↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/126

第24話(一)「一庫、落つ」

 ――天文十一年(一五四二年)弥生(三月)十七日の夜である。


 月は、雲の内にある。


 河内の野を出て、道は北へ折れた。折れてからは低い山の裾をずっと巻いている。先を行く道の者の松明が二つ三つ、闇に浮いては、また消えた。


 土の、匂い。


 昼のうちに雨は降っていない。それでも夜になると土は湿り、踏むたびに柔らかく沈む。


 松永長頼は、その匂いの中を歩いていた。


 「――幾人に、なり申した」


 右目の下に古い傷のある男が、後ろから並んできた。家の者の頭である。去年もこの谷にいた。


 「百四十二」


 「去年は」


 「三千六百じゃ」


 頭は、笑わなかった。笑うところであったが、笑わなかった。


 「……足りましょうか」


 「足りる」


 それきりであった。


 兄――松永久秀は、余計なことを言わぬ人である。


 連れてゆくは、家の者だけじゃ。城は焼くな。蔵も焼くな。あとは、そなたが決めよ。


 下知は、それだけであった。理由は、付いていない。


 女子供はいかがなされます、と訊いたのは、この頭である。


 馬上の兄は、こちらを見もしなかった。


 「二度は、申さぬ」


 それきりであった。


 ――決めよ、と申された。


 訊かなかった。知る用が、ないからである。


    *


 ふた刻ほど歩いて、道の脇へ寄った。


 干飯ほしいいを出す。


 「噛むな、と申しつけてござる」


 「なぜじゃ」


 「噛めば、水を欲しがりまする。唾で戻るのを、待たせておりまする」


 待たずに飲み込む者もあり、飲み込んだ者のほうが、あとで水を欲しがった。


 長頼は、懐から紙を出した。


 折り目が深い。長いこと畳んだままにしてあった紙で、開くと折り目のところだけ墨が薄くなっている。


 「松明を、近う」


 道の者が膝をついて、火を紙の上へ差し出した。


 城の段が三つ。切岸。堀切。そして二の木戸から上へ、細い線が一本。


 「この道は」


 「二人並べば、肩が触れまする」


 去年、陣幕の卓の上で同じ線を見た。皆で見た。見て、それから退いた。


 あの紙には、線が一本しか無かった。


 この紙には、もう一本ある。


 「では、こちらは」


 麓のほうから山の腹を回り、切岸の脇へ抜けている。字は無い。ただ線だけが細く引いてあった。


 道の者が、火を近づけた。


 「……間歩まぶへ通う道にござります」


 「城の者は」


 「使いませぬ。使う用が、ござりませぬゆえ」


 この線を引いた男は、去年、麓を歩いていた。


 長頼は、紙を畳んだ。


 畳んで、懐へ戻した。


 道は、二本ある。


 だが、木戸は開かぬ。開ける手は、この紙に書いていなかった。


    *


 寅の刻である。


 谷の口の手前で、火が一つ点いた。


 闇のなかに、それだけである。


 ――ここまで、消して来たか。


 河内から一晩、火を持たずに歩いた者どもである。落武者狩りは、松明を目当てに人を選び、具足の値で値を付ける。


 点けたということは、ここを己の谷と思うたのである。


 近づくと、匂いが先に来た。


 沢の水と、汗と、膏薬と、それから血である。血は乾いて、鉄の錆に近い匂いに変わっていた。


 腰から下が、どれも濡れている。追う者を撒くのに、沢はいちばん確かで、いちばん足を潰す。


 二十か三十。数えるほどもなかった。


 旗が一本。真ん中に戸板が一つあって、四人がかりで担いでいる。担ぎ手の足が、揃っていない。


 具足は、着ている。捨てなかったのである。


 「……殿を、先へ」


 誰かが、そう言った。


 「担いで、どこへ行く」


 「木戸まで、あと半里じゃ」


 「半里が、遠い」


 「置いていけと申されたのは、殿ぞ」


 「聞かぬ」


 それきり、誰も言わなかった。


 ――聞かぬ、か。


 長頼は、手を上げた。


 後ろが左右へ割れ、火の輪を外から包んでいく。


 誰何すいかが、飛んできた。


 「――何処いずこの」


 声が、低い。一晩、声を出さずに来た者の喉である。大きくは、出せない。


 長頼は、答えなかった。


 答えれば、話が要る。


 気づかれた。


 気づかれてよかった。逃げられる道は、もう塞いである。


 戸板の前に、一人が立った。


 槍を持っている。腕に巻いた血止めの布が、膏薬の匂いをさせていた。主を運んできた手である。


 この男だけが、まともに立っていた。


 「……退かれよ」


 長頼も、槍であった。


 三歩。


 相手の穂先が、膝の高さにある。低い。下から突き上げてくる構えであった。


 動かない。


 じりじりと、間だけが詰まっていく。


 こちらも、動かなかった。


 ――出られぬのか。


 出られぬのではない。出れば、戸板が空く。この男は、動けぬ場所に立つと決めている。


 後ろで、家の者が回り込もうとした。


 長頼は、手の甲でそれを止めた。


 囲んで槍を入れれば、それで済む。


 済ませなかった。


 理由は、あとで考えればよい。この男は、先に手が動いてから理由がつく。


 草鞋が、土を噛んだ。


 「たあっ!!」


 噛むより早く穂が伸びてきて、長頼は退かずに己の穂をその上へ乗せ、乗せたまま滑らせざま、伸びきって開いた左の脇の下へ入れた――入れたはずであった。


 穂先が、逸れた。


 濡れた胴を滑って、脇を掠めただけである。沢の水が、この男を一度だけ生かした。


 返す穂が、来た。


 速い。手負いの主を担いで一晩歩いた男の出す速さではない。


 「――ぬっ」


 柄で受けた腕に痺れが走り、長頼は一歩だけ退がって、退がりざま、はじめて息を吸った。


 ――恐れておるな。


 恐れがこの男の速さを一つ上げているが、上げたものは続かぬ。一晩を歩き通した腕は、二合で上がらなくなる。


 三合目は、待った。


 案の定、穂先が下がった。


 「鋭!!」


 下がったところへ穂を乗せ、乗せたまま滑らせざま、二合目と同じ脇の下へ入れた。


 「ぐ……」


 膝が、落ちた。


 落ちてなお柄から指の離れぬ男の肩を足で押さえつつ穂を抜くと、抜けたところから血が土へ落ちている。


 男は、戸板のほうを見ようとした。


 見ようとして、首がそこまで回らなかった。


 谷の水の音が、戻ってきた。


 あとは、家の者がやった。


 「応!!」


 「――ぬっ!!」


 声と、鉄の当たる音と、それから静かになった。


 半分は、槍を構えもしなかった。


 「二十二」


 書役でもない者が、そう言った。長頼は聞いて、うなずいただけである。


 長頼の槍に、余計な一手が無い。突くのは布しかないところばかりで、深く入れずとも人は立てなくなる。穂も、傷まぬ。


 戸板のほうで、槍を構えている者があった。若い。腕が、震えている。


 「……殿を、いかがなされる」


 「生かせ」


 「――まことか」


 「二度は、申さぬ」


 柄で、その槍を叩き落とした。


 落として、それきり見なかった。戸板の上に何が乗っているかも見ていない。見る用が、無い。


 己の槍は、家の者に持たせた。戸板の脇に、主の槍が転がっている。拾って、担いだ。


 旗を立てさせる。


 塩川の具足を剥いで、家の者に着替えさせた。二十二のうち、着られる形で残ったのは十四である。あとの六人は、旗と、戸板と、松明を持つ役に回した。


 血の匂いは消えぬが、夜であれば、それが誰の血かまでは分からない。


 「白い布を出せ」


 配らせた布を、家の者は右の袖へ結んだ。塩川の具足を着る十四人には、結ばせずに懐へ入れさせる。


 「……結んでは、なりませぬか」


 頭が、訊いた。


 「木戸の内で結べ」


 「内で結ぶ暇が、ござりましょうか」


 「無ければ、死ね」


 頭は、うなずいた。


 「二十は、己と」


 長頼は、山のほうを指した。


 「残りは、山を回れ。上の切岸の脇へ出る道がある」


 「百二十二、にござるか」


 「そうじゃ」


 「声が上がるまでは」


 「出るな」


 「声とは」


 「聞けば、分かる」


 「……分からなんだら」


 「分かる」


 訊く者は、それきりいなかった。


    *


 麓の館の木戸は、閉まっていた。


 旗を先に立てさせる。


 「――開けい! 開けい!」


 「殿が、御危急じゃ! 金瘡医きんそういを、早う!」


 叫ばせたのは、長頼である。


 数えられるより、慌てられるほうがよい。


 木戸の内で、人の走る音がした。


 かんぬきが鳴る。


 だが、開かない。


 木戸番が、上から松明を突き出した。老いた足軽である。


 突き出したまま、それを上げ下げして、松明の数を数えはじめた。


 ――数えるか。


 「……出られたときは、幾人でござった」


 「知らぬ」


 「三十と、聞いておりまするが」


 二十二を、谷の口へ置いてきている。


 「幾人でも、よかろう」


 「よくは、ござりませぬ」


 「河内じゃ」


 長頼は供の顔をして、そう言った。


 木戸番の手が、止まった。


 河内、の一言で足りた。昨日の昼、あの野で何があったかは、この谷にも届いている。届いていて、まだ誰も数を聞いていない。


 「……わしの倅も、河内へ出ておりまする」


 誰も、答えなかった。


 「三郎と申しまして。旗を持つ役を、いただいておりました」


 旗は、長頼の後ろで立っている。


 「……開けい」


 木戸が、内へ引かれた。


 館の前に、三人ばかり出てきていた。一人が灯を掲げて、戸板のほうへ寄ってくる。


 「殿は」


 「口を、きけぬ」


 「……いつからじゃ」


 「河内を出てより」


 「一晩、お声を出されぬのか。それは」


 答えなかった。答えれば、答えた者の声が残る。


 「……お顔を、拝ませていただく」


 灯が、下りてくる。


 戸板の上の男は、目を開けている。


 動いたのは、担ぐ二人であった。片方が持ち手を替えるふりをして、板を半分だけ回した。灯の側へ、傷の側が向く。


 布が、黒い。


 「……ああ」


 灯が、引いた。


 「金瘡医を、呼べ」


 「……おりませぬ」


 「薬師じゃ。谷の下の。走れ」


 誰かが、走っていった。


    *


 館を抜けると、道は上りになる。


 両側が切岸で、削られた土が新しい。掻き直したのは去年の夏であろう。上へ行くほど道は細り、二人並べば肩が触れた。


 去年、千四百がこの道を押した。三日かけて、二の木戸の下までであった。


 いま、二十人が上っている。


 担ぐ二人は、息を殺さない。わざと荒く吐いていた。手負いを運ぶ者の息である。片方が途中で持ち手を替えた。重いのではない。掌が、汗で滑るからであった。


 二の木戸の下で、上から声が降ってきた。


 「――そちらは、誰ぞ」


 この谷の者の言いようは、言葉の尻が伸びる。


 長頼は、口を開いた。


 「――殿を、お連れ申したァ」


 上が、黙った。


 「……手負いは、殿おひとりか」


 「あとは、河内じゃ」


 黙った。


 戸板の上の男は、意識がある。一声出せば、それで終わる。


 喉が、鳴った。


 鳴っただけであった。


 閂の外れる音がして、二の木戸が、内から開いた。


 人が、寄ってきた。


 主のまわりへ、ひと息に寄る。名を呼ぶ者があり、灯を掲げる者があり、板の下へ手を差し入れようとする者があった。木戸の内は猫の額ほどの平らしかない。そこへ二十人と、寄ってきた者どもが、いっぺんに詰まった。


 詰まったまま、家の者は袖へ手をやっている。


 懐の布を出して、結ぶ。


 結べぬ者は、結べぬままであった。


 上のほうで、声が上がった。


 切岸の脇である。


 城の者の顔が、そちらへ向いた。向いた首の、その向いた分だけ、こちらが空く。


 ――蔵は、下じゃ。


 館も、下である。玉は、下へは投げられぬ。


 長頼は、後ろへ手を上げた。


 縄が鳴り、玉が、寄っている者どもの奥へ落ちた。


 音は、もう聞こえていない。


 耳の奥で、細い音が一つ鳴りつづけているだけであった。


 硝の焦げた匂いが、鼻の奥へ来た。


 人が散る。散りきってはいない。玉一つで散らせる広さではなかった。


 長頼は、槍を繰り上げた。


 柄を送って、けらけらくびの下を握る。穂から先が、腕一本の長さになった。短く持てば、刀と同じ間合いになる。ただし穂は、刀より重い。


 この槍は、戸板の上の男のものであった。


 正面に、具足の立派な男がいる。留守居の主将であろう。口が動いた。


 「その具足は」


 「――鋭!!」


 言いかけた口へ穂が入り、抜くと同じ息で右から来た刀を柄で外し、外した手をそのまま押し出して胴の下へ入れた。


 狭い。


 「や、やあ!!」


 猫の額ほどの平らへ倒れた者が二つ増えて足の置き場が変わり、踏んだ土の動いたところへ次が上から来て、柄で受けたその受け場所が悪く、柄ごと腕が下がった。


 下がったところへ、また一人が入ってくる。


 ――間に合わぬ。


 肩に、当たった。


 具足が己のものではないゆえ当たりが逃げず、そのまま骨まで来た。


 「ぐ……」


 声が出たのはこちらであり、出したまま、退がる場所の無い長頼は前へ出た。


 相手の胸へ肩から入りつつ、押し倒したところへ膝を落として、けら首の下を握ったまま喉へ入れる。


 横から家の者の穂が伸びてきて、長頼の脇を掠めて別の一人を突いた。


 十四人と、切岸の脇から降りてきた者どもが、狭いところで一緒くたに働いている。誰が誰を突いているのかは、分からない。


 城の者にしてみれば、何が起きたのか分からぬ。


 誰も、名を呼ばなかった。


 呼ぶ名が、分からなかったのである。


 山を回った者どもが、切岸の脇から次々に落ちてきている。


 あれは布を結んでいる。こちらは、塩川の具足である。


 白い布が、白くない。血を吸って、袖の色と見分けがつかなくなっていた。


 長頼は、受けたまま右の腕を上げた。


 ――見えぬなら、それまでである。


 相手の目が、袖のあたりで止まった。


 声は出さない。出しても、こちらの耳には入らぬ。


 戸の内が、静かになった。


 主が帰ってきた。人が寄った。上で声が上がった。それから音のせぬ光が一つ落ちて、耳が聞こえなくなった。聞こえぬまま、味方の顔をした者が槍を短く持って入ってきていた——城の者にそれが分かったのは、あとになってからである。


 「――九つ」


 誰かが、そう数えた。


 息が、上がっている。


 肩が、上がらない。


 具足が己のものではないので、動くたびに胴と草摺くさずりの継ぎ目が肌を挟んだ。挟まれるたび、肩の奥のほうが鳴る。


 木戸の外で、まだ誰かが走っている。


 夜が、白みはじめていた。


■用語解説

合印あいじるし…戦場で味方を見分けるために、あらかじめ決めておく目じるし。袖や笠に布を結ぶ、旗の指物を揃えるなど、家ごと・その戦ごとに決めた。夜討ちや、敵の具足を着て入るときには、これが無いと味方に討たれる。

・寅のとらのこく…いまの午前三時から五時ごろ。夜のいちばん深いところを過ぎ、東の空が白みはじめる前の刻限にあたる。夜討ちはこの刻限に仕掛けるものが多かった。人の眠りがいちばん深く、なお明るくなるまでに片がつくからである。

・けらけらくび…槍の穂と柄との継ぎ目の部分。ここを握れば槍は短く持てる。狭いところで長物を使うときの扱いで、短く持てば刀と同じ間合いになるが、穂のぶんだけ刀より重い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。