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第22話(三)「春の支度」

 ――睦月(一月)の中ごろである。


 年が明けて、天文十一年になった。


 雪であった。


 生駒の山を東へ越えると、日の当たりようが変わる。摂津の側は乾いていたが、こちらは谷ごとに白い。降り積むほどではなく、地の窪みだけが白く残っている。


 山本勘助は、その道を下っていた。


 杖の石突で、雪を突く。突いて、深さを測りながら歩く。足を置く前に、まず杖が置かれる。片方の足が利かぬ男の歩きようであった。


 道の者が、先を行っている。


 伊賀から借りた男で、名は聞いていない。歩きながら道端の草を千切っては噛み、噛んで、吐く。峠を越えてから、それを四度やった。


 「谷は、この先にござるか」


 「もそっと下でござる」


 大和へは、下知で来た。


 木沢の兵糧が、いつまで保つか。信貴山と、二上と、飯盛。荷駄の道筋を割れ、と申しつけられた。蔵を覗くには及ばぬ、入る荷を数えればよい、と。


 三つの城へ入る荷を、峠と渡しで数えた。米が何駄、味噌が何樽、塩が何俵。籠っている人の数は、門を出入りする者を朝から日暮れまで数えれば知れる。


 十日かけて、三筋とも見た。


 数は、もう頭にある。


 ――下知は、済んだ。


 済んだのに、この道を下りている。


 帰ったら、荷駄の数を申し上げる。ついでに、峠の手前で坑木を二本ばかり見てきたことも申し上げる。多田のあなに入れる木は、細くては潰れ、太くては運べぬ。見ておいて損はない。


 どちらも、まことである。


 ――まことを、一つだけ切り取って渡す。


 殿が去年から使っておられる手であった。


 谷へ下りたことは、申し上げぬ。


 神無月――三月ばかり前である――に、明智の若いのへ喋ったことがある。大和の井堰の話であった。


 刈り入れの前で、二つの村が水を争っていた。両方から十人ずつ出て、鍬を持って睨み合っている。死人の出る顔をしていた。そこへ紙が一枚来た。上の村が三日、下の村が四日。それだけ書いてある。読み上げたのは坊主で、兵は一人も来なかった。


 その日のうちに、治まった。


 押させておったのは、木沢じゃ――そう言った。


 紙には、上の村が三日、下の村が四日と書いてあるだけである。書いた者に兵はない。それでも治まるのは、皆がそうするものと思うておるからで、思わせているのが木沢の名であった。


 そのあとに、こう続けている。


 ――名が、退けば。


 翌日から、聞き申さぬ。


 言い切った。


 言い切った以上、見ておかねばならぬ。


 いま、その名が退こうとしていた。木沢は管領と切れ、担ぐ者もない。春には、消える。


 名が消えた翌日に、谷がどういう顔をしているか。


 ――紙が一枚来て、誰も従わぬところを、見たい。


 もう一つ、あった。


 越水の帳場に積んであった報せの束に、人足を取られた郷の名が並んでいる。笠置の普請で村から人を出させられた郷が、大和の北にいくつも。


 その中に、覚えのある名が一つあった。


 平群谷。


 生駒の山と矢田の丘に挟まれた、細長い谷である。信貴山の東の麓にあたる。


 ――あの、下の村じゃ。


    *


 谷である。


 両側の斜面が迫り、底に細い流れが一筋。田は段になって、雪の下に隠れていた。


 勘助は、その流れを見ていた。


 この一筋を、上と下で分ける。三日と四日に分けた紙は、いまも効いているのか。


 効いていなければ、この谷は、また鍬を持っている。


    *


 道の者に名を言うと、その家まで連れていった。


 谷の口である。藁を厚く葺いた低い家で、戸のかわりに莚を垂らしている。莚をくぐると、煙が目に沁みた。


 囲炉裏に、火がある。


 濡れた藁と、煤と、灰の匂いがした。冬の在所の匂いである。


 男が一人、火の前に座っていた。


 三十半ばであろう。骨太で背が低い。片方の眉に、古い切り傷がある。


 目は、上げなかった。土間を見たまま、灰を掻いている。


 「……いつぞやの」


 そう言った。


 顔は上げていない。


 「拙者にござる」


 先年、この家に泊めてもらったことがある。


 井堰の一件を見た日の、その暮れであった。宿を探して、谷を端から端まで歩いた。どの家も莚をめくらなかった。日の落ちてから戸を叩く男が、片目を潰し、片足を引いていれば、めくらぬのが当たり前である。


 一軒だけ、めくった。


 この家であった。


 芋を食わせ、囲炉裏の隅に寝かせて、朝には湯を出した。銭を置こうとしたら、要らんと言われた。


 ――要らんと言われても、置くだけの銭は無かった。


 九年の牢人暮らしの、七年目である。


 礼になることは、何ひとつしていない。名も告げなかった。訊かれなかったからである。


 男は、灰から芋を一つ掘り出した。


 黒く焦げた皮を、掌で二度叩いて灰を落とし、割った。湯気が立つ。半分を、こちらへ突き出した。


 ――同じ手つきである。


 勘助は、片手で受けた。


 杖を持っているので、片手しか空かぬ。


 「……平群の、孫六と申す」


 「山本勘助にござる」


 名を告げたのは、はじめてであった。


 芋は、熱かった。


 食いながら、男は喋った。訊いてもいないことを喋る。それが在所の礼儀である。


 弟が死んだ。


 去年の文月、笠置の城の普請に人足を出せと言われて、村から七人取られた。そのうちの一人が弟であった。石を吊り上げる縄が切れて、落ちてきた石の下になった。


 「知らせは、来たか」


 「来ん」


 孫六は、そう言った。


 「取りに行った。三日かかった。積んであった」


 積んであった、と言った。


 それきり、その話はしなかった。


 「城は」


 勘助が、そう訊いた。


 「城は、誰の物でもかまわん」


 孫六は、灰を掻いた。


 「城が焼けようと、建とうと、こっちは知らん。……谷は、俺の物だ」


 「谷は、そのままにしておく」


 「言うたな」


 はじめて、目が上がった。


 黒目の大きい、疑いようを隠さぬ目であった。


 「去年も、そう言われた」


 「誰にじゃ」


 「城の者に」


 孫六は、火のほうへ目を戻した。


 「田は潰さん、道を通すだけじゃと言われた。道が通ったら、田が要らんようになった。……侍の言うことは、当てにならん」


 勘助は、答えなかった。


 答えずに、芋の残りを食った。


 「土地を、くれ」


 しばらくして、孫六がそう言った。


 「谷の田を、俺のものと書いた紙をくれ。そしたら、聞く」


 「土地は、無い」


 「……無い、と申されたか」


 「無い」


 孫六が、こちらを見た。


 さっきとは、目の色が違っていた。


 ――無いと言う侍を、見たことがないのだ。


 あると言い、いずれ渡すと言い、渡さぬ。それが当たり前であった。当たり前でないことを言われて、測りかねている。


 「わが主は、田を一枚も持っておられぬ」


 「……三好の、御家中と聞いたが」


 「持っておらぬ」


 勘助は、そう言った。


 言いながら、これは正しいことを言っている、と己で思っていた。この家中には、上から下まで一枚の田も無い。城も預かりで、給分は扶持と山の分け前である。


 だから、土地では人を釣れぬ。


 ――釣れぬ家の者が、いま、人を釣ろうとしておる。


 七年前、この囲炉裏で芋を食わせてもらった。銭も名も出さずに、食わせてもらった。


 その男に、いま、値をつけている。


 そこで、口が動いた。


 「職を、やる」


 言ってから、言ったことに気づいた。


 「……職」


 「平群谷の名主なぬしじゃ。谷の水と田の割りを、そなたが決める。誰が城に入ろうと、その職は動かさぬ」


 孫六は、しばらく黙っていた。


 黙って、手の甲をこすった。土が乾いてこびりついているのを、親指の腹で削り落としている。


 「……名主は、村が決めるもんじゃ」


 「決めた者を、こちらが安堵する」


 「安堵」


 「動かさぬ、と紙に書く」


 嘘ではなかった。


 所領の無い主でも、職の安堵ならば書ける。書けるが――


 ――誰も、書けとは言うておらぬ。


 孫六が、手の甲から目を上げた。


 「……いつ」


 「谷が、揺れたときにござる」


 いつとは言わなかった。言えなかった。


    *


 ――谷を出たのは、日の傾いてからである。


 道の者が、また草を千切った。噛んで、吐いた。六度目である。


 雪の照り返しが消え、谷底から先に暗くなっていく。


 勘助は、杖を突きながら歩いていた。


 突きながら、算えていた。


 己はいま、主の持たぬものを約した。土地ではないから、渡せぬ物ではない。だが、約す権は無い。


 ――報せれば、どうなる。


 考えるまでもなかった。


 一度、経験がある。


 去年の葉月、一庫の霧の尾根で、麓を焼きなされと申し上げた。麓が城を養うておりまする、と理を並べた。理は通っていたはずである。


 殿は、こう言われた。


 ――よい。今日は、よい。


 なぜよくないのかは、言われなかった。


 あのとき懐にあった縄張の図面は、とうとう出さずじまいであった。


 ――理由を、告げられなんだ。


 告げられなかった者は、告げなくなる。


 そういうものであった。


 道が、平らになった。


 前を行く男が、ふと足を緩めた。


 「……お手前も、買われた口にござろう」


 勘助は、答えなかった。


 男は、それ以上言わなかった。言わずにまた歩きだし、道端の草を千切って、噛んで、吐いた。


 日が、落ちた。


 勘助は、杖を二度突いた。


■用語解説

平群へぐり…大和国の北西、生駒の山と矢田の丘に挟まれた谷(いまの奈良県平群町のあたり)。信貴山の東の麓にあたり、大和から河内・伊賀へ抜ける道が通る。田は狭く、水は谷の一筋に頼る。

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