第7話(後)「撒かれる知恵」
――師走。
越水の久秀の部屋には、報告が積まれていた。
長頼の帳面。甚内の、耳。彦太ら教え役からの言伝。——久秀は、城を出ずに領国の飢えを、その紙の束の上で読む。祐筆の戦であった。
紙は告げていた。
施行の列が、短くなった。逃散した村が、少ない。そして——雪の下に青い畝が出た、と。
麦である。
神無月に蒔いた麦が、雪の下で青い針のような芽をそろえていた。麦は寒さに強い。雪を被ってなお枯れぬ。——あの、細い橋がたしかに架かりはじめていた。
芽ものも膳に上りはじめた。豆を撒けば、十日で、芽が出る。里芋の株は、土の下で太る。
この冬、越水の近郷だけ雨に恵まれた。余所が乾く中で、松永の手当てした畝だけが青を保っている。
——天の、いたずらのような、恵みであった。
彦太らの言伝にこうあった。
「教えを乞う家、郷ごとに、増え候」
強いて飲ませはせぬ。青い畝が勝手に口を利いた。
(実りはいちばんの口上よ)
久秀はそれを読んで、口の端を上げた。書付のどんな効き目の口上よりも、目の前の一枚の青い畝が百姓を動かす。理屈は要らぬ。腹が得心する。
*
甚内の報告に、一つ、妙な一行が、混じっていた。
「田の土直しと称して、古土集まり候。小分けにして、山へ運び候」
田の肥やしにするという古い土を、なぜわざわざ山へ運ぶのか。——分からぬ。あの村の作りようは、いつも、底が知れぬ。久秀は、深くは、問わなかった。問うたところで、あの小僧は、損得の顔でするりと躱す。
(まあ、よい。実れば、それで)
山、といえば。
六郎ら、腕に覚えの荒くれどもは、いま、猪名川の下の、古い間歩で、土を掘っている。細く貧しい穴である。なぜ、あれほど痩せた穴に人を注ぐのか——甚内でさえ、腑に落ちぬ顔をしていた。
久秀は、答えを与えなかった。
(あの穴は銅のためではない。……人を鍛えるためよ)
地の底に慣れた掘りようを知る、一群の男ども。それを、いま作っておく。
まだ、手にしておらぬ山のために。
その山の名は、久秀の帳面にも書いてない。書付の、絵図の中にだけある。
*
年の暮れ、評定の座であった。
飢饉の手当ての、成果が読み上げられる。三好領の飢饉は、余所より軽い。逃散した村が、少ない。年貢の見込みが立つ。——数字が、それを証していた。
末席に、久秀は控えている。
上座の顔が、久秀を見た。一つ、二つ、白い目が、混じっている。野間長久の目が、そうであった。伊丹から寝返り、功を焦る男である。松永の田が実るほど、その目は白くなる。己の手柄が霞むからであった。
(功は人の飯を奪う。己の椀が減ると思えば、隣の実りが憎くなる)
久秀はその目を、見ぬふりをした。慣れている。
宿老の三好長逸が、扇子を閉じた。
「松永殿は」
磊落な声である。だが、要所で鋭い。
「相変わらずよう気がつきなさる」
座が、静まった。
「……よう気がつきすぎるほどに」
久秀は頭を下げた。
「畏れ入りまする」
それだけ言った。
長逸は笑っている。皮肉の笑いである。だが、その目の底には、笑うていない色があった。この男よう働く。働きすぎる。よう気がつく。気がつきすぎる。——譜代の宿老が、成り上がりの祐筆に向ける値踏みの目であった。
(気がつきすぎる、か)
久秀は、下げた頭の下で思う。褒めているのではない。案じているのでもない。長逸は、量っているのだ。この松永という男が、どこまで伸びるか。伸びていつか己の頭を越えるか。
松永の田は魔法のように実る。
——その評判が、いま家中に立ちはじめた。
良い評判である。だが、良い評判ほど、後で高くつく。実りすぎる田は、妬まれる。気がつきすぎる男は、恐れられる。妬みと、恐れはいつか火になる。
久秀は、それを知っていた。知っていて、なお実らせた。実らせねば、飢えた領は保たぬ。
(毒を承知で飲む。……商いとはそういうものよ)
*
その夜も、久秀は遅くまで、灯の下にいた。
文書の、山である。施行の帳面。種籾の宛行。人別の写し。古土の受取。年貢の見込み。近づく祝言の、段取り。——師走の越水は、年の瀬と婚儀の支度で、慌ただしい。その、ほとんどが久秀の手を通る。
書役の下役は、幾人かいる。だが、書付のいちばん奥の誰にも見せられぬ帳面——それだけは、久秀が、己の手で書くほかにない。人手はあっても、代わりはおらぬ。祐筆の戦の、いちばん深いところは、久秀ひとりの戦であった。
灯芯が細る。久秀は火箸でそれを掻き立てた。目の奥が重い。墨を磨る手が、幾度か止まった。
(人手が、足りぬ)
一千石を撒くのも、山へ人を送るのも、古土を集めるのも、みな久秀が、筆で回している。回しているうちはよい。だが、これが二倍になれば。三倍になれば。
——己の手は、二本しかない。
久秀は新しい紙に筆を下ろした。帳面である。
一、施行 米麦 五百石余 配了
一、麦 神無月ニ蒔ク 初夏ノ穂ヲ待ツ
一、種籾 郷々ヘ宛行 春ニ下ス
一、芽もの・里芋 膳ニ上ル 冬ノ内
一、返済 三年賦・豊作ノ年ヨリ 見込ミ 立ツ
一、古土 集メ 山ヘ
書いて久秀は筆を止めた。
最後の一行の字がいつもより乱れている。疲れが筆に出た。
米の帳面の下にもう一つ、帳面がある。点の帳面である。あの矢倉で、点を割って買うた五年の絵図——「飢饉は、なお続く」の、一行。それが、いま、飢えた野に青い畝を引いている。
(買うた知恵が初めて土になった)
銭では購えぬ、買い物であった。
外では、雪が降っている。
明日も、列に粥が回る。青い畝がまた一枚、増える。松永の田は実る。
——実って妬まれる。
(この手が、もう一組あればな)
師走の夜の、独り言であった。答える者はおらぬ。
灯芯が、また細った。
一、消費なし
残り 七点
■用語解説
・逃散…中世日本において、重税や飢饉・戦乱などに耐えかねた百姓たちが、村や土地を捨てて集団で逃亡・避難すること。
・間歩…鉱山において、金・銀・銅などの鉱石を掘り出すために地下へ掘り進めた坑道(採掘穴)のこと。
・三好長逸…三好家古参の宿老。長慶を支えて各地を転戦し、後に「三好三人衆」の筆頭として畿内政権の重鎮となる。
・宛行…領主が家臣や百姓に対し、知行(領地)や給与、あるいは種籾などの物資を正式に割り当てて支給すること。




