第26話(三)「二上山」
――同じ日の、夕である。
二上山の裏へ回った。
山の北の腹に木の切れた斜面があり、城からは尾根が一つ挟まっている。旗の頭だけが見えて、竿の下がどうなっているかは見えない。
勘助は、そこへ立てさせた。
「――間を、置け」
と、次郎太へ言った。
「詰めて立てれば、幅で数えられる。三つ立てたら一つ空け、空けたところを人に歩かせよ」
「……歩かせるだけで、よろしゅうござるか。旗を担がせずともに」
「歩かせるだけじゃ。同じ者が二度も三度も通ればよい。……向こうから見えておるのは頭と肩だけゆえ、同じ者が通っても、別の者が通ったことになる」
次郎太は四百を四つに割り、組ごとに斜面を横へ渡らせた。渡り終えた組は木の陰へ入り、下から回って、また端から出てくる。出てくるたびに旗が動いた。
日が傾くにつれ、影が伸びた。
伸びた影は、旗の数だけあった。
火は、日の落ちる前に焚かせた。
「まだ日があるうちに、火を入れられまするか」
と、次郎太が言った。
「暗うなってから焚けば、火の数がそのまま算えられる。明るいうちに焚いておけば、暮れるころには煙だけが残る。……煙は、算えられぬ」
柴には生木を混ぜさせた。生木は燃えにくく、そのぶん煙が濃い。煙は風を待たずに横へ流れ、斜面を這って尾根を越え、城のほうへ落ちていった。
「……銭は、どうなりましょう」
と、次郎太が訊いた。
「谷の口で渡す日銭は、三日は持つと言うておったな」
「今日を入れて、三日にござる。旗の布と麻を買うたぶんが、そこから抜けておりますゆえ、四日目の勘定が立ちませぬ」
「なれば、明後日の暮れまでか」
「明後日の暮れまでにござる。……そのあとは、殿の銭を待つよりほかにござらぬ」
次郎太は、口を閉じた。
「……一日目で、これだけの旗を立ててしまわれまするか。二日目、三日目に足すものが無うなりまするが」
「足さぬ。はじめから、あるだけ立てる」
「立ったところで、飯は出ませぬぞ。旗は食えませぬゆえ」
勘助は、尾根の向こうを見ていた。
飯が出ぬことは、次郎太のほうがよく知っている。
*
日の落ちる前に、尾根まで上がってみた。
城が、正面に見える。
櫓の上に、人が出ていた。
最初は二人であった。しばらくして三人になり、暮れ方には五人が並んだ。五人とも、こちらを見ていない。北の斜面を見ている。
一人が、指を動かしていた。
指しては止まり、また初めから指し直している。二度、同じところへ戻った。
「……数えておりますな」
と、次郎太が言った。
「数えておる。二度、同じところへ戻った」
「数えられて、よろしいので。あれだけ立てておけば、いずれ人の数と合わぬと知れましょう」
「数えられねば、困る。……こちらは、数えてもらうために立てておるのじゃ」
風が、こちらへ回っていた。
尾根一つ隔てているので、声は届かぬはずである。届かぬはずのものが、風の縁に乗って切れぎれに落ちてきた。
「――三好が出せるは、多うても千五百と伺うてござった」
という声である。
それに答える声は、しばらく無かった。
「……三好が千五百なれば、あの残りはなんじゃ。倍は立っておるぞ」
「二つ引きは、管領様の御紋にござる。……なにゆえ、管領様の御旗が大和におわしまするか」
そこで、また切れた。
櫓の一人が、下へ何か言った。
言われた者が、下から上がってきた。上がってきて、また初めから指し直しはじめた。
次郎太が、こちらを見た。
「……あの物見、さきほどから同じところを二度算えておりまする」
「三度も四度も算えるであろう。算え終えるまで、あの者は下りられぬ」
*
門の下へ立ったのは、暮れ方である。
連れたのは十人足らずであった。四百は斜面に残し、旗の下を歩かせ続けている。
大手の門は閉じていた。
閉じてはいるが、閉じ方が甘い。閂は掛かっているのだろうが、脇の潜り戸のところに人の座った跡があり、木戸の下の土が踏み固められていない。出入りする者を、いちいち改めていないのである。
櫓の上に、人影が二つあった。
弓は持っていない。
風が、尾根を越えて落ちてきている。生木の煙の匂いであった。門の下まで来ていて、櫓の上の一人が、さきほどから鼻のあたりを袖で押さえている。
「――門を、開けられい」
と、こちらの一人が声を張った。
返事は、すぐには来なかった。
櫓の影が動いて、それから下がった。しばらくして門の内側で足音が幾つか鳴った。走る足音ではない。
その足音の向こうで、二つの声が言い合っていた。
低い声と、若い声である。何を言い合っているかは聞き取れない。ただ、「四千」という数だけが、二度こちらまで届いた。
勘助は、それを聞いて動かなかった。
こちらから言うことは、何も無い。数は、向こうが言うのである。
「――何者じゃ」
と、内から声がした。
勘助は、半歩下がった。
下がって、後ろに立っていた男を前へ出した。
木沢秀種である。
秀種は門の下まで歩き、それからしばらく声を出さなかった。
息を、一度吸った。
吸って、吐いて、それから吸い直した。
「――木沢秀種にござる」
門の内が、鳴った。
物の倒れる音ではない。人が一度に動いた音である。
勘助は、息を吸った。
吸って、吐かずにいた。
「……秀種様」
と、若い声がした。
「秀種様にござりまするか。信貴山の」
「さよう」
門の内で、別の声がした。
若い声ではない。低くもない。ただ、近くの者へ言ったつもりのものが、そのまま抜けてきただけであった。
「――なぜ、来なんだ」
秀種の背が、動かなくなった。
勘助は、それを見ていた。
この城の三千は、河内へ行っていない。行かずに、残れと言われて残った。そして残れと言うた者は、帰ってこなかった。
帰ってこなかった日、山の向こうにも、行かずにいた城が一つある。
誰も、そこから出てこなかった。
「……秀種様。お連れの御方は、どなたにござりまするか」
と、若い声が言った。
「三好方の使いにござる」
門の内が、また鳴った。
さきほどより低く、長く鳴った。人が動いた音ではない。六人か七人が、いっせいに口の中で何か言ったのである。
「……三好、にござりまするか」
「城を焼かずに開けた話をしに参られた御方じゃ。信貴山のことを聞かせられる者は、この御方よりほかにおらぬ。……この御方を通されねば、拙者の話も通らぬ」
返事は、すぐに来なかった。
勘助は、杖を左の手へ持ち替えた。
持ち替えて、右の手を空けた。空けたまま、腰のあたりまで上げた。
「――得物は、この杖だけにござる。人数は、十人足らず。門の内へは、拙者ひとりで参る。あとの者は、外に残す。……改められよ」
と、勘助は言った。
訊かれる前に、己から言ったのである。
門の内で、足音が動いた。今度は遠くへ行き、しばらくして戻ってきた。誰かに訊きに行って、帰ってきた足音であった。
「――お開けいたしまする」
と、若い声が言った。
声が、遠のいた。
遠のいて、すぐ近づいた。近づいたときには、足音が三つに増えていた。
潜り戸の掛け金が、内側から外れた。
戸が、開いた。
開けたのは、灯を持たぬ若い者である。丈と肩の形しか見えない。
「……お入りくださりませ」
早い、と勘助は思った。
■用語解説
・疑兵…実際より多く見せかけた兵。旗を人数より多く立て、夜に火を余分に焚き、同じ人数を幾度も歩かせる。攻める側の数は、攻められる側が数えるものである。数えたうえで足す一手が疑兵であって、足すのは兵ではなく、数えきれぬという心であった。




