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第25話(二)「信貴山、暮れて」

 ――太平寺の野は、まだ暁である。


 光秀は、野の端で馬の支度をしていた。


 木沢の帳面を押さえに行く。兵より先に押さえよ、というのが光秀に下された下知である。木沢の家の紙は河内にも山城にもあり、光秀はまず北へ回る手筈であった。


 「――信貴山が、焼き支度じゃ」


 鞍の緒にかけた手が、止まった。


 「……焼けまするか」


 「今日か、明日にござる」


 光秀は、緒を結び終えてから向き直った。


 「殿の下知は、焼ける前に取れ、にござりましたな」


 「さよう」


 「なれば、焼けたのちに参られてはいかがか。跡を検めれば、残る物は残りまする。焼けた城から拾うのは、盗みにも当たりませぬ」


 「焼ければ、道具も焼け申す」


 「……蔵は、土蔵にござろう」


 「柴を積んで油をかけた蔵が、中身だけ残り申そうか」


 光秀は、そこで少し黙った。


 黙ってから、次を言った。


 「……殿は、いずこに」


 「存じ申さぬ」


 「使いを、出されませ」


 「出し申す。じゃが、今日どこにおられるかは誰も存じ申さぬ。逃げた者を追うておられる。本陣は日ごとに動き申す」


 「捕まえて、御返事をいただくまで」


 「二日にござる」


 殿が、己で言われた数である。捕まえるまでに一日、返事が戻るまでにもう一日。


 「城は、二日は待ちませぬ」


 「待ち申さぬ」


 光秀は、篝火の残りへ目を落とした。


 「殿は、城は要らぬと申されましたな」


 「申された」


 「なれば、焼けるにまかせればよろしゅうござる。城が焼ければ、大和に旗も立ちませぬ。殿の申されようは、そこまで揃うておりまする」


 「揃うており申す」


 「では、なにゆえ行かれる」


 「箱にござる」


 勘助は、それだけ言った。


 「あの城は、高うござる」


 と、光秀が言った。


 「焼ければ、河内からも大和からも見えましょう。奈良からも、堺からも見えまする。……大和じゅうが、木沢の城の焼けるのを見ることになりまする」


 「見せ申さぬ」


 光秀の顔が、そこで上がった。


 「……焼かせぬために、城を獲られますか」


 「獲るのではござらぬ。焼かせぬだけにござる」


 「焼かせねば、城は残りまする」


 「残り申す」


 「……残った城に、誰も入らずに済みましょうか」


 勘助は、答えなかった。


 風が、篝火の灰を薄く舐めて通っていく。灰は舞い上がりもせず、ただ表面の白いところだけが少しずつ剥がれて、麦の畝のほうへ流れていった。


 「二日を待てぬことが出たら、そなたが決めよ、と申された」


 「――申された」


 光秀は、それきり言わなかった。


 己に下された下知は、帳面である。城ではない。理で勝てぬところへ踏み込んで、己の下知を後回しにする男ではなかった。


 笠の緒を結び直す。


 結び直してから、一度解いて、また結んだ。


 「……使いは、こちらから出しましょうか」


 「使い」


 「殿への、御伺いにござる」


 光秀は、緒から手を離さずに言った。


 「これより北へ回り申す。逃げた者を追うておられるなら、本陣に行き当たるのは、こちらのほうが早うござろう」


 早い。


 早いが、その口から先に入る。


 城を焼かせぬために城を獲る、という話である。話のどこから申し上げるかは、申し上げる者が決める。


 この男は、帳面を押さえる下知を受けた。押さえれば、それは果たしたことになる。果たしたうえで、殿の前へ先に立てる。


 「――頼み申す」


 「承ってござる」


 光秀は、東を見た。低い山なみがあり、その向こうが大和である。


 見てから、一度だけ頭を下げた。


 「――帳面を、押さえて参りまする」


 それだけ言って、馬の口を取って歩き出した。


 三歩ばかり引いてから、鐙へ足をかけた。


 馬を出す背が、急いでいる。


    *


 ――同じ日の、昼である。


 平群谷は、信貴山の東の麓にある。


 城から見下ろせば、段になった田と、その段に沿って並んだ家とが一目で数えられるほどの谷であった。城が焼ければ、火の粉はまっすぐこの谷へ落ちる。


 その谷の口へ、四百が着いた。


 道いっぱいに、両側の斜面まで。着いた順に腰を下ろさせ、槍は寝かせさせた。立てれば、上から陣に見える。


 ――見えてよい。


 見えたほうがよい。谷の口を塞いでいる者が四百おると城の者に見えれば、それでよかった。上がって来ぬ者は、攻め手ではない。


 勘助は、道の脇の石へ上がろうとした。


 右の足がかからず、二度目で滑った。


 どこかで、笑い声が上がった。


 止めなかった。次郎太が振り向きかけたのを、杖の先で押さえた。


 笑いは六つか七つ増えて、それから減った。減りきるまで、待った。


 三度目に、次郎太が手を貸して上げた。


 「――今日から、日の暮れに配る」


 四百の頭が、そちらへ向いた。


 「先には、渡さぬ。その日の分を、その日の暮れに渡す。明日の分は、明日の暮れじゃ」


 道の途中で、誰かが何か言った。言うたほうへ、幾つか顔が向く。


 「組ごとに渡す。一人でも欠けておったら、その組は出さぬ。欠けた者を捜すのは、組の者じゃ」


 「――谷へ下りた者は」


 勘助は、そこで一度切った。


 「次郎太が斬る」


 顔が、こちらへ戻った。


 斬るのは、こちらではない。片足の利かぬ者が斬ると言うたところで、誰も本気にせぬ。斬る者の名を出すのが、いちばん安い。


 「一庫におった者は、手を挙げよ」


 挙がった手が、四十ばかりあった。


 「四十七日、囲んで落ちなんだ城じゃ。……四十七日、座っておった者どもよ」


 挙がった手のうちから、四人を指した。


 名は訊かなかった。名を訊けば、名の通った者を選ぶことになる。今日要るのは、名ではない。


 「その四人が、組を預かる。銭は、四人の手から出る」


 指された一人が、しばらく手を下ろさずにいた。


 下ろしてから、隣の者に何か言われて、袖で口のあたりを拭った。


 次郎太の歯の抜けたところから、息が洩れた。


 「……今日から、にござるか」


 「今日からじゃ。……今日の分は、その四人の手から出せ。こちらもそなたも、日の暮れにはここにおらぬ」


 「配り申す」


 銭で来た者に、下知は利かぬ。利くのは、銭を配る手のうちにある者だけである。


 ――今日、要るのは、駆ける者ではない。


 座っていられる者である。


 昼を過ぎてから、山を下りてきた者が三人あった。


 谷の口の手前まで来て、座っている四百を見て、荷を担ぎ直して引き返していった。


 止めはしなかった。止めれば、追われたことになる。


 ――今日は、誰も下りられぬ。


 勘助は、石を下りた。


 下りて、道から一段上がった段へ回った。


    *


 勘助は、その家の土間に立っていた。


 藁を厚く葺いた低い家で、戸のかわりに莚が垂らしてある。


 囲炉裏に、火が無い。


 灰は掻き均してあり、自在鉤じざいかぎは上へ巻き上げてあった。土間の隅に葛籠つづらが二つ、口を閉じて置いてある。梁から吊るしてあった干し菜も、大根も、無い。


 冷えた灰の匂いだけが、家じゅうに残っていた。


 平群孫六は、その灰の前に胡坐をかいている。


 この谷の名主なぬしであり、麓から城へ人足を出す役でもあった。木沢の城普請と、去年の笠置の城の修築とで、この谷は田を二枚潰されている。人足に取られた孫六の弟は、笠置で落ちてきた石に当たって死んだ。


 「――谷は、逃げるか」


 「逃げる」


 「いつじゃ」


 「子らは、ゆうべ下ろした」


 孫六は、手の甲を見ていた。乾いた土が、指の付け根のあたりに白く筋になって付いている。それを親指の腹で削り落としながら、言う。


 「城が焼ければ、こっちが焼ける」


 「風か」


 「谷へ、吹き下ろす」


 「焼けたあとは」


 孫六の指が、そこで止まった。


 「……また、建てる」


 止めたまま、続けた。


 「建てりゃ、普請じゃ。普請は人足で、人足は谷から出る。道を通すと言うて、田が減る。……去年で、二枚じゃ」


 削るのを、また始めた。


 「笠置の普請で、弟が死んだ」


 灰を見たまま、そう言うた。


 「上から石が落ちた。積んでおったのは、うちの谷の者じゃ。……人足を出せと言うたのは、あの城よ」


 「……名は」


 「太郎助」


 削る手が、速くなった。爪の先が皮を擦って、白い筋のところが赤くなっている。


 「弔いには、誰も来ん」


 速さは、そこで止まった。


 義理でも、恨みでもない。この谷の男が城を惜しむとすれば、理由はそれだけであった。城は誰の物でもよい。谷は、俺の物だ。


 この家へ来るのは、初めてではない。


 初めは、まだ牢人であったころである。九年の牢人暮らしの、七年目であった。井堰の一件を見た日の暮れに、宿を探して谷を端から端まで歩き、この家に泊めてもらった。芋を食わせてもらい、銭は受け取ってもらえず、名は訊かれなかった。


 二度目が、二月ふたつき前の、雪の残る時分。多田の坑木を検分する、という名目であった。


 名目は、嘘ではない。吉野と大和の杉檜は摂津の間歩に要る。要るが、勘助が谷を歩いた本当の用は、木沢の名がいつ退くかを己の目で見ることであった。


 殿には、そのことを申し上げていない。


 あのとき孫六は、土地をくれ、と言った。谷の田を俺のものと書いた紙をくれ、そしたら聞く、と。


 ――土地は、無い。


 勘助は、そう答えた。答えたところで、己の口から名主職が出たのである。


 誰にも、諮っていなかった。


 「――名主職は、そのままじゃ」


 「そのまま、とは」


 「いまのままということよ。木沢が退いても、次に誰が来ても、この谷の名主は孫六じゃ。誰も、動かさぬ」


 「去年も、そう言われた」


 孫六は、灰を見たままそう言った。城の者に、である。


 「田は潰さん、道を通すだけじゃと言われた。道が通ったら、田が要らんようになった」


 「……」


 「侍の言うことは、当てにならん」


 「なれば、紙に書く」


 「紙も、当てにならん」


 「当てにならんものを、懐へ入れておけ」


 孫六は、はじめてこちらを見た。


 見て、それから鼻から息を出した。笑ったのかもしれぬ。


 勘助は、懐から誓紙せいしを出した。


 一枚である。折らずに持ってきたので、少し反っていた。表にはからすの形が並べて刷ってあり、その裏が白い。熊野の牛王宝印ごおうほういんという護符で、この裏へ約束を書く。書いて破れば、神罰がかかる。


 武家の約束は口だけでは通らず、この一枚があってはじめて相手が動くものであった。


 筆と、墨を借りた。墨は擦り減って、指の腹ほどしか残っていない。


 書いた。


 平群谷の名主職を、そのままに置くこと。田を潰さぬこと。道を通すために、田を潰さぬこと。


 二度、同じことを書いた。二度書けば、一度目が言い落としであったとは言わせぬからである。


 末に、神々の名を並べた。梵天ぼんてん帝釈たいしゃく、四大天王、日本国中六十余州の大小神祇、熊野三所権現――破れば罰の当たる相手の名である。


 その下へ、年号と月日を書いた。天文十一年三月十八日。


 さらにその下へ、己の名を書いた。


 名の下を、空けた。


 主の花押かおうを据えるところである。据える者は、いま河内の野から出て行ってしまっていた。


 いちばん左へ、宛所を書く。平群孫六どの、と書いた。


 これで、起請文になる。


 勘助は、杖を左の脇へ挟んだ。


 両手が、空く。


 「――これじゃ」


 両手で差し出した。


 孫六は、受け取らなかった。受け取る前に、また手の甲の土を削った。削り終えてから、両の掌を膝で拭って、それから受け取った。


 紙を、目の高さまで上げる。


 上げたまま、動かない。


 「……読めん」


 「読まいでよい」


 「読めんもんを、どう信じる」


 「烏を見よ」


 孫六は、紙を裏返した。烏の並びを、しばらく見ていた。


 それから、折った。


 二つに折り、また二つに折り、折り目のところを親指の爪でしごいて、もう一度しごいた。四度、爪を当てたことになる。


 懐へ入れる。


 入れてから、はじめて顔を上げた。


 「城へは、いつ行く」


 「今日じゃ」


 「今日か」


 「日の落ちてから、油の栓を抜くと申しつけてあるそうな。抜かれてしまえば、あとは火を落とすだけよ」


 「落ちてすぐには、抜かん」


 孫六が、そう言った。


 「二百が下りきってからじゃ。荷を担いで坂を下るのに、しまいの一人まで一刻はかかる」


 「――一刻」


 「そのくらいは、かかる」


 「なら、日の落ちる前に入るのか」


 「落ちてからでよい」


 孫六の指が、そこで止まった。


 「――柴は、生木か」


 「生木じゃ。刈ったのは昨日と今日よ。乾いたのは、去年のうちに焚いてしもうた」


 「露は、いつ置く」


 孫六が、こちらを見た。


 見てから、土を削る手を止めた。


 「……日の落ちて、一刻いっときほどじゃ」


 「毎晩か」


 「この時分は、毎晩よ。夜のうちに置いて、日の高うなるまで乾かん」


 「生木に、露が置けば」


 「……油を倍にせんと、点かん」


 城の者は、知らぬ。


 露の置く刻限を毎晩見ているのは、草を刈る側である。城の者は、草を刈らない。


 「――日の落ちてから、一刻」


 勘助は、それだけを言った。


 孫六は、うなずいた。


 「搦手からめては、水の道から上がる」


 「幾人、通る」


 「二十なら、通る。それより多いと、石が鳴る」


 「石が鳴れば」


 「上から見える」


 「二十でよい」


 勘助は、そこで一つ訊いた。


 「油の樽は、幾つ上げた」


 「七つじゃ」


 「申しつけられたのは」


 「十よ。あとの三つは明日でよいと、宿老が言うたそうな。……谷にもう油が無い。堺から回るのは、明日になる」


 勘助は、しばらく黙った。


 「……その三つを、今日上げる」


 「油は無い。谷に、そんなものは無い」


 「空樽は」


 「空きなら、ある。去年の普請で上げた分が、四つ」


 「三つでよい。水を入れよ」


 「水」


 「口まで入れて、栓を締めよ。半端に入れると、中で動く。動けば、音が違う」


 孫六は、こちらをしばらく見ていた。


 「……担いだら、重いぞ」


 「重いほうがよい」


 油の樽を担いだ者の歩きかたは、上から見ている者が知っている。軽ければ、そこで見咎められる。膝の曲げようまでは、こちらで指図できぬ。


 城の者は、樽を十と数えることになる。


 数えて、足りたと思う。思ったまま、日を落とす。


 落ちれば、露が置く。露の置いた生木を点けるのに、油は七つでは足り申さぬ。


 ――足らぬと分かるのは、栓を抜いたあとである。


 「四百は」


 孫六の目が、はじめて動いた。


 谷の口の一部始終を、この男は見ている。田の畦から、しまいまで見ていた。


 「動かさぬ」


 「……なぜ、連れてきた」


 「置いてくれば、勝手に働く。あれは銭で結ばれた者どもじゃ。銭のほかに従うものが無い。目の届くところに置いて、動くなと言うておくのが、いちばん安い」


 「城を攻めるのではないのか」


 「四百で、山城は落ちぬ」


 勘助は、そう言った。


 去年の秋、摂津の一庫という城を三千六百で囲んで、四十七日かけて落ちなかった。囲んでいたのは、こちらである。


 「攻めれば、火がかかる。攻められた城は、焼く。……焼かせぬために来て、焼かせるのでは、話にならぬ」


 「では、何をしに行く」


 「話をしに行く」


 孫六は、それきり何も言わなかった。


 言わずに、懐のあたりを一度押さえた。


 この家では、二月前に芋が出た。皮つきのまま灰から掘り出したのを、片手で受けて食うた。牢人であったころも、同じものが出た。あのときは、銭を置こうとして、要らんと言われた。


 今日は、灰が冷えている。


 (――もう、客ではない)


    *


 日の傾くころに、水の道を上がりはじめた。


 沢というほどの水ではなく、岩の窪みに溜まったものが下の岩へ落ちてまた溜まり、その落ちる音が、上がってゆくあいだじゅう耳の高さにあった。


 音があるということは、こちらの足音も消えるということである。


 その水音を聞きつつ、二十人が縦に伸びて上がっていった。勘助と孫六を入れて、二十である。暗いなかで担ぎ棒の先だけが上下しているのは、麓から城へ柴を上げる人足の列と、遠目には変わらぬはずであった。うち六人が、二人がかりで樽を担いでいた。三つである。谷の水を口まで入れて栓を締めてあり、担ぎ棒がしなるほどには重い。


 次郎太は三番目にいて、勘助の杖の先を見ながら足を置いている。片足の利かぬ者の後ろを歩くのは、慣れぬ者には難しい。


 「……二十で、何をなされる」


 と、次郎太が下から訊いた。


 「城の者は、二百を超えており申そう」


 「二百は、荷を担いでおる」


 「担いでおっても、槍は取れまする」


 「取らせぬために、二十で行く」


 勘助は、前を向いたまま答えた。


 「四百で門を叩けば、城は戦になる。戦になれば焼く。……二十なら、戦にならぬ。二十では、誰も攻められたと思わぬ」


 次郎太は、それきり訊かなかった。


 岩を三つ越え、根の張り出したところを回り込むと、上に木戸が見えた。


 搦手である。二の曲輪くるわの下に、人が二人立てるほどの平らがあり、そこへ木の扉が一枚嵌めてあった。城の裏口で、ふだんは水を汲みに下りるほかに使い道がない。


 孫六が、先に立った。


 立ったところで、上から松明が下りてきた。


 「――誰ぞ」


 声は若い。まだ声変わりの済んでいない者の声であった。


 松明が、下へ突き出される。


 火の輪の中に、勘助の顔が入った。片方が潰れている。潰れた目は、火を映さない。


 「……その顔は」


 次郎太の手が、腰へ行った。


 勘助は、杖の先でその足の甲を軽く押さえた。押さえられて、次郎太の手が止まる。


 松明が、動かない。


 上の平らに、もう一人いる気配があった。二人である。二人なら、片方が走る。走られて城の中で騒がれれば、その騒ぎが火を呼ぶ。


 「――孫六じゃ」


 と、孫六が言った。


 声を張らない。谷で人を呼ぶときの、下から上へ通す出しかたであった。


 「平群の、孫六じゃ。人足の頭よ」


 「……油は、もう上げたぞ」


 「上げたのは、七つじゃ。十と申しつけられておる」


 松明の火が、少し上がった。持ち手が、顔を寄せたのである。


 「三つ、足らんのか」


 「足らん。谷の者に担がせて来た」


 「――そんな話は、聞いておらぬ」


 「聞いておらんのは、そっちの都合じゃ」


 孫六は、そこで一歩上がった。


 上がりざま、手の甲を親指で削る。上の者からは、それがよく見えたはずであった。荷を担いできた男の手である。


 「日の落ちてから抜く、と申しつけられておろう。抜くころに足らんかったら、誰が叱られる」


 松明が、少し引いた。


 「……その三つは」


 「後ろじゃ」


 樽が、上がってきた。


 六人が二人がかりで担ぎ棒に吊るしたのを、平らのところで肩から下ろす。下ろした音が、石に響いた。


 松明が、そちらへ向いた。向いて、持ち手が身を屈め、手を伸ばして胴を一つ叩いた。


 詰まっている音がした。


 「……上がれ」


 木戸のかんぬきが、外から抜かれた。


 二十人が、順に上がっていく。松明を持った若い者は、初めの五人ばかりは顔を一つずつ見ていたが、樽が通ったあとは見るのをやめた。数えるのも、やめている。


 最後に上がった次郎太が、勘助の脇へ来て、低く言った。


 「……あの口が利かなんだら、どうなされた」


 「戻った」


 「戻る、と」


 「城を焼くのは、明日でもよい。拙者の首は、今日で終いじゃ」


 次郎太は、杖の先へ目を戻した。


 二の曲輪へ出ると、匂いが変わった。


 油である。


 蔵の前に、柴が積んである。生木で、切り口がまだ白い。その脇に樽が並び、栓を抜くための木槌が一つ、樽の上に置いてあった。


 人は、少ない。


 荷を、下ろしているのである。長持を二人がかりで担いで坂を下る者があり、俵を背負って下りる者があり、その脇を空の背負子で上がってくる者があった。


 一族の衆は、大和の二上山へ寄る。家中の者は、在所へ帰る。麓の者は、麓へ下りる。


 城の者が、それぞれの行き先へ散っていく途中であった。


 板場の前を通った。


 男が一人、地べたに釜を置いて、竹の箆で底を擦っている。擦っては湯を捨て、また湯を張って擦っていた。


 (――焼く釜であろうに)


 通り過ぎかけて、勘助は足を止めた。


 竈が、二つある。


 一つは空いていた。もう一つに小鍋が掛かったままで、そちらの灰だけが別に掻き出され、板の上へ寄せてある。同じ板場の、同じ屋根の下で、灰を混ぜていない。


 (――火を、分けておる)


 それだけ見て、歩き出した。


 去年の神無月、明智の若いのにこう言うたことがある。


 ――名が、退けば。翌日から、聞き申さぬ。


 この城の主は、昨日、河内で死んだ。


 死んで一日で、城の者は蔵を空けている。誰かが焼けと下知したわけではない。皆が、そう決まっていると思って動いているだけであった。


 (――そのとおりになった)


 当てたことを、うれしいとは思わなかった。


 柴の山の前に立つ。


 積み方が、丁寧であった。太いものを下に、細いものを上に、風の抜ける隙間まで空けてある。


 「……よう積んでござる」


 と、次郎太が言った。


 「燃やすために積んだ山は、見れば分かり申す」


 「分かるか」


 「銭で小屋を焼いたことなら、幾つもござる。あれは、燃えぬように積んでは銭にならぬ」


 ――ここまで、誰も止めておらぬ。


 勘助は、杖の先で樽の腹を一つ叩いた。


 油は、鳴らなかった。詰まっている音である。


 ――七つ。


 あと三つは、水である。


 城はこれを十と数え、十で足りると思ったまま、日を落とした。


■用語解説

曲輪くるわ…城の中を土塁や堀で区切った、平らな一区画。本丸・二の丸にあたるものを、当時は一の曲輪・二の曲輪と呼んだ。山城では尾根を削って段に作るため、上の曲輪ほど狭い。

誓紙せいし…神仏に誓う約束を書きつけるための紙。多くは社寺の出す護符の裏を用い、これに書いた約束を破れば罰が当たるとされた。ただ「誓紙を取る」といえば、書かせて受け取ることをいう。

起請文きしょうもん…誓紙に書いた、約束を破らぬという証文そのもの。誓う側が差し出すもので、前書に約束の中身、末尾に神々の名を並べて罰を請い、年月日・署名・花押・宛所を添えた。

牛王宝印ごおうほういん…熊野をはじめとする社寺が出した護符。烏の形を並べて刷った紙で、その裏に起請文を書くのが習いであった。神の紙に書くことで誓いに罰がかかると考えられ、書いたあと護符を焼いて水に混ぜ、飲む作法もあった。


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