第22話(二)「春の支度」
――師走(十二月)の末である。
河内へ人を入れて、ひと月になる。
越水の夜は、冷えた。
火桶を一つ入れさせたが、部屋の隅までは温まらぬ。障子の外で、風が枯れた音を立てている。
幕の外に、膝をつく気配があった。
「三人、戻りましてござります」
柳田甚内は、そう言った。
数から言う男である。何を掴んだかより先に、幾人出して幾人戻ったかを言う。この癖を、はじめは律儀と思っていた。いまは、そうではないと知っている。
――この男の情は、数の順にしか出ぬ。
「入れ」
甚内は、庭から直に上がった。足袋を履いていない。だから足音がしない。
顔は上げなかった。
「めぼしきものは、ござりませなんだ」
「申せ」
「家宰の御方が、紀伊へ使いを出しておられます。師走に入ってから、三度」
火桶の炭が、小さく鳴った。
紀伊にいるのは、七年前に高屋を追われた前の当主である。追ったのは、いまの家宰――遊佐長教であった。
追った者が、追われた者へ、ひと月のあいだに三度も使いを出している。
――話をしておるのじゃな。
三好の紙を出すときは、こちらが宛名を書く。高屋へも書き、紀伊へも書いた。同じ畠山の御名の下に、違う御方がいる。
書く者は、それを手で覚える。
だが、宛名はいつも当主の名で書いてきた。当主が読んでいるものと思って書いていた。
「判は」
「高屋の御方が、お押しになるだけにござります。文を書いておられるのは、家宰にて」
――そこまでは、聞いておらぬ。
名は知っていた。並びは知らなかった。
当主が二人いるのは京でも知れた話であったが、どちらの手が動いているかは、屋敷へ入った者にしか分からぬ。
この一年、こちらが書いて出した文は、ぜんぶ遊佐が読んでいたのである。
「三度と申したな」
「三度にござります」
三千と申す者がござります、と言うときは、手前の見たは千二百から千五百、と続ける。三度と言うなら、三度であった。
公方様の御仲立ちである。和睦の使いが紀伊へ通っているのは、京では誰でも知っている話であった。隠しごとではない。隠しごとでないから、誰も見ない。
「ほかには」
「山城の笠置で、伊賀の衆が城へ入りましてござります。坊舎に火をかけて――」
笠置は、木津川を見下ろす岩山の城である。木沢が今年、近郷から人足を徴発して大がかりに直させた。木沢の城が、京の南の口を塞いでいる形になる。
その城へ、伊賀の者が忍び入った。誰に頼まれたのかは、この男は言わなかった。
「破られたか」
「はい」
それきり、続かなかった。
顔は、伏せたままである。
「……そなたの、縁の者か」
「縁と申すほどでは、ござりませぬ」
間があった。
その間だけが、答えであった。
この男は、いま幾人戻らなかったかを言わなかった。三人と言い、三度と言う男が、そこだけ数を言わぬ。
「よい」
あとは、京の話ばかりであった。
管領様が、師走の八日に芥川山まで軍勢を寄せられたこと。木沢を討つおつもりであること。堺の座がその話で持ちきりであること。
芥川山は、摂津である。越水から北東へ、半日とかからぬ。管領様が本気であることは、これで誰の目にも見えた。
どれも、聞いている。
こちらの欲しいのは、そういう話ではなかった。
欲しいのは、裁きの紙である。訴えを聞いて、判を押した紙。それが下りてこなくなって、ふた月になる。
「終いに、一つ」
甚内が、そう言った。
「手前の者が、家宰の屋敷で塗り物の御用を承りましてござります。紀伊へ持って参る箱の、塗り直しにて」
「その者は」
「年内の品を納めて、出ましてござります。あとは、下の者を一人だけ残しました」
「いつまでじゃ」
「弥生の初めまで、と」
三月先である。
塗りは日を食う仕事であった。乾かしては研ぎ、研いでは塗る。冬なら二月三月は当たり前で、三月先の期日は、期日として何も言っていない。
「それだけか」
「……その期日を、家宰の御方が、みずから申されたそうにござります」
指が、止まった。
膝の上で、布目を辿っていた指である。
「みずから」
「はい。作事場へ下りてこられて、塗師ひとりに」
――下りてくるものか。
屋敷には用人がおり、その下に頭がおり、頭の下に手代がいる。品の納めが遅れたなら、叱るのは頭であった。頭が叱られ、用人が叱られ、そこで止まる。上まで届く前に、誰かが止める。
そのために人を並べてあるのだ。
その並びを、飛び越えて下りてきた。
――遅れられては、困るのじゃな。
弥生に、何かが要る。
その書付の終いには、三月十七日と書いてある。それが指しているのと、この冬に塗師の耳が聞いたのが、同じ月であった。
道は、二本ある。
一本は、去年、一点で買った。もう一本は、この冬、銭十五貫で三人を入れて、漆を塗らせて聞かせた。
――絵図と、棹じゃ。
あの童が、いつか言った。書付は絵図にござります、と。裏は耳でお取りなさりませ、と。
あのときは、値切りの口上と思って聞き流した。
淀を上ったときのことを、思い出す。船頭は絵図を膝に置きながら、終始、棹で川底を突いていた。突いて、浅いところを避けて回る。絵図があるのに突くのかと訊いたら、絵図は形しか書いてござりませぬ、と言った。
深さは、書いていない。
「……よう働いた」
「はっ」
「三人には、餅を出せ」
甚内は、顔を上げなかった。上げずに退がり、庭の闇へ戻っていく。
足音は、しなかった。
*
人の去った部屋に、報せの束が残っている。
紙の端を切り揃えてあるのは、光秀の手である。日を追って重ね、古いものを下にしてある。
障子が、鳴った。
入ってきたのは、山本勘助であった。
呼んでいない。
いつもなら、幕の外で待ち、名を告げてから入る。九年の牢人暮らしで身についたものであろう。
勘助は、束の前で足を止めた。
杖を脇へ寝かせ、腰を落として、上から順にめくっていく。
河内と大和の郷の名が並んでいた。人足に取られた谷、田を潰された郷、普請に出された者の数。城が建つとき、必ず出る紙である。
その一枚で、指が止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
こちらは、何も言わなかった。
咎めることもできた。訊くこともできた。訊けば、この男は答えたであろう。
――訊けば、こちらの手になる。
言わずにおけば、この男の手のままである。
勘助は束を元のとおりに揃え、杖を取って、頭を下げた。下げて、出ていった。
何を見たかは、言わなかった。
*
文書の間には、まだ灯が入っていた。
墨の匂いが、冷えている。夏の墨は甘く匂うが、冬のそれは硯の石ごと冷たくなって、鼻の先で止まる。
光秀が、机の向こうで紙の端を折っている。数えているのである。指は、折らない。折った紙が、机の上で少しずつ厚くなっていた。
「まだ、おるか」
「……は」
声が、掠れていた。
机の端に、訴えの束が積んである。井堰の水、境の木、去年の年貢の残り。どれも小さく、どれも当人には一年の暮らしが懸かっている。
判を押す者が、京にいない。
だから、捌けない。捌けないと分かっている束を、日ごとに仕分けている。
「歳暮の使いを、数えたか」
「数えましてござります」
光秀は、折った紙を一つ取った。
「河内の御方へ、去年は八家から使いが参りました。今年は、五家にござります」
「三家、来なんだか」
「来なんだのではござりませぬ」
紙を、机へ置いた。
「遅れておりまする。去年は霜月のうちに済んだ家が、まだ出しておりませぬ。年賀に合わせるつもりかと存じますが……年賀に合わせるということは、いま出さずに、様子を見るということにござります」
「様子を」
「文の遅れは、心の離れにございます」
言いようが、硬くない。硬くないぶん、確かであった。
「大坂は」
「河内へ、荷が三度」
同じ数であった。
紀伊へ三度、河内へ三度。冬のあいだ、道の上を紙と荷ばかりが往き来している。
「……これは、祐筆の役目にござりまするか」
一度だけ、こぼした。
こぼしてすぐ、己で紙を取りに立った。
――役目の境が、消えていくのがこの男は嫌なのだ。理不尽が嫌なのではない。
*
光秀を下がらせて、灯の芯を切った。
管領様は、師走の八日に芥川山まで出ておられる。摂津である。越水から、そう遠くない。
こちらは、一兵も出していない。
近江から文が来たのは、霜月の半ばであった。木沢を将軍家の敵といたすゆえ兵を出せ、と。あのとき殿へ申し上げたのは、こちらである。
――いま少し、御返事を遅らせましょう。
相手が増えまする、と続けた。増えるのは本当であった。増えている。
そのあいだ、紙は溜まった。
机の端の束は、はじめは膝の高さであった。いまは、それより高い。井堰の水を争う二つの村は、去年なら紙一枚で治まっている。
治まらぬのは、京に判を押す人がいないからである。
――ならば、こちらの咎ではない。
そう思おうとして、思えなかった。
束が溜まっているあいだ、こちらは返事を遅らせている。京に人がいないことと、こちらが動かぬこととは、別の話であった。
遅らせましょうと申し上げたのは、己である。
束を、一つだけ横へ寄せた。
押した音がした。
■用語解説
・笠置城…山城国相楽郡の笠置山(いまの京都府笠置町)に築かれた城。木津川を見下ろす岩山で、天文十年に木沢長政が大がかりな修築を行った。人足を近郷から徴発したため、在地の恨みを買った。
・尾州家…河内・紀伊などの守護をつとめた畠山氏のうち、政長の流れを後世こう呼ぶ(尾張守という官途による)。天文年間の当主は高屋城にあり、守護代・遊佐氏が実権を握った。
・総州家…同じ畠山氏の、義就の流れ。上総介の官途による呼び名だが、この呼称が定着するのは十六世紀半ば以降である。天文年間は飯盛山城に拠り、木沢長政が支えた。所領が入り組んで分けようがなく、戦国の河内は両家が並び立ったまま、それぞれの家臣が実権を握った。
・座…同じ商いをする者どもが作った組合。関や津の役を免れ、値と扱い高を取り決めて商いを独り占めにした。堺の座は畿内の物と銭と噂の集まるところで、大名の家中も出入りした。




