第26話(二)「二上山」
――同じ日の、昼である。
影が、足の下まで縮んだ。
午の刻——日の真上に来る刻限である。
城を出た。
四百と、旗が二百幾つと、荷を担ぐ者が三十ばかりである。城の者は残した。門は開けたままにして、蔵の前には昨日までの番をそのまま立たせてある。
二百幾つのうち、四本だけ置いていった。
櫓の四隅に、三好の旗である。
「……四本も、置いてゆかれまするか。二百幾つでも足りぬと仰せられたばかりにござるが」
と、次郎太が訊いた。
「四隅に立てておけば、どの谷から見上げても一本は目に入る。一本では、見落とす者が出る。……麓の者が見て、麓の者が喋ればよいのじゃ」
この城はもう開いている。開いた城に印を立てるのは、獲った者の当然であった。
当然のことをしておくと、次にすることが目立たぬ。
最後に出てきたのが、木沢秀種であった。
具足は着けているが、馬には乗らない。乗る馬が無いからではなく、この山道は馬が通らぬからである。
二十七になる。長政に似た太い眉をしていて、目だけが似ていない。一昨日まで、この城を預かる主であった。
今日は、歩いている。
「――秀種どの」
と、勘助は呼んだ。
「二上山の門を叩くは、御身にござる。拙者は、後ろに立つ」
「……昨夜、伺うてござる」
「二度、申し上げてござる」
秀種は、束の間、返事をしなかった。
「……なにゆえ、拙者にござる」
訊いてきたのは、これがはじめてであった。
「拙者が叩いても、あの門は開きませぬゆえ」
「叩けば、いかがなりまする」
「拙者が叩けば、あれは寄せ手にござる。寄せ手が門を叩けば、城は閉じる。閉じた城は、焼くか、囲むかのどちらかにしかならぬ」
「……焼けば、それで済みましょう」
「焼いた城から、人は出て参らぬ。焼けば城は無うなるが、こちらが欲しいのは城ではござらぬ。中におる者にござる」
勘助は、そこで一度、言葉を切った。
「木沢の城の門は、木沢の名で開き申す。……その名を持っておるのは、いま御身ひとりにござる」
秀種は、答えなかった。
答えずに、具足の胸のあたりを一度だけ押さえた。
――買えぬものを、持っておる。
銀なら持っている。飯の当ても、紙も持っている。持っていないものが、一つだけあった。
「……四里と、聞いてござる」
「平の道なら、四里にござる」
「なれば」
「その道は、王寺を抜けて、葛下の里を通る」
秀種は、そこで黙った。
黙ってから、小さく息を吸った。
「……通れませぬな」
「通れぬ」
昨夜、秀種の前でも同じことを言った。木沢の名で通る道と、通らぬ道の話である。あのときは、通らぬほうを数えて聞かせた。今日は、その道を実際に避けて歩くだけであった。
「山道じゃ。谷を、三つ越える」
「……輿は」
言いかけて、秀種は口を閉じた。
輿に乗る者は、この道にはいない。
谷は、湿っていた。
前の日に降ったものがまだ抜けておらず、落葉が濡れて重なっている。踏むと沈んで、その下から古い葉の匂いが立った。腐りかけた匂いである。
旗は、巻いて担がせた。立てて歩けば竿が枝に取られるからだが、巻いておけば布の白さも見えない。
列は長く伸びた。四百に旗が二百幾つあるので、二人に一人は余計な物を持って歩いていることになる。担ぐ者どうしがぶつかると竿が鳴り、その音が前後へ抜けていった。
二つ目の谷を上りきったところで、勘助は杖を持ち替えた。
右の腿の裏が、攣っている。九年、こうなると分かっている。分かっていても、来るときは来た。
左の足へ躰を預け、そのまま数を算えた。二十まで算えると、たいてい抜ける。
十七で、抜けた。
今日は早い、と思った。
*
道は、そこで一度、郷の端を掠める。
田に、人がいない。
彼岸を過ぎて畦の草は伸びはじめているのに、鋤の入った跡が一枚も無かった。去年の株が黒いまま残っていて、その上を鴉が歩いている。人が通っても、飛ばなかった。
家は、七軒か八軒である。
そのうち三軒は、戸が外してあった。外して、どこかへ持っていったのである。焚くものが無くなれば、まず戸を焚く。板を焚き終えたら、次は柱を焚く。
道端の木の幹が、腰の高さまで白い。
皮を剥いだ跡である。剥いで、煮て、食う。木の皮を食う年は、その次の年に木も枯れる。
「……去年の秋に、ここを通り申した」
と、次郎太が言った。
「そのときは、まだ煙が立っており申した。三本か、四本」
いまは、一本も立っていない。
「田の人手を、木沢が去年の秋に取ったのじゃ」
と、勘助は言った。
「取って、河内へやった。取られた田は、そのまま起こされておらぬ。……飢えた年に戦をすると、こうなる」
次郎太は、何も言わなかった。
言わずに、腰の袋を一度、手で押さえた。中には、今朝の握り飯が一つ入っている。
抜けたところで、後ろが止まった。
秀種であった。
立ち止まって、来た方を見ている。
木の間から、山が一つ見えていた。信貴山である。ここからでは城は見えず、山の形だけが低い雲の下に伏せていた。
勘助は、待った。
声はかけなかった。
奥は、月が近い。卯月の初めと聞いている。十日ほどである。
秀種は、しばらくそうしていた。
具足の下から、汗の匂いがしていた。城を預かっていたあいだ、渡りを日に幾度か歩いたきりであろう。四里を歩くのは、久しいはずであった。
「……見えるか」
と、勘助は訊いた。
「山だけが」
「城は、見えぬな」
「見え申さぬ」
秀種は、口を開きかけた。
開きかけて、閉じた。
訊きたいことは、この二日で幾つも出来たはずである。城の者は無事か、蔵は開けられておらぬか、奥は寝ておるか——そのどれを訊いても、答えるのは、昨夜その城を受け取った者であった。
「……参り申す」
と、秀種は言った。
言って、勘助より半歩前へ出た。
この二日、この若い一門が人の前に出たのは、それがはじめてであった。
*
三つ目の谷を越えると、尾根に出た。
東が、開けている。
下は平で、田がまだ乾いていて畦だけが黒い筋になって並んでいた。その向こうに、二つの峰が並んで立っている。二上山である。大和と河内の境を塞いで建った城が、その上にあった。
建ってから、まだ幾年も経っていない。城下に根が無い。
勘助は、杖を左の脇へ挟んだ。
目を細める。
山の腹に、道が一本見えていた。その道を、人が下りていた。
一人ではない。
列になっている。荷を負った者と、負っていない者が混ざり、間を空けて、途切れながら続いていた。上のほうはまだ城の木戸に近く、下のほうは麓の林へ入りかけている。
急いではいない。追われている者の下り方ではなかった。
次郎太が、脇へ来た。
「……あれは」
「出ておる」
「攻める前から、にござるか」
「攻める者がおらぬゆえ、出ておる」
主が討たれ、城は焼け、旧い領は明日にも割られる。門を叩いても、開く先がどこにも無い。籠っているのではなかった。行き場が無いだけである。
次郎太は、しばらく列を見ていた。
「……幾人、おりましょうな」
「三千と、聞いた」
「あれが、みな出てしもうたら」
「獲るものが、無うなる」
「幾日、持ちましょう」
「知らぬ」
次郎太が、こちらを見た。
「――なにゆえ、城にござる」
「うむ」
「殿の御下知は、物と、紙と、人と伺うてござった。物は箱にござる。昨夜、取ってござる。紙は光秀様。人は、奈良の東の庄と伺うてござる。……この城は、そのどれにも入っておりませぬ」
「入っておらぬな」
勘助は、それを認めた。
東の山あいに、剣を打ち、剣で食うている庄がある。木沢の名で紙を押していた庄で、その名が退いたいま、散りかけているという。散る前に見ておけ、見るだけでよい——殿は、そう言われた。
見るだけでよいものは、明日でも見られる。
下の平で散っているものは、明日には無い。
「……なれば、旗を立てて麓から睨んでおれば足りましょう。なにゆえ、御身が中へ入られる」
「あの三千も、人よ」
勘助は、そう答えた。
「それに、木沢秀種を一人で門の内へ入れれば、あの男は木沢に戻る。戻らぬとは思うておるが、思うておるだけでは足りぬ。……戻らぬところを、見ておかねばならぬ」
見るだけでよいと言われたものが、見ているうちに無くなる場合のことを、殿は何も仰せられなかった。
勘助は、旗のほうを見た。
巻いたままの竿が、道に沿って寝かせてある。二百幾つの、まだ誰にも見られていない嘘であった。
立てるには、日の落ちる前に山の裏へ回らねばならない。
「――夕までに、立てる」
と、勘助は言った。
次郎太が、口の端から息を洩らした。
「焼ける前に、と仰せられておった御下知にござったが」
「あれは、信貴山にござる」
「これは」
勘助は、答えなかった。
これは、下知ではない。
尾根の向こうで、四百が竿を担いで斜面へ散っていく。青い竿が二百幾つ、まだ誰の目にも触れていない。
――逃げられる前に、獲る。
触れさせるのは、日の落ちるころであった。




