第25話(四)「信貴山、暮れて」
――同じ夜の、広間である。
油皿は、まだ一つであった。
板壁ぎわに、油の樽が一つ据えてある。昼のうちに運び入れたものである。この座敷も、焼く手筈に入っていた。
勘助は、懐へ手を入れた。
誓紙を、一枚出す。
烏の刷ってある紙で、その裏に字が書いてある。谷の者へ渡したのと、同じ書きかたであった。
紙を筵の上へ置き、杖を左の脇へ挟む。
両手が、空いた。
空いた両手で、紙を持ち直して差し出した。
弥三右衛門の手が、先に出た。
主より先に紙へ手を出すのは無礼である。無礼を承知で出したのは、検めるのが宿老の役だからであった。この城で紙を検めてきたのは、十年、この老臣である。
紙を、目の高さへ上げる。
上から下まで、一度で読んだ。
「――一つ。城中の者は名と在所と齢を書き上げ、在所へ帰る者は帰す。荷は持てるだけ持たせる。女子供も同じ。寺へ遣らず、髪も下ろさせぬ」
声に出して読んだのは、主に聞かせるためである。
「二つ。谷の者には手をつけぬ。麓の田も家もそのまま。名主も替えぬ」
「三つ目は」
と、秀種が言った。
「紙には、二つしか書いてござらぬ」
と、弥三右衛門が言った。
「三つ目は、これから申す」
答えたのは、勘助のほうであった。
「御身と、奥にござる」
「二上山へは、行かれるな。あの城も、いずれ同じことになる。……こちらへ来られよ」
「――松永の家中に、木沢の者を置かれるか」
「置く」
「木沢を潰した戦の、翌日にござるぞ」
「翌日じゃ」
勘助は、それを否まなかった。
「快く思う御方は、一人もおられまい。……それでも、拾い申す。木沢の名で開く城が、大和にまだ幾つもござるゆえ」
弥三右衛門が、読み終えて、紙を主へ回した。
秀種は、受け取って、上から下まで目を通した。
通してから、名の下の白いところで目を止めた。
「……判が、ござらぬ」
言うたのは、秀種のほうであった。
勘助は、動かなかった。
神の名は並んでいる。年号も月日も入れてある。山本勘助の名も書いてある。書いてある名の、下だけが空いていた。
「山本殿の御名は、ござる」
「ござる」
「松永殿の判が、ござらぬ」
「無い」
「……判の無い紙は、紙にござる」
「さよう」
弥三右衛門が、そこで言葉を挟んだ。
「――証人は、どなたを出されまする」
これが、作法である。
武家の約束は、人で請け合う。相手方の身内を一人こちらへ預け、こちらの身内を一人向こうへ渡す。紙は、その写しにすぎぬ。
「御家中から、一人。……人を置いてゆかれれば、判は要り申さぬ」
勘助は、すぐには答えなかった。
「おらぬ」
「おらぬ、と」
「谷の口の四百は、銭で雇うた者どもにござる。松永の家の者は、一人も連れておらぬ」
「……では、この約束は、何が請け合い申す」
「拙者の首、一つにござる」
「一つ」
「一つしか、持っておらぬ」
弥三右衛門は、その顔を見た。
勘助は、懐へもう一度手を入れた。
紙の包みを出して、筵の上へ置く。
置いたところが、包みの重さのぶんだけ沈んだ。
「――開けられよ」
弥三右衛門が、指で開いた。
中のものが、油皿の火を鈍く返した。白くはない。灰を薄く敷いたような色である。
「……鉛にござるか」
「銀にござる」
弥三右衛門は、手を出さなかった。
出さずに、顔だけ近づけて見た。
「……見たことが、ござらぬ」
「大和には、まだ無いはずにござる」
「これで、何が買えまする」
「米で、十石ばかり」
「……」
「これ一つに、大した値はござらぬ。……値打ちは、幾つ出るかにござる」
勘助は、指を折った。
「去年の夏まで、月に十貫にも足り申さなんだ。秋に三十貫、冬に六十貫。……この正月から、月に百貫を超え申す」
弥三右衛門の指が、包み紙の縁で止まった。
「……増えており申すか」
「増えており申す。まだ、止まっており申さぬ」
秀種が、はじめて包みのほうへ膝を寄せた。
これも、申しつけられておらぬ。
銀を大和の者へ見せよとは、誰も言うておらぬ。四百の日銭に替えるために持たされたものであって、こういう使いかたをする物ではなかった。
「――御身が、持たれよ」
勘助は、包みを老臣のほうへ押した。
「拙者に」
「約束が違えられたら、それは御身のものにござる。……判の代わりには、なり申さぬ。手付には、なり申す」
弥三右衛門は、それを取らなかった。
取らずに、主のほうを見た。
はじめて、主のほうを見たのである。
戸口に、人が来た。
搦手で松明を持っていた、あの若い者である。
「――樽は、いかがいたしまする。刻限にござります」
声が、上ずっていた。木戸で「誰ぞ」と言うたときより高い。
日の落ちてからずっと、抜けと言われるのを待っていたのである。待たされている者の声であった。
秀種は、動かなかった。
「……いま少し、待て」
と、弥三右衛門が言った。
「……いま少し、とは」
「待て」
足音が、遠ざかっていく。遠ざかりきる前に、止まった。止まって、しばらく動かなかった。
秀種は、紙を見ていない。
樽の縁を、見ている。
――決められぬ。
この座で、この男が花押を据えることはない。据えれば、城を渡したのが己になる。渡した者の名は、二上山の門の内側で読み上げられる。
名を残せと言われて育ち、名を汚す一手だけは己で打てぬ男であった。
勘助は、紙を引いた。
引いて、己の膝の前へ戻した。
「――御身に、開けと申しておるのではござらぬ」
弥三右衛門の眉が、動いた。
他家の陪臣が、城を預かる者を御身と呼んだのである。
咎めはしなかった。咎めれば、いま何が話されているかを認めることになる。
「では、何を」
と、秀種が言った。
「明日の日の落ちるまで、何もなさるな」
「……」
「栓は、抜かれずともよい。柴は、積んだままでよろしい。城の者に、何も申されずともよい。……今夜は、何もなさるな。それだけにござる」
油皿の芯が、また下がっている。
誰も、掻き上げなかった。
「……それは」
と、弥三右衛門が言った。
「開けと申されておるのと、同じにござる」
「同じにござる」
勘助は、それも否まなかった。
「されど、この御方は、決めずに済み申す」
弥三右衛門が、口を閉じた。
閉じて、主のほうを見ない。見れば、主が答えることになるからである。
城の者が、二人ばかり戸口に立っていた。荷を運びに来て、そのまま入りかねて立っているのである。
「……その御方は、大和にいかほど持たれる」
と、弥三右衛門が言った。
「いまは、一段も」
「……」
「大和は、これから空き申す」
戸口の二人が、担いできた荷を、そこへ下ろした。
嘘は、一つも言うておらぬ。
――そのうえで、この紙には、判が無い。
弥三右衛門は、それきり訊かなかった。
訊けば答えが返る。返った答えは、戸口の者どもの耳へも入る。入ってしまえば、聞かなかったことにはできぬ。
秀種は、動かなかった。
紙も、樽も見ていない。膝の上の、己の手を見ている。
「……木沢の名は、どうなり申す」
訊いたことが、いま決めることと繋がっていない。
繋がらぬことを訊くのが、決めかねている者の癖である。
「残されよ」
「……捨てたほうが、御家中では通りやすうござろう」
「通りやすい名なら、幾らでもござる。要るのは、通りにくいほうにござる。……二上山にも、鷹山にも、箸尾にも、木沢方の衆が残っており申す。あれらの門を叩いて開く名を持っておるのは、いま御身ひとりにござる」
秀種は、答えなかった。
弥三右衛門のほうを、一度見た。
老臣は、見返さなかった。
「……いま、なんと申された」
声が、掠れていた。
「木沢の名で、木沢方の門を開けさせると。……そう申されたか」
「さよう」
「――木沢は、もう終わり申した」
「……」
「今日でのうても、来年には終わり申す。二上山も、鷹山も、箸尾も、順に開くか、順に焼くかにござる。……開けて回る者が、要り申す」
「拙者に、一門を売れと申されるか」
「売れと、申しており申す」
言い替えなかった。
言い替えれば、あとで言い替えたことになる。
「……」
「終わる家と、ともに終わられるか。……それとも、その命脈を断つ役を引き受けて、汚名を着られるか」
「……」
「着れば、三好で一角の者になられ申す」
秀種の膝の上で、指が一本ずつ開いた。
開いてから、また握った。
「……一角の、と申されても」
「先ほどの包みにござる」
秀種の目が、また包みへ動いた。
「あれで、人を雇うており申す。谷の口に座っておる四百は、田から出た銭では雇うており申さぬ」
「……」
「松永の家中で、いま手の内に残るは三十人にも足り申さぬ。三好も、河内と摂津を取ったばかりで、人が足り申さぬ。……銭はござる。人が、ござらぬ」
「……」
「うちの殿は、家柄を訊かれませぬ。訊かれるのは、何ができるか、それだけにござる。……御身にできることは、はっきりしており申す。門を、開けさせることにござる」
勘助は、そこで一度切った。
「拙者は、片目が潰れ、片足が利き申さぬ。九年、牢人にござった。……それを買うて、四百を預けられた」
板の間が、足の裏から冷えてきている。
夜が、更けていた。
「――今夜、拙者を斬られてもよろしい。斬れば、何も起き申さぬ」
秀種の肩が、動いた。
「明日、城を焼いて山を下りられる。荷を担ぎ、八人で奥を担ぎ、谷を三つ越えられる。道には、落ちた者を拾う百姓が出ており申す。……その先で、二上山の門は開き申そう」
「……」
「開いたその先で、御身は何になられる」
答えは、無かった。
「拙者が買われたのは、一年と三月前にござる」
秀種が、顔を上げた。
「……一年と、三月」
「一年と三月にござる」
秀種の口が、動いた。
動いてから、閉じた。
閉じてから、訊いた。
「……拙者は、戦に出なんだ者にござる。それでも、買われ申すか」
「買い申さぬ」
秀種の顔が、上がった。
「――御身の戦を買うのではござらぬ。買うのは、木沢の名と、その血にござる」
勘助の声が、そこで張った。この座敷へ入ってから、はじめてであった。
「二上山の門も、鷹山の門も、御身の弓を見て開くのではござらぬ。御身の親の名を見て、開き申す。……戦上手が入り用なら、拙者は河内へ回り申す。討たれた御方がたの子が、いくらも残っており申そう」
「……」
「口惜しゅうござろう」
秀種の膝が、動いた。
「――言われるな」
「口惜しいと思われぬのなら、この話はここまでにござる。名しか無い御方は、名の要らぬ日が来れば、それきりにござるゆえ」
「言うなと申しておる」
声が、割れた。
割れたところで、息が続かなくなったらしい。肩が、二度上がった。
「言い申す」
勘助は、膝を進めた。片足が利かぬので、進みかたが斜めになる。
「拙者は九年、それを言われる側におり申した。牢人めが、と。……言われるたび、腹の底が焼け申した。焼けておるうちは、まだ使い道がござる」
「……」
「その焼けたものを、明日まで持って行かれよ。持って行って、燃やしなされ。二上山の門は、御身の親の名で開き申す。……開いた先は、親の名では歩けませぬ。そこからは、御身の才覚にござる」
秀種の息は、まだ戻っていない。
戻らぬまま、訊いた。
「……家を、立てよと申されるか」
「立てられよ」
「一門を売った男が、立てられると申されるか」
「立てた者を、拙者は幾人か見申した」
勘助は、言い切った。
「立てられなんだ者も、見申した。どちらになられるかは、拙者の知るところではござらぬ。……ただ、立てる場に上がる道は、今宵しか通っており申さぬ」
「……明日では、遅いと申されるか」
「明日は、山が空き申す」
勘助は、樽のほうへ顎をやった。
「城が焼ければ、御身は焼けた城から出て来た牢人にござる。名は、城とともに焼け申す。そうなってから門を叩かれても、どこも開き申さぬ。……叩いて回った者が、ここに一人おり申す」
声を、そこで戻した。
「いま御身に値の付いておるのは、城がまだ建っておるゆえにござる」
弥三右衛門が、息を吸った。
吸ったまま、吐かなかった。
秀種が、動いた。
樽の縁から手を離し、膝の上へ置く。
「……硯を」
弥三右衛門が、顔を上げた。
「殿」
「硯と、紙を持て」
声は、もう掠れていなかった。
墨の擦れる音を聞きつつ、勘助は待った。この城でいま音を立てているのは、それだけである。
摺り終えて、秀種が筆を執った。
執ったところで、止まった。
「……据えずともよい、と申されたな」
「申した」
「一度目は、願い出て、許され申した」
「……」
「二度目は、誰にも願い申さぬ」
「据える」
息を、三つ。
四つ目で、書きはじめた。
城を開くという、請文である。書き終えて年号と月日を入れ、名を書き、その下へ花押を据えた。
宛所には、山本勘助どのと書いてある。
判の無い紙への、返しであった。
「……蔵の物は、いかほど御入り用にござる」
「みな」
秀種の眉が、動いた。
「……みな、と」
「唐の物も、伊勢の物も、書付も、みなにござる」
「……欲の深いお方じゃ」
「主が、そういうお人にござる」
「名のある物は、幾つあっても困り申さぬ。……一つだけ持って帰れば、殿は残りを算えられる。算えて、あとで悔やまれる。悔やませぬのが、家来の役目にござる」
「蔵ごと、運ばれるか」
「運び申さぬ。谷の口の四百は、明日も動かさぬ。蔵は封じて、御身の手の者に守らせる」
秀種の眉が、そこで動いた。
「……なにゆえ、そちらの御手の者ではなく」
「己の家の物を守る者は、最後まで守るものにござる。焼いてでも、渡すまいといたす。……そういうものにござろう」
「なれば、そちらの御手の者は」
「銭で来ており申す」
勘助は、それだけ答えた。
「銭で来た者は、銭の続くあいだは守りまする。切れた日から先は、守りませぬ。……坂の下から、あの者どもが昨日ずっと何を見ておるか、御身も御存じにござろう」
秀種は、蔵のほうを見た。
見て、目を戻した。
「……こちらの者に守らせておけば、切るのは、こちらの者を斬ってからということになり申すな」
「さようにござる」
「……」
「そちらの者を斬れば、それは寄せ手にござる。寄せ手になれば、この城は明日から城に戻りまする。……拙者は、明日この城を城に戻したくござらぬ」
秀種は、しばらく黙っていた。
昨日まで己の家の蔵であったものを、今日から他人の物として、己の手の者に守らせるのである。
「……一つだけ、明日の暁までに出しておかれよ」
「なにを」
「両手で持つ物じゃ。片手では持てぬ。布に包んで、桐の箱に入っておる」
秀種が、胸の前で両の手を挙げた。挙げて、抱える形をつくった。壺の嵩である。
「……唐の、茶の壺にござるか」
「そうは伺うておらぬ。両手で持つ物、とだけ承ってござる」
「……蔵に、幾つもござる」
「いずれかは、そちらで選ばれよ。……どれが名を持っておるかは、こちらより、そちらのほうが存じておられよう」
弥三右衛門が、膝を立てた。
立ちぎわに、筵の上の包みへ手を伸ばした。伸ばして、袂へ入れた。
主にも、勘助にも、一言も断らなかった。
そのまま退がっていった。
広間に、秀種と二人だけが残った。
秀種は、しばらく黙っていた。
黙ってから、訊いた。
「……谷から出す者は、幾人まで出せまするか」
己の身のことではなかった。妻のことでもなかった。
道の塞がっていることを、この男は宵のうちに聞いている。聞いて、いま初めてそれを口にしたのであった。
勘助は、その顔を見た。
見て、はじめて、降したという気がした。
「幾人でも」
「……三百と、少しにござる。城の者と、麓から上がってきた人足を入れて」
「幾人でも、と申した」
「谷の口は」
「座らせたままにござる。……通られよ」
板壁ぎわの樽が、無くなっている。
あの老臣が抱えて出ていったのは、そのすこし前であった。
外で、音がした。
樽の倒れる音である。
一つ、二つ、続けて三つ。油が樽板を打ち、土へ落ちて、音が細くなっていく。
数えた。
七つで、油の音が終わった。
そのあと三つ、違う音がした。水である。谷から上げた三つも、同じように倒されていた。
――倒せとは、申しておらぬ。
求めたのは、今夜、何もするなということだけであった。
弥三右衛門は、求められておらぬことを、独りでやっている。誰にも諮っていない。主にも、申し上げていない。
明日も、明後日も、この城は焼けぬ。焼くための物が、斜面を流れて土に吸われた。
家の最後の手を、宿老が己の判断で捨てたのである。
匂いだけが、しばらく残った。
勘助は、その匂いのなかで、己の帳を繰っていた。
――申しつけられたのは、二つである。
箱を、焼ける前に取ること。木沢の名で紙を押しておった庄を、散る前に見ておくこと。
箱は、明日の暁に出る。庄は、まだ見ておらぬ。
*
――弥生十九日の、暁である。
火は、点かなかった。
木戸が、内から開いた。開けたのは城の者で、開けてから両側へ寄って、道を空けた。
蔵の前のあたりに、土へ踏まれて潰れた白いものがあった。
昨夜、あの若い者の懐から落ちたものである。飯であった。
その若い者は、木戸の内側に立っていた。
下りてゆく者を、指で数えている。数えるのが役目になったのであろう。
通りざま、一度だけこちらを見た。
見て、目を伏せた。
右の肩が、まだ痛む。
荷を担いだ者が、その間を下りてゆく。下りきった先の谷の口でも、四百が同じように両側へ寄っているはずであった。
下りぎわに、一人が振り返った。
振り返って、動かなくなった。後ろから来た者に肩を押されて、また歩き出した。
その列のなかに、布に包んだ細長いものを胸へ抱えている者がいた。
背にも負わず、脇にも挟まず、胸へ押しつけたまま下りてゆく。
柴は蔵の前に積んだままである。露を吸って、上のほうだけ色が濃い。
その脇の土が、黒く濡れて広がっていた。踏めば足の裏が滑る。夜のうちに流れたものが、まだ乾いていないのである。
蔵の前に、弥三右衛門が立っていた。袴が、膝から下だけ黒く濡れている。
蔵の戸には縄が回して結んであった。結んだ端に、秀種の花押を据えた紙が一枚貼ってある。守るのは、昨日までこの蔵の物を守っていた者どもであった。
風は、まだ谷へ下りている。
木戸の脇に、孫六が立っていた。
城の者が二人、荷を担いでその前を通っていく。通りざま、二人とも孫六の顔を見た。見て、何も言わずに行った。
昨夜、孫六は上へ向かって名を言うている。平群の孫六じゃ、人足の頭よ、と。
城が焼けていれば、それを聞いた者は皆、山を下りて散っていた。焼けなかったので散らぬ。
孫六は、懐のあたりを一度押さえた。
その蔵の前から、桐の箱が一つ、運ばれてきた。
布に包んである。
運んできたのは、昨夜、地べたで釜の底を擦っていた男であった。
両手で抱えている。片手では、持てぬからである。
勘助は、杖を左の脇へ挟んだ。
両手が空くのは、この城へ入ってから二度目であった。
受け取ると、思ったより重い。中で何かが動く気配は無く、布の下の桐が朝の冷えを吸って冷たかった。
男は、両手を空けたまま、少しのあいだ突っ立っていた。
運ぶ物が無くなると、この者どもは手の置き場に困る。
「……ご苦労」
男は、頭を下げて下がっていった。
爪のあいだに、黒いものが詰まっている。
板場のほうから、湯気が上がっていた。竈は、二つとも焚かれている。
分けた火を、今日も分けたまま焚いている。焼く支度をやめて、この城がまず戻したのは、そこであった。
女中が一人、椀を捧げて渡りを行く。塩の入っておらぬほうの椀である。
その渡りの端に、秀種が立っていた。
椀が通り過ぎるのを待ってから、下りてゆく列のほうへ目をやった。
数えては、いない。
こちらには、気づかなかった。
次郎太が、脇へ来た。
「……あれは、幾らになり申す」
「知らぬ」
「知らぬ物を、抱えて帰られますか」
「殿が、ご存じじゃ」
次郎太は、門のほうを一度見た。
「……あれらは、蔵を見ており申す」
と、言った。
「坂の下から、昨日ずっと。……明日も座らせるとなれば、同じことを二度訊かれまする」
「銭は」
「三日は、持ち申す。四日目からは、殿の銭を待つことになり申す」
その三日から、掌に載るほどが一つ、昨夜、城の宿老の懐へ移っている。
勘助は、答えなかった。
銭で買うた静けさである。買えるうちは、静かであった。
勘助は、箱を抱えたまま曲輪の端まで歩いた。
東の空が、白んでいる。
下は、谷である。田がまだ乾いていて畦だけが黒い筋になって並んでいた。その先が、大和の平である。
河内は、背中のほうにあった。低い山なみを一つ越えた向こうで、昨日の朝、この足が立っていた野である。
振り返る。
露を吸うて色の濃くなった柴の山があり、その脇の土は油を吸うて黒く広がり、蔵の戸には昨日まで木沢の物を守っていた者どもが、そのまま立っている。
板場の煙が、細く二本。
城は、建っている。
――攻めては、おらぬ。
その一晩のあとに、城が建っている。
建っている城を、どうせよとは、申しつけられておらぬ。
■用語解説
・証人…約束の請け合いとして相手方へ預ける身内の者。後の世でいう人質にあたる。武家の取り決めは紙より人で担保するのが本筋で、証人を出せぬ約束は軽く見られた。
・請文…言い渡された条々を承知した、と受ける側が差し出す書付。年月日・署名・花押・宛所を添える。本来は主から下された下知を承ったと返すものだが、この場では、判の無い誓紙への返しとして使われた。
・宛所…書状や証文のいちばん左に書く宛名。これが無い紙は誰に宛てた約束か決まらず、証文の体を成さない。相手の名の下に付ける敬称の高さで、双方の格まで分かった。




