第22話(四)「春の支度」
――天文十一年(一五四二年)如月(二月)である。
朔日に、天王寺の山中の城が焼かれた。
木沢の手であった。管領様が芥川山まで兵を寄せたのに応じて、木沢のほうから摂津へ手を伸ばしてきたのである。城を落とし、そのまま焼いて、壊して引いたという。
天王寺は、越水から東へ七里ばかり。堺からの荷が二日止まり、それだけで戻った。
越水では、誰もその話をしなかった。
*
宿直の長屋に、彦太が来た。
肩に雪が残っている。摂津の雪は積もらぬが、山の陰の道では消えずにいる。
「朔殿。文が、来とりますで」
油紙の包みを、両手で差し出した。
水江からである。
十三になった。去年より背が伸びて、声が低い。差し出す手つきだけが、まだ子どものものであった。
「弥平さんが、書け書け言うて聞かんもんで」
「弥平が」
「弥平さん、字は書けませんやろ。利吉さんとこの手代に頼んだ、言うとりました」
包みを開くと、干し菜が出てきた。
文は、その下にあった。
弥平の分は、四行である。
麦は無事に越した。裏の畑の土は去年より黒い。堰の板を一枚替えた。それだけが書いてあり、終いに「朔様のおかげにて」と続けてある。
手代の字であった。弥平の言葉ではない。
(……弥平は、おかげとは言わない)
言えと言われて言ったのでもない。手代が、そう書くものだと思って書いたのである。商いの文をいくつも書いている手であった。
その下に、もう一つ。
字が違った。
からだを こわさぬように
仮名ばかりで、行が右へ下がっている。おふみが、手代に筆を借りて自分で書いたのであろう。
それだけであった。
朔は、二枚を並べて、もう一度読んだ。
読んでから、また読んだ。
(……憶えているのに)
一度読めば、それでよいはずであった。忘れるということが、この身には起こらない。目に入れた字は、そのまま残る。
それでも、三度読んだ。
忘れるのが怖いのではない。憶えているだけでは、足りないのだと思った。
*
干し菜を炊いた。
日に干した菜の、埃のような匂いが立つ。水を吸って戻るにつれ、それが青いものの匂いに変わっていく。狭い長屋にこもって、なかなか抜けなかった。
匂いを嗅ぎつけて、玄斎が来た。
膳を覗いて、箸を取り、一つまみ口へ入れた。
「……辛い」
「塩が、強うございます」
「遠いからよ」
玄斎は、目を閉じたまま噛んでいた。
遠くへ運ぶ物は、塩を強くする。腐らせぬためである。辛いのは、水江が遠いからであった。
「文は、読んだか」
「はい」
「幾度」
朔は、答えなかった。
玄斎は、それ以上訊かなかった。訊かずに腰の竹筒の栓を抜き、椀へ移して、舐めるように啜った。椀を置いて、しゃがれた声で言った。
「……また、値をつけるか」
「はい」
「そうか」
それだけであった。
立って、莚を持ち上げ、出ていく。出しなに一度だけ振り返って、
「食うてから、書け」
と言った。
*
――如月の、下旬である。
呼ばれたのは、夜であった。
この人に、まだ来ぬ世のことを売っている。
値は銭ではない。点で取る。月がひとつ過ぎるごとに一点だけ増え、増えた分のなかから、この人が買う。品書きに事どもを並べ、朔が値をつけ、この人が選ぶ。
二年になる。
(……前の世で、書物に書いてあったことだ)
いつ、どこで、誰が討たれるか。読んだ日付を、この身は一つも忘れていない。
灯が一つきりの部屋で、下座に膝を揃えて座る。座ってから、この人がまだ何も言っていないうちに、朔は膝の脇の包みを解いた。
品書きを、開いた。
「――紀伊は」
言いかけて、この人が止まった。
朔は、頁を繰る手を止めずに言った。
「断られましてございましょう」
部屋が、静かになった。
「……なぜ、分かる」
「殿が、お呼びになりましたゆえ」
紀伊にいるのは、七年前に高屋を追われた前の当主である。追ったのは、いまの家宰――遊佐長教。その遊佐が、公方様の御仲立ちで和睦の使いを出していた。
断られたのなら、遊佐はどちらかを選ばねばならなくなる。紀伊と手を結ぶか、木沢と組んだままでいるか。
選ぶ日が近づけば、先を欲しがる。それだけのことであった。
朔は、頁を止めた。
「太平寺の戦。一点にございます」
訊かれる前に、値を言った。
この人は、しばらく黙っていた。
黙って、湯呑を持ち上げ、飲まずに置いた。
「……そなたが先に言うのは、珍しい」
「はい」
「値を、吊り上げるつもりか」
「いえ」
朔は、品書きの頁を指で押さえた。
「一点のままで、中身を増やしまする」
「増やす」
「誰が裏切るか。誰が浮くか。どの城が焼けるか。……はじめは、日と場所と、討たれる者の名だけをお出しするつもりでございました。それを、みな付けまする」
「安うなるではないか」
「はい」
この人が、こちらを見た。
値を下げる者には、下げる訳がある。その訳を、先に探しにくる。
「訳を、申せ」
朔は、少し間を置いた。
言える訳を、一つだけ選んだ。
「……多く付ければ、殿は、それ以上お求めになりませぬ」
嘘ではなかった。
嘘ではないが、全部でもない。
一点で厚く売れば、次の一点を急がない。急がなければ、次に手を出す先が一つ減る。手を出す先が減れば、変わってしまう筋も減る。
(――そう思って、値をつけている)
良心と呼ぶには、勘定に紛れすぎていた。
うむ、とも言わなかった。
言わずに、指の腹で膝を二度なぞった。
朔は、そこで一度だけ、商いでないことを言った。
「……三月まで、お待ちになれば」
「うむ」
「只で、分かりまする」
この人は、答えなかった。
答えぬまま、こちらを見ている。訊いてはならぬと己で決めていたのに、口が動いていた。二度目である。
「なにゆえ、いま」
答えは、返らなかった。
紙は、その場で書かれた。
朔が口で言い、この人が筆を執る。人に書かせて残さぬ。
書き終えて、筆を置いた。
置いてから、灯のほうへ手を伸ばした。
芯を、爪の先で切る。
部屋が、一段暗くなった。
朔は、頭を下げて廊下へ出た。
出るとき、灯の向こうでこの人がまだ紙を見ているのが、障子の隙から見えた。
(……この人は)
当たった書付より、まだ当たっていない書付を買う。
当たったものは、もう買えぬからである。
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一、太平寺の戦い 一点
一、借入 二点 ――二年にて返す
残り 三点




