第22話(五)「春の支度」
――如月(二月)の末である。
冬のはじめに、三つを訊いた。
河内の家宰がどちらへ付くか。木沢に付いた国人どもが、いつまで付いておるか。木沢の兵糧が、いつまで保つか。
二つは、答えが揃った。
一つは、まだ揺れている。
盤を出させた。
碁を打つためではない。石を置いて、河内と大和と京の見当をつけるのに使う。畿内の絵図を膝の前に広げるより、目が痛くなくてよかった。
炭が、足りぬ。
火桶は入れてあるが、部屋の隅までは届かない。光秀の座っているあたりは、まだ息が白かった。
二人を呼んだ。
山本勘助と、明智光秀である。
もう一人、呼んだ者がいた。
朽木玄斎。
この老人は、こちらの家来ではない。あの童に付いてきた剣術遣いで、村から一緒に出てきた。扶持は出しているが、役目は与えていない。何をしているかと言えば、たいてい酒を飲んでいる。
それを、今日は呼んだ。
念流の遣い手である。剣を打つ庄にも、打った剣を買う者にも、その筋には耳がある。大和の庄のことを訊くのに、これより早い者はいなかった。
――使える者は、家来でのうても使う。
勘助が、玄斎のほうを一度だけ見た。
見て、何も言わなかった。訊かぬかわりに、覚えておく。
玄斎は、下座の隅で目を閉じている。
呼ばれた用は聞いていないはずであった。聞かずに来て、済めば帰る。そういう老人である。
「河内から順に申せ」
光秀が、紙を折った。
「木沢への歳暮の使いは、去年八家、今年五家。三家は年賀にも間に合っておりませぬ」
「では、四家か」
「五家のうち一家は、使いだけを出して品を出しておりませぬ」
「出しにくいか」
「出しにくうござります。品を出せば、木沢の側に立ったことになりまする。使いだけなら、義理にござる」
義理と、荷とは違う。荷は数えられるが、義理は数えられない。数えられぬものだけを出しておいて、後で、義理は義理でござると言う。
「大和は」
勘助が、杖を膝の脇へ寝かせた。
「兵糧は、あと九十日にござる」
「九十日か」
「信貴山と、二上と、飯盛の三つを算えて、荷駄の入りようから割り申した。……九十日を過ぎれば、兵が溶けまする」
光秀が、そこで顔を上げた。
「九十日と申されますと、皐月にござりまするな」
「さよう」
「されば、春は越えられまする」
言われて、勘助は光秀を見なかった。
見ずに、言った。
「越え申さぬ」
「……なにゆえ」
「兵糧が尽きるまで、兵はおり申さぬ」
言いようが硬い。正しいことを言うときほど、硬くなる。相手が分かっていないと、はじめから決めてかかる。
光秀の指が、膝の上で止まった。
「溶けるのは、糧の尽きる前にござる」
勘助は、そう続けた。
「兵は、蔵を覗いており申す。蔵が半分になったところで、幾人かが帰る。帰った者を見て、また帰る。……尽きたときには、もう誰もおらぬ」
部屋が、静かになった。
光秀は、しばらく黙っていた。
黙ってから、低く言った。
「……では、九十日は、いつまで保つかではござりませぬな」
「さよう」
「いつまで、誰も帰らずにおるか、にござりまするか」
勘助は、答えなかった。
玄斎が、目を閉じたまま言った。
「……大和の庄が、動くぞ」
「どの庄じゃ」
「剣の庄よ」
しゃがれた声である。
「あそこの者どもは、去年まで木沢の名で紙を押しておった。押させておった名が退けば、明日から誰も押さぬ」
「押さぬだけなら、よいではないか」
「押さぬだけなら、な」
玄斎は、目を閉じたままである。
「あの庄は、剣で食うておる」
「剣で」
「田が狭い。米では足らぬ。ゆえに代々、剣を習うて、人に教える。教わりに来る者が、諸国から絶えぬ」
それきり、目を閉じている。
盤に、石を三つ置いた。
河内に一つ、大和に一つ、京に一つ。
三つとも、置ける場所があった。
――四つ目が、置けぬ。
光秀が、それを口にした。
「大坂にござります」
「うむ」
「師走の二十日に、公方様が大坂の御門跡へ紙を出されました。河内の門徒は、木沢に加勢いたすなと」
大坂の御門跡――本願寺である。石山に大きな寺を構え、摂津・河内・和泉の百姓を門徒に持つ。
兵は、持たぬ。持たぬかわりに、門徒を持つ。河内の郷にも、鍬を置いて念仏を唱える者が数知れずおり、寄れば、そのまま数になる。
「返事は」
「承る、と」
「早いな」
「四日にござります」
早い。早すぎる。
「その四日後に、大坂から歳末の礼が出ておりまする。管領様へ太刀一腰、殿へ太刀一腰。芥川と池田にも」
「……こちらにも、来たな」
「参りました」
光秀は、紙を置いた。
「同じ日に、木沢へも使いが出ておりまする」
誰も、何も言わなかった。
勘助が、杖の石突を一度だけ床へ突いた。
勘助は神無月に、光秀へこう言っている。足が二本ある、二本とも借りた足にござる、と。管領と、畠山である。
――足りなんだ。
もう一本あった。そしてその一本は、いま、誰の足でもない。
「……門徒は、動きまするか」
光秀が、そう訊いた。
訊いてすぐ、己で首を振った。
「紙には、書いてござりませぬ」
――そうじゃ。
紙は出た。返事も来た。それで門徒が動かぬかどうかは、どこにも書いていない。
甚内の手の者は、荷を数えられる。使いの往き来も、縄の結びようも数えられる。腹だけが、数えられぬ。
――突いた先は、分かる。
突かなんだところは、分からぬままじゃ。
この冬、京から紙が一枚も来なかった。
だから紙は死んだのだと思っていた。書く人が京からいなくなり、紙は紙になったのだと。
違った。
紙は、走っていた。近江から大坂へ、大坂から河内へ。
――紙は、死んでおらなんだ。
死んだのは、こちらへ来る紙だけであった。
声には出さなかった。
「二つ、申しつける」
三人が、こちらを見た。
「勘助」
「はっ」
「戦の後は、焼き働きになる。国人は蔵を焼き、城を焼き、跡を残さぬようにする。……焼けた城は、買えぬ」
「……」
「焼ける前に、買え」
如月の朔日、天王寺の山中の城が焼かれている。落として、焼いて、壊して引いた。焼いた者に、悪気はない。跡を残さぬのが戦の作法である。
――作法どおりにやられると、こちらの取り分が減る。
商人の言いようであった。この家の者は、こういう言いように慣れている。
勘助は、頭を下げた。
「……承知」
それだけであった。
訊かなかった。いつ焼けるのかも、なぜ焼けると分かるのかも。
「光秀」
「はっ」
「木沢の帳面を、兵より先に押さえよ」
光秀の目が、動いた。
「……兵より、先に」
「兵は逃げる。帳面は逃げぬ。逃げぬものを、後回しにすると焼ける」
「承りました」
光秀は、驚かなかった。帳面を先に取れというのは、この家の主が三年前から言い続けていることであった。
――申しつけたのは、それだけである。
二つで、済んだ。
済んだところで、下座の隅へ目をやった。
「玄斎どの」
老人が、目を開けた。
「……儂は、家来ではないぞ」
「存じております。ゆえに、訊くのでござる」
「剣の手練が、欲しゅうござる」
玄斎は、しばらくこちらを見ていた。
「何に使う」
「使い道は、これからにござる」
「使い道の無いものを、欲しがるか」
「いま買えるものは、いましか買えませぬ」
名刀を鋳潰す、という言いようを、そこで思い出した。
「あの庄が散るは、名刀を鋳潰すに同じにござる」
玄斎が、片方の目を開けた。
「鋳潰せば、鉄は残る。目方も減らぬ」
「されど、二度と同じ刀にはなり申さぬ」
人も、同じであった。散らせば、数は減らぬ。減らぬが、集め直しても元には戻らぬ。
玄斎は、鼻から息を出した。笑ったのかもしれぬ。
「……そなたは、鍔より人が好きよな」
「打つ者がおらねば、鍔も出ませぬ」
「儂に、何をせよと」
「何も」
目を開けたまま、老人はこちらを見た。
「訊きたかっただけにござる。あの庄に、まことに手練がおるものかどうか」
「おる」
それだけ言って、玄斎はまた目を閉じた。
――それでよい。
触れておけ、とも、拾うてこい、とも言わなかった。言えば、下知になる。下知にすれば、返事が要る。返事の要るものを、いま増やしたくはなかった。
光秀が、紙の端を折る手を止めていた。
勘助は、杖に手をかけたままである。
二人とも、聞いていた。
――聞かせたつもりは、ない。
盤へ、手を伸ばした。
指の腹で、目を二度なぞった。
なぞってから、石を置いた。
「――木沢は、春を越えられぬ」
誰も、何も言わなかった。
勘助は杖を膝の脇へ寝かせ、光秀は紙の端を折るのをやめた。玄斎は目を閉じたままである。
炭が足りぬ。部屋の隅のほうは、まだ息が白い。
三人とも、己の足でそこへ着いていた。書付を見た者は一人もおらぬ。使いの数と、荷駄の量と、庄の名だけで、同じところへ着いた。
着いた場所に、主が先に座っている。
それを、誰も不思議に思わなかった。
――思わぬうちが、よい。
*
――揺れておるものは、押せる。
座が退けてから、甚内を呼んだ。
庭から直に来て、幕の外で膝をつく。顔は上げない。
「一つ、流せ」
「はっ」
「河内の、門徒の口へ。――公方様の紙が、大坂へ出た」
「……それは、まことにござりまするな」
「まことじゃ」
「それだけで、ようござりまするか」
「それだけでよい」
甚内は、一度だけ顔を上げた。上げて、すぐ下げた。
「……承知」
庭の闇へ戻っていく。足音はしない。
堺の座へ置いても、届かぬ。
堺は和泉である。遊佐の耳は河内にあり、河内では木沢と耳を分け合っている。堺へ何を並べても、遊佐より先に、木沢の耳へ入る。
届く道は、一本しかなかった。
紙が出た、というだけの話である。それが門徒の口へ入れば、河内の郷は揺れる。郷が揺れれば、遊佐はそれを見る。
見て、木沢に付いたままでは危ういと思うかもしれぬ。思わぬかもしれぬ。
――こちらは、遊佐に一言も申し上げておらぬ。
庭のほうを、しばらく見ていた。
十年前、殿の父御を寺に囲んで殺したのは、この門徒どもである。
その口を、いま使うている。
厭うたところで、道は一本しかない。管領様の下で木沢の座が消えれば、殿の上から一つ消える。一つ消えれば、頭を下げる先が一つ減る。
――そのためなら、何でも使う。
使えるものが、これであった。
*
その夜、灯を寄せて帳面を繰った。
墨を下ろす。
一、河内ヘ 間者三人 ――銭 十五貫
一、木沢ノ 兵糧 ――九十日
一、太平寺ノ戦 一点
書いて、筆を止めた。
銭で買うたものと、点で買うたものが、同じ頁に並んでいる。
どちらも、まだ起きておらぬことであった。
灯を消した。
外は、風がない。
*
明けて、庭へ出た。
夜のうちに雨が来たらしく、土が黒く湿っている。
井戸の脇、日の当たる崖の裾に、去年の枯れ草が伏せていた。その下から、黄緑のかたまりが幾つも顔を出している。
しゃがんで、一つ摘んだ。
蕗の薹であった。
もう固さがない。開きかけて、萼のあいだが緩んでいる。
青くさい匂いが、指から立った。雨に濡れた土の匂いと混じって、鼻の奥へ抜ける。
――もう、出ておったか。
いつからかは、分からぬ。この冬、外を見ていなかったのである。見ていたのは、紙と、人の口から出るものばかりであった。
摘んだ指が、黒くなった。
苦い汁である。洗っても、しばらくは落ちぬ。
萼を一枚むしって、口へ入れた。
苦い。
年の初めに苦いものを食えば、その年は病まぬという。誰が言い出したかは知らぬ。苦いものを食わねばならぬ暮らしのほうが先にあって、あとから、そう言うことにしたのであろう。
噛んで、飲み込んだ。
立ち上がって、東を見た。
低い山なみの向こうが大和で、その手前が河内である。
――弥生じゃ。
この冬、越水は何もしなかったように見える。紙は来ず、兵は一人も出さず、人も殺さなかった。遣うたのは銭十五貫と、点が一つだけである。
見えるだけであった。
見ぬあいだに、土は動いている。
指の黒いのを、袖でこすった。
こすっても、少し残った。
---
一、太平寺の戦い 一点
一、借入 二点 ――二年にて返す
残り 三点
■用語解説
・兵糧…軍勢の食糧。米を主として味噌・塩・干魚を伴う。人の数に日数を掛ければ要る量が出るので、逆に運び込まれる荷を数えれば、その軍勢が幾日戦えるかが読める。
・門跡…皇族や公家の子弟が住職を務める格式の高い寺院、またその住職。本願寺もこれに準じて扱われ、法主は諸大名と音信を交わす一個の政治勢力であった。兵を持たぬが、門徒を持つ。




