第21話(三)「梟雄、京へ」
――神無月(十月)の中旬である。
京からの報せは、五日ごとに形を変えて届いた。
訴えは公方様のお手元へ上がった。公方様はこれをお預かりになり、管領様の家中のことゆえ管領様で御決着なされよ、と差し戻された。
どちらへ傾いても、傾かなかった側が敵になる。だから、どちらへも傾かぬ。まことに正しい御沙汰であった。
その正しさが、いちばん火を大きゅうする。
紙は、管領様のお手元へ回った。己の側近を成敗せよと書いた紙を、当の管領様がお読みになったのである。
次に来た報せは、短かった。
管領様は、木沢の使者を成敗せよ、と申された。
紙を読み終えてからではない、と報せた者は言った。読んでいる途中で顔を上げ、そう言われたという。
榎並の御方が、紙より先に管領様の御前へ入っておられた。堺から戻った荷の仲買が、そう申したという。
久秀は、その一行を二度読んだ。
訴えの中身に答えるのではない。訴えを持ってきた者を殺せ、というのである。
――切れた。
これで、あの男は謀反人になる。
なったのではない。管領様がそう決めたのである。
大和の筒井の屋敷には、去年まで盆と暮れに河内から使いが来た。今年は、来ぬ。来ぬというだけのことで、あの家の者はもう、次にどこへ挨拶に行けばよいかを話しはじめているはずであった。
手を離すのは、裏切りではない。預かっていた役目が、上から引き上げられただけである。
久秀は、書付を出さなかった。
出さずとも、次の行を憶えている。
公方様 近江ヘ
*
――神無月の末である。
管領・細川晴元が、北岩倉へ動いた。木沢との臨戦の構えである。動きながら、公方様へしきりに同行を求めた。
同じころ、木沢のほうからも、京の警固をつかまつりたい、と申し入れがあったという。
――取り合いに、なっておる。
書付を持たぬ者なら、ここで肝を冷やしたであろう。
あの男は、もともと公方様とのつながりが太い。取次を重ねてきたのは伊達ではなく、押さえに行って押さえられぬ相手ではなかった。公方様が木沢の側にお立ちになれば、管領様のほうが賊になる。
――行き先は、近江と書いてある。
書いてあるのは、それだけであった。逃げるとは書いてあるが、なぜ逃げるかは書いていない。
理由の書いてないものは、こちらの手で理由を変えられる。
その夜、久秀は二度、灯を入れ直した。
二度目には、油がよほど減っていた。
*
――霜月(十一月)朔日である。
公方様が、東山の慈照寺へお入りになった。
寺である。塀はあるが、堀はない。籠るために入られたのではないことは、それだけで知れた。
翌る日、近江坂本へ着かれたという。
近江は、六角どののお膝内である。銭も兵も持ち、代々、京の公方を後ろから支えてきた家であった。
その六角どのの御意見によって動座が決まった、と報せにはあった。だが六角どのは何も聞かされておらず、着かれてから大層驚いておられたともいう。
御意見と、称されたのである。どちらの側にも付かぬために、どちらでもない者の名を借りて、京をお出になった。
久秀は、その報せを聞きながら、湯漬けを食っていた。
食っている途中で、箸を止めた。
――逃げられた。
押さえに行った先から、逃げられたのである。
掴むものが無ければ、掴んだことにならぬ。管領様は賊にならずに済み、あの男だけが、管領様と切れたまま河内に残った。
――誰も、担ぐまい。
担げば、次は己が担がれる番になる。皆がそう思えば、あの男は独りで残る。
担ぐ者のいない男を討つのに、これから誰の許しも要らぬ。だから、来年の三月に一万が集まる。
そのころ、堺から小さな包みが届いた。
母からである。開けると、干した柿が幾つか入っていた。串を抜いて、紙にくるんである。子供のころ、この男が好んで食ったものであった。
文が一枚添えてある。字は大きい。手元が遠いので、この人はいつも大きく書く。
静さんは達者か、寒うなったゆえ身を厭え、といったことが書いてあり、終いに一行だけ、
京から、人がようけ来ておりますそうな
とあった。
――達者か、と訊かれても。
この半年、静と顔を合わせたのは幾度であったか。数えて、二度である。同じ城の内にいて、二度であった。
久秀は、終いの一行をしばらく見ていた。
母は、戦の話を書かぬ人である。書かぬが、堺の裏町の縁側には、京と摂津と大和のあいだを行き来する坊主どもが立ち寄る。五年前に比叡が京の法華の寺を焼いたとき、落ちてきた者らをどの寺のどの家へ幾人ずつ入れるか割り振ったのが、この人であった。
――ようけ、というのは幾人じゃ。
京を出るのは、まず銭のある者である。次が、寺の口を頼れる者。頼る先のない者は、最後まで残る。母の縁側でその話が出るほどとなれば、寺のほうが受け入れかねている。
柿を一つ取って、食った。
甘い。干したもの特有の、噛むほどに奥から出てくる甘さであった。
河内では、いまごろ蔵の軒に柿が下がっているはずである。串に刺して、ずらりと。年を越して、正月のころが食べごろになる。
その柿を、木沢は食う。
食って、三月に死ぬ。
久秀は、二つ目に手を伸ばして、やめた。
*
――霜月も、十日を過ぎた。
甚内が、河内から戻った。
「……蔵の軒に、柿が下がっておりましてござります。串に刺して、ずらりと」
訊いてもおらぬことを、この男は言った。
言いながら、目だけが一度、机の端へ動いた。紙にくるんだ柿が、まだそこに置いてある。
久秀は、うむ、とだけ言った。
思うていたとおりである。思うていたとおりであることが、この日は応えた。
そのあいだに、京から下知が来なくなっていた。
停戦の調停も、恩賞の沙汰も、相論の裁許も、すべて止まった。摂津の郷から上がってくる訴えに、判を押す者がいない。訴えは、越水に溜まった。
井堰の水を争う二つの村。境の木を伐った伐らぬ。去年の年貢の残り。どれも小さい話で、どれも当人にとっては一年の暮らしが懸かっている。
――公方様は、京におられるあいだ、兵をお持ちでなかった。
持っておられぬのに、下知は効いていた。皆が効くと思うておったゆえ、紙一枚が兵の代わりをしていた。
その公方様が京をお出になった途端、紙は紙になった。
久秀は、机の端に積んだ訴えの束を見ていた。去年までは、同じ紙が一つの村の田を動かしていた。紙が変わったのではない。紙を書く人が、京からいなくなっただけである。
近江から管領様の文が来たのは、霜月の半ばである。
書院であった。人払いで、長慶は脇息に肘を置いて火桶の炭を見ている。
「兄者。……近江へ参れ、と」
「はい」
「木沢を将軍家の敵といたすゆえ、兵を出せということじゃ」
炭が、小さく鳴った。
「父も、祖父も、管領のために兵を出した」
長慶の声は平らである。平らであることが、この主の怒りかたであった。
「出して、父は死んだ」
「……はい」
「管領のための戦は、二度で足りた」
言い終えて、長慶は火桶から目を上げなかった。
上げぬまま、こう言った。
「……あの訴えに、われらの名はなかったな」
「ござりませなんだ」
「囲んだのは、われらもじゃ」
久秀は、答えなかった。
「同じ紙で動いた。同じ谷におった。名が一つ違うただけで、われらが謀反人になっておる」
長慶は、火箸を炭へ挿した。挿してから、抜くのを忘れている。
「あれは、こちらへも向く」
平らな声が、このときだけ平らでなかった。
久秀は、頭を下げた。
下げたまま、算えていた。
いま出れば、木沢を討つのは三好になる。討てば手柄になり、手柄になれば次にまた呼ばれる。呼ばれるたびに人が減り、減ったぶんは戻ってこない。
出ずにいれば、誰かが討つ。
――遊佐じゃ。
木沢の足は、二本あった。一本は管領様、一本は畠山である。管領様のほうは、先月、折れた。
残る一本は、畠山から出ている。
遊佐の足も、同じところから出ていた。
一つの根から、二本は養えぬ。片づけたいのは去年や一昨年の話ではあるまい。片づけられずにいたのは、あの男のもう一本が管領様につながっていたからである。
「……いま少し、御返事を遅らせましょう」
久秀は、そう申し上げた。
「遅らせて、どうする」
「相手が、増えまする」
長慶は、はじめてこちらを見た。
見て、しばらくしてから、うむ、と言った。
「そなたは、ときどき、明日の天気を知っておるような物言いをする」
久秀は、答えなかった。
「――兄者」
「はい」
「知っておるなら、それでよい」
長慶は、それだけ言った。
訊かぬかわりに、そう言うたのである。
久秀が退がろうとしたとき、長慶が火箸を置いた。
「一庫は、四十七日じゃった」
「……はい」
「塩川ひとりを潰しにかかって、河内を呼んだ。呼んだゆえ、摂津の国人まで河内の名の下に並んだ」
炭が崩れて、灰が落ちた。
「一つを潰しにかかると、残りが手を結ぶ」
平らな声である。思いつきではない。四十七日のあいだ考えていたことを、いま初めて口に出したのであった。
「……次は、結ばれぬようにしてから、潰す」
久秀は、畳へ手をついた。
いま己がやっているのは、それである。あの男の足を一本ずつ外し、繋がる先を無くしてから、余所の手で潰させる。書付を読んで、そこまで算えた。
この主は、書付を持たぬ。
持たずに、同じところへ来ている。
――ならば、いつか。
久秀は、その先を考えなかった。考えぬことにしたのではなく、考えかけて、やめたのである。
手をついた指が、少し冷えていた。
*
その夜、帳場で灯を寄せた。
墨を下ろす。
一、木沢 京ヘ ――訴エ 出ル
一、榎並ノ名 ――訴エノ中ニ アリ
一、管領様 ――使者ヲ 成敗セヨト
一、公方様 近江ヘ
一、京 主ナシ
もう一行空けて、いちばん下に、字を一つぶん小さくして。
一、残ル 一行 ――誰モ 担ガズ
それだけ書いて、久秀は筆を止めた。
四つは済んだ。残る一つは、これから起きる。
――いや。
書付には、越水 囲マル、とあった。西宮 火、ともあった。
その二行は、起きなかった。
起きぬままで、あとの四行が起きている。
書付が当たっているのではない。当たる行と、当たらぬ行とが、まざって並んでいるだけである。
どれが当たるかは、この書付を書いた者にも分かるまい。
――わしが触れた行から、順に死んでいく。
起きねば、来年の三月は来ない。
書かなかった一行が、もう一つある。
――結ばれぬようにしてから、潰す。
書けば、いつか誰かが読む。
もう一行、名を伏せて書いた。
一、◯◯◯◯・◯◯ 三点
一、借入 二点 ――二年にて返す
残り 一点
書いてある字だけでは、何を買うたか読めぬ。
読める者が、まだいてはならぬ。
墨を置いて、灯を消した。
京には、いま、誰の下知も届いていない。
――紙が、一枚も出てこぬ。
出てこぬあいだに、幾人が動くであろうか。
■用語解説
・動座…公方や貴人が居所を移すこと。戦乱を避けて京を離れる場合にも用いられ、語の丁重さと実態の落差が、そのまま権威の傾きを示した。




