食わずに、彦太に、出した。
「坊……この田、ほんとに、麦が、実るんか」
と、女房は、彦太を、そう呼んだ。
彦太は、椀を、置いた。
「実る」
「いつじゃ」
「初夏だ。梅雨の、来る前に。……稲より、早い」
「それまで……この子が、保つかね」
彦太は、答えられなかった。
女房の膝で、痩せた子が、眠っている。あばらが、息のたびに、上下する。細い、細い息であった。
彦太は、粥の椀を、女房のほうへ、押し返した。
「……おっ母あが、食え。おらは、城で、食ってきた」
嘘であった。彦太も、朝から、水しか、飲んでいない。十一の腹が、鳴りそうになるのを、こらえた。
——この夜のことを、彦太は、久秀にも、朔にも、言わなかった。
帳面に、載らぬことであった。
■用語解説
・普請…土地の開墾や治水工事、道や堤の整備、建築・土木工事全般のこと。
・人別…住民や流民の氏名・身元・年齢・素性などを調べて帳面に記録・把握すること。
・足軽…武家社会における最下級の歩兵・兵士。戦がない時期は食い詰める者も多かった。
・猪名川…摂津国(現在の兵庫県川西市・伊丹市・池田市周辺)を流れる川。
・塩水選…水や塩水に種子を浸し、比重の違いを利用して身の詰まった良い種(沈むもの)と痩せた種(浮くもの)を選別する農法。




