第24話(一)「一庫、落つ」
――天文十一年(一五四二年)弥生(三月)十七日の夜である。
月は、雲の内にある。
河内の野を出て、道は北へ折れた。折れてからは低い山の裾をずっと巻いている。先を行く道の者の松明が二つ三つ、闇に浮いては、また消えた。
土の、匂い。
昼のうちに雨は降っていない。それでも夜になると土は湿り、踏むたびに柔らかく沈む。
松永長頼は、その匂いの中を歩いていた。
「――幾人に、なり申した」
右目の下に古い傷のある男が、後ろから並んできた。家の者の頭である。去年もこの谷にいた。
「百四十二」
「去年は」
「三千六百じゃ」
頭は、笑わなかった。笑うところであったが、笑わなかった。
「……足りましょうか」
「足りる」
それきりであった。
兄――松永久秀は、余計なことを言わぬ人である。
連れてゆくは、家の者だけじゃ。城は焼くな。蔵も焼くな。あとは、そなたが決めよ。
下知は、それだけであった。理由は、付いていない。
女子供はいかがなされます、と訊いたのは、この頭である。
馬上の兄は、こちらを見もしなかった。
「二度は、申さぬ」
それきりであった。
――決めよ、と申された。
訊かなかった。知る用が、ないからである。
*
ふた刻ほど歩いて、道の脇へ寄った。
干飯を出す。
「噛むな、と申しつけてござる」
「なぜじゃ」
「噛めば、水を欲しがりまする。唾で戻るのを、待たせておりまする」
待たずに飲み込む者もあり、飲み込んだ者のほうが、あとで水を欲しがった。
長頼は、懐から紙を出した。
折り目が深い。長いこと畳んだままにしてあった紙で、開くと折り目のところだけ墨が薄くなっている。
「松明を、近う」
道の者が膝をついて、火を紙の上へ差し出した。
城の段が三つ。切岸。堀切。そして二の木戸から上へ、細い線が一本。
「この道は」
「二人並べば、肩が触れまする」
去年、陣幕の卓の上で同じ線を見た。皆で見た。見て、それから退いた。
あの紙には、線が一本しか無かった。
この紙には、もう一本ある。
「では、こちらは」
麓のほうから山の腹を回り、切岸の脇へ抜けている。字は無い。ただ線だけが細く引いてあった。
道の者が、火を近づけた。
「……間歩へ通う道にござります」
「城の者は」
「使いませぬ。使う用が、ござりませぬゆえ」
この線を引いた男は、去年、麓を歩いていた。
長頼は、紙を畳んだ。
畳んで、懐へ戻した。
道は、二本ある。
だが、木戸は開かぬ。開ける手は、この紙に書いていなかった。
*
寅の刻である。
谷の口の手前で、火が一つ点いた。
闇のなかに、それだけである。
――ここまで、消して来たか。
河内から一晩、火を持たずに歩いた者どもである。落武者狩りは、松明を目当てに人を選び、具足の値で値を付ける。
点けたということは、ここを己の谷と思うたのである。
近づくと、匂いが先に来た。
沢の水と、汗と、膏薬と、それから血である。血は乾いて、鉄の錆に近い匂いに変わっていた。
腰から下が、どれも濡れている。追う者を撒くのに、沢はいちばん確かで、いちばん足を潰す。
二十か三十。数えるほどもなかった。
旗が一本。真ん中に戸板が一つあって、四人がかりで担いでいる。担ぎ手の足が、揃っていない。
具足は、着ている。捨てなかったのである。
「……殿を、先へ」
誰かが、そう言った。
「担いで、どこへ行く」
「木戸まで、あと半里じゃ」
「半里が、遠い」
「置いていけと申されたのは、殿ぞ」
「聞かぬ」
それきり、誰も言わなかった。
――聞かぬ、か。
長頼は、手を上げた。
後ろが左右へ割れ、火の輪を外から包んでいく。
誰何が、飛んできた。
「――何処の」
声が、低い。一晩、声を出さずに来た者の喉である。大きくは、出せない。
長頼は、答えなかった。
答えれば、話が要る。
気づかれた。
気づかれてよかった。逃げられる道は、もう塞いである。
戸板の前に、一人が立った。
槍を持っている。腕に巻いた血止めの布が、膏薬の匂いをさせていた。主を運んできた手である。
この男だけが、まともに立っていた。
「……退かれよ」
長頼も、槍であった。
三歩。
相手の穂先が、膝の高さにある。低い。下から突き上げてくる構えであった。
動かない。
じりじりと、間だけが詰まっていく。
こちらも、動かなかった。
――出られぬのか。
出られぬのではない。出れば、戸板が空く。この男は、動けぬ場所に立つと決めている。
後ろで、家の者が回り込もうとした。
長頼は、手の甲でそれを止めた。
囲んで槍を入れれば、それで済む。
済ませなかった。
理由は、あとで考えればよい。この男は、先に手が動いてから理由がつく。
草鞋が、土を噛んだ。
「たあっ!!」
噛むより早く穂が伸びてきて、長頼は退かずに己の穂をその上へ乗せ、乗せたまま滑らせざま、伸びきって開いた左の脇の下へ入れた――入れたはずであった。
穂先が、逸れた。
濡れた胴を滑って、脇を掠めただけである。沢の水が、この男を一度だけ生かした。
返す穂が、来た。
速い。手負いの主を担いで一晩歩いた男の出す速さではない。
「――ぬっ」
柄で受けた腕に痺れが走り、長頼は一歩だけ退がって、退がりざま、はじめて息を吸った。
――恐れておるな。
恐れがこの男の速さを一つ上げているが、上げたものは続かぬ。一晩を歩き通した腕は、二合で上がらなくなる。
三合目は、待った。
案の定、穂先が下がった。
「鋭!!」
下がったところへ穂を乗せ、乗せたまま滑らせざま、二合目と同じ脇の下へ入れた。
「ぐ……」
膝が、落ちた。
落ちてなお柄から指の離れぬ男の肩を足で押さえつつ穂を抜くと、抜けたところから血が土へ落ちている。
男は、戸板のほうを見ようとした。
見ようとして、首がそこまで回らなかった。
谷の水の音が、戻ってきた。
あとは、家の者がやった。
「応!!」
「――ぬっ!!」
声と、鉄の当たる音と、それから静かになった。
半分は、槍を構えもしなかった。
「二十二」
書役でもない者が、そう言った。長頼は聞いて、うなずいただけである。
長頼の槍に、余計な一手が無い。突くのは布しかないところばかりで、深く入れずとも人は立てなくなる。穂も、傷まぬ。
戸板のほうで、槍を構えている者があった。若い。腕が、震えている。
「……殿を、いかがなされる」
「生かせ」
「――まことか」
「二度は、申さぬ」
柄で、その槍を叩き落とした。
落として、それきり見なかった。戸板の上に何が乗っているかも見ていない。見る用が、無い。
己の槍は、家の者に持たせた。戸板の脇に、主の槍が転がっている。拾って、担いだ。
旗を立てさせる。
塩川の具足を剥いで、家の者に着替えさせた。二十二のうち、着られる形で残ったのは十四である。あとの六人は、旗と、戸板と、松明を持つ役に回した。
血の匂いは消えぬが、夜であれば、それが誰の血かまでは分からない。
「白い布を出せ」
配らせた布を、家の者は右の袖へ結んだ。塩川の具足を着る十四人には、結ばせずに懐へ入れさせる。
「……結んでは、なりませぬか」
頭が、訊いた。
「木戸の内で結べ」
「内で結ぶ暇が、ござりましょうか」
「無ければ、死ね」
頭は、うなずいた。
「二十は、己と」
長頼は、山のほうを指した。
「残りは、山を回れ。上の切岸の脇へ出る道がある」
「百二十二、にござるか」
「そうじゃ」
「声が上がるまでは」
「出るな」
「声とは」
「聞けば、分かる」
「……分からなんだら」
「分かる」
訊く者は、それきりいなかった。
*
麓の館の木戸は、閉まっていた。
旗を先に立てさせる。
「――開けい! 開けい!」
「殿が、御危急じゃ! 金瘡医を、早う!」
叫ばせたのは、長頼である。
数えられるより、慌てられるほうがよい。
木戸の内で、人の走る音がした。
閂が鳴る。
だが、開かない。
木戸番が、上から松明を突き出した。老いた足軽である。
突き出したまま、それを上げ下げして、松明の数を数えはじめた。
――数えるか。
「……出られたときは、幾人でござった」
「知らぬ」
「三十と、聞いておりまするが」
二十二を、谷の口へ置いてきている。
「幾人でも、よかろう」
「よくは、ござりませぬ」
「河内じゃ」
長頼は供の顔をして、そう言った。
木戸番の手が、止まった。
河内、の一言で足りた。昨日の昼、あの野で何があったかは、この谷にも届いている。届いていて、まだ誰も数を聞いていない。
「……わしの倅も、河内へ出ておりまする」
誰も、答えなかった。
「三郎と申しまして。旗を持つ役を、いただいておりました」
旗は、長頼の後ろで立っている。
「……開けい」
木戸が、内へ引かれた。
館の前に、三人ばかり出てきていた。一人が灯を掲げて、戸板のほうへ寄ってくる。
「殿は」
「口を、きけぬ」
「……いつからじゃ」
「河内を出てより」
「一晩、お声を出されぬのか。それは」
答えなかった。答えれば、答えた者の声が残る。
「……お顔を、拝ませていただく」
灯が、下りてくる。
戸板の上の男は、目を開けている。
動いたのは、担ぐ二人であった。片方が持ち手を替えるふりをして、板を半分だけ回した。灯の側へ、傷の側が向く。
布が、黒い。
「……ああ」
灯が、引いた。
「金瘡医を、呼べ」
「……おりませぬ」
「薬師じゃ。谷の下の。走れ」
誰かが、走っていった。
*
館を抜けると、道は上りになる。
両側が切岸で、削られた土が新しい。掻き直したのは去年の夏であろう。上へ行くほど道は細り、二人並べば肩が触れた。
去年、千四百がこの道を押した。三日かけて、二の木戸の下までであった。
いま、二十人が上っている。
担ぐ二人は、息を殺さない。わざと荒く吐いていた。手負いを運ぶ者の息である。片方が途中で持ち手を替えた。重いのではない。掌が、汗で滑るからであった。
二の木戸の下で、上から声が降ってきた。
「――そちらは、誰ぞ」
この谷の者の言いようは、言葉の尻が伸びる。
長頼は、口を開いた。
「――殿を、お連れ申したァ」
上が、黙った。
「……手負いは、殿おひとりか」
「あとは、河内じゃ」
黙った。
戸板の上の男は、意識がある。一声出せば、それで終わる。
喉が、鳴った。
鳴っただけであった。
閂の外れる音がして、二の木戸が、内から開いた。
人が、寄ってきた。
主のまわりへ、ひと息に寄る。名を呼ぶ者があり、灯を掲げる者があり、板の下へ手を差し入れようとする者があった。木戸の内は猫の額ほどの平らしかない。そこへ二十人と、寄ってきた者どもが、いっぺんに詰まった。
詰まったまま、家の者は袖へ手をやっている。
懐の布を出して、結ぶ。
結べぬ者は、結べぬままであった。
上のほうで、声が上がった。
切岸の脇である。
城の者の顔が、そちらへ向いた。向いた首の、その向いた分だけ、こちらが空く。
――蔵は、下じゃ。
館も、下である。玉は、下へは投げられぬ。
長頼は、後ろへ手を上げた。
縄が鳴り、玉が、寄っている者どもの奥へ落ちた。
音は、もう聞こえていない。
耳の奥で、細い音が一つ鳴りつづけているだけであった。
硝の焦げた匂いが、鼻の奥へ来た。
人が散る。散りきってはいない。玉一つで散らせる広さではなかった。
長頼は、槍を繰り上げた。
柄を送って、けら首の下を握る。穂から先が、腕一本の長さになった。短く持てば、刀と同じ間合いになる。ただし穂は、刀より重い。
この槍は、戸板の上の男のものであった。
正面に、具足の立派な男がいる。留守居の主将であろう。口が動いた。
「その具足は」
「――鋭!!」
言いかけた口へ穂が入り、抜くと同じ息で右から来た刀を柄で外し、外した手をそのまま押し出して胴の下へ入れた。
狭い。
「や、やあ!!」
猫の額ほどの平らへ倒れた者が二つ増えて足の置き場が変わり、踏んだ土の動いたところへ次が上から来て、柄で受けたその受け場所が悪く、柄ごと腕が下がった。
下がったところへ、また一人が入ってくる。
――間に合わぬ。
肩に、当たった。
具足が己のものではないゆえ当たりが逃げず、そのまま骨まで来た。
「ぐ……」
声が出たのはこちらであり、出したまま、退がる場所の無い長頼は前へ出た。
相手の胸へ肩から入りつつ、押し倒したところへ膝を落として、けら首の下を握ったまま喉へ入れる。
横から家の者の穂が伸びてきて、長頼の脇を掠めて別の一人を突いた。
十四人と、切岸の脇から降りてきた者どもが、狭いところで一緒くたに働いている。誰が誰を突いているのかは、分からない。
城の者にしてみれば、何が起きたのか分からぬ。
誰も、名を呼ばなかった。
呼ぶ名が、分からなかったのである。
山を回った者どもが、切岸の脇から次々に落ちてきている。
あれは布を結んでいる。こちらは、塩川の具足である。
白い布が、白くない。血を吸って、袖の色と見分けがつかなくなっていた。
長頼は、受けたまま右の腕を上げた。
――見えぬなら、それまでである。
相手の目が、袖のあたりで止まった。
声は出さない。出しても、こちらの耳には入らぬ。
戸の内が、静かになった。
主が帰ってきた。人が寄った。上で声が上がった。それから音のせぬ光が一つ落ちて、耳が聞こえなくなった。聞こえぬまま、味方の顔をした者が槍を短く持って入ってきていた——城の者にそれが分かったのは、あとになってからである。
「――九つ」
誰かが、そう数えた。
息が、上がっている。
肩が、上がらない。
具足が己のものではないので、動くたびに胴と草摺の継ぎ目が肌を挟んだ。挟まれるたび、肩の奥のほうが鳴る。
木戸の外で、まだ誰かが走っている。
夜が、白みはじめていた。
■用語解説
・合印…戦場で味方を見分けるために、あらかじめ決めておく目じるし。袖や笠に布を結ぶ、旗の指物を揃えるなど、家ごと・その戦ごとに決めた。夜討ちや、敵の具足を着て入るときには、これが無いと味方に討たれる。
・寅の刻…いまの午前三時から五時ごろ。夜のいちばん深いところを過ぎ、東の空が白みはじめる前の刻限にあたる。夜討ちはこの刻限に仕掛けるものが多かった。人の眠りがいちばん深く、なお明るくなるまでに片がつくからである。
・けら首…槍の穂と柄との継ぎ目の部分。ここを握れば槍は短く持てる。狭いところで長物を使うときの扱いで、短く持てば刀と同じ間合いになるが、穂のぶんだけ刀より重い。




