第21話(二)「梟雄、京へ」
――神無月(十月)四日である。
久秀は、二人を呼んだ。
山本勘助と、明智十兵衛光秀である。勘助は去年の師走に、光秀は今年の如月に買った。片方は片目の潰れた牢人で、片方は美濃から来た二十五の男である。
部屋には火桶が一つきりで、灯を寄せた側だけが暖かい。勘助は火に近いほうへ、光秀は遠いほうへ膝を揃えている。譲ったのではなく、そこが下座であった。
久秀は、前置きを言わなかった。
「河内の御方は、京へ訴え出られる」
二人とも、顔色を変えなかった。勘助は、なぜ分かるかを訊かぬ男である。光秀は、訊きたいのを抑えている顔をした。
「……お訴え、にござりまするか」
光秀がそう言った。声が、やや高い。
高かったことに己で気づいたらしく、膝の上で指を組み直した。
「攻め上られるのでは、なく」
「訴え出る」
「なにゆえ、攻めぬのでござりましょう。河内に三千、大和にもお手はござりまする」
答えたのは、勘助であった。
「田が、ござらぬ」
光秀が、そちらを見た。
「あの御方は守護でもなく、守護代でもござらぬ。管領様の御近習であり、畠山家の被官でもある。どちらも、上から預かった役目にすぎ申さぬ」
勘助は、杖の先で床を一度だけ叩いた。
「拙者は先年、大和を歩き申した」
「井堰の水を、二つの村が争うておってな。刈り入れ前で、鍬を持って睨み合うておった。死人の出る顔にござった」
「……して」
「紙が、一枚参った。上の村が三日、下の村が四日と書いてある。それだけにござる。兵は一人も参らぬ。使いの坊主が読み上げて、帰っていった」
「治まったのでござるか」
「その日のうちに」
光秀が、黙った。
「拙者は下の村の年寄りに訊き申した。なにゆえ従う、侍が来て斬るわけでもあるまい、と。……皆が、そうすると思うておるゆえ、と申しました」
炭が、鳴った。
「その紙に判を押しておったのが筒井にござる。押させておったのが、河内の御方じゃ。力で伏せたのではござらぬよ。皆がそうなると思うておるところへ、名を置いておられただけにござる」
「名が、退けば」
「翌日から、聞き申さぬ」
光秀は、すぐには言わなかった。火から遠い側は、息が白い。
「……では、あの紙を利かせておったのは、判でも、兵でもござりませぬな。皆がそう思うておる、それだけにござるか」
「そのとおりじゃ」
久秀は湯呑を持ち上げた。持ち上げて、飲まずに置いた。
「……なれば、それには主がない」
誰の物でもないものには、誰が手を入れてもよい。
勘助は、杖を膝の脇へ寝かせた。
「足が二本ある、と人は申しますがな。……二本とも、借りた足にござる」
光秀の指が、膝の上で止まった。
この男は、黙るとき目だけが動く。
「――では、その一本が」
「折れかかっておる」
久秀が、そこで口を入れた。
「先月、管領様の御下知を待たずに、囲みを解かせた。囲めと申し立てたのは、榎並じゃ」
光秀は、しばらく黙っていた。
黙ってから、低く言った。
「……借りた足で、三千を養うておられる」
声が、わずかに硬くなった。
この男は、理の通らぬものを見ると、こうなる。
膝の上の指が袴の布を一度、掴んだ。掴んで、すぐに離した。
「……折れかけた足で立つには、上を掴むよりほかござりませぬ」
「うむ」
「公方様の袖を掴んでしまえば、管領様は手が出せませぬ。出せば、公方様に手をかけたことになりまする」
「望んで京へ行くのではない」
久秀は、そう言った。
「行かねば、死ぬ」
光秀はそこから先を、己で歩きはじめた。
「……お訴えの中身は、榎並の御方の成敗にござりましょう」
「ほう」
「囲めと書いた紙は、管領様の御下知にござりまする。下知に従うた者は、咎めようがござりませぬ」
「では、咎められるのは」
「その下知を、書かせた者にござる」
餌を置いた者の名を、この男は言い当てた。
久秀は、答えなかった。
――文月の上田も、紙は京から来た。
引き出したのは、己である。
下知を書かせた者を訴える、というその道理は、書かせた者の名を選ばぬ。
「訴える先は」
「公方様」
「されど、そのお訴えは、届いてしまえば公方様がお困りになりまする。どちらへ傾いても、傾かなかった側が敵になりまする。……ゆえに、お預かりになりましょう。預かって、管領様へ差し戻されまする」
「差し戻されて」
「管領様が、お読みになりまする」
部屋が、静かになった。
「己の御側近を成敗せよと書いた紙を、当の管領様がお読みになるのでござります。……読まれた日から、河内の御方は謀反人にござりましょう」
久秀は、答えなかった。
答えずに、この男の顔を見ていた。
書付を持たぬ者が、二日目に己の足でそこまで着いたのである。
「されば」
光秀は、膝を進めた。
「そのお訴えの写しを、榎並へ先に届けてはいかがにござりましょう。読まれる前に読ませておけば、榎並の御方は必ず管領様へ駆け込まれまする。……駆け込ませたほうが、早うござる」
*
勘助が、そこで杖の石突を床へ突いた。
音が一つ、鳴った。
「――写しは、いかん」
光秀が、そちらを見た。
「なにゆえにござる」
「写しは、まことか偽かを詮議されまする」
勘助は、片方の目で光秀を見ている。
「本物と申せば、どこで手に入れたと訊かれ申す。偽物と申されれば、それまでにござる。どちらへ転んでも、こちらの名が出る」
「……なるほど」
光秀は、素直に頭を下げた。
この男は退がるのが早い。負けを認めるのが早いのではなく、直したほうが早く着くと分かると、そちらへ行くのである。
「では、いかがいたしまする」
「文言を、一つだけ」
勘助は、そう言った。
「お訴えの中に、榎並の御名がござろう。その一句だけを、榎並の御耳へ入れ申す。紙は要らぬ。人の口でよい」
久秀は、指の腹で膝を二度打った。
――一句なら、嘘にならぬ。
訴えが出ることは、まことである。訴えに政長の名があることも、まことである。まことを一つだけ切り取って渡す。勘助が去年から使っている手であった。
「……よい手じゃ」
久秀は、そう言った。
「されど、届け先が違う」
*
二人が、こちらを見た。
「榎並へ直に入れれば、誰が入れたと訊かれる。あの御方は、こちらを疑うておられる」
中嶋の陣で、榎並――三好政長は、馬上から「筆持ちが」と吐き捨てた。一庫の川原では床几を四つ据えて、三つしか埋めなかった。
だから、こちらから何かを届ければ必ず引っかかる。
「堺じゃ」
久秀は、そう言った。
「あの御方は、月に幾度も堺の座に出ておられる。座で聞いた話なら、出どころが立たぬ。堺は、誰の家中でもないゆえ」
光秀の目が、動いた。
「……納屋衆の口へ、入れると」
「入れるのではない。並べておく」
久秀は、そう言い直した。
「訴えが出るという話と、その中に榎並の御名があるという話を、堺で商いをする者が知っておればよい。商人は、聞いた話を売る。売った先に、あの御方がおられるだけじゃ」
勘助が、杖を引いた。
「――こちらの名は、どこにも出ませぬな」
「出ぬ」
久秀は、うむ、と言った。
「一文も遣わぬ。人も、一人も殺さぬ」
光秀が、頭を下げた。
下げてから、顔を上げずに言った。
「……殿は、なにゆえ、お訴えが出ると御存じにござりまするか」
黙っていてもよかった。
黙れば、この男が二度訊く男かどうかが分かる。分かるかわりに、疑いが一つ残る。疑いは、置いておけば増える。
試すのは、安いようで高い。
「そなたが、いま二日で着いたところじゃ」
久秀は、そう言った。
「田を持たぬ。足は二本とも借り物。片方が折れかかっておる。そこまで並べば、行き先は一つしかあるまい。……そなたは二日で着いた。こちらは、先月から並べておっただけじゃ」
光秀はしばらく考えて、頭を下げた。
「……浅慮にござりました」
道理で答えたものを、人は憶えぬ。腑に落ちたことは、落ちたきり出てこぬ。
憶えられるのは、答えてもらえなかったことのほうであった。
*
その夜、柳田甚内を呼んだ。
庭から直に幕の外へ来て、膝をつく。顔は上げない。足袋を履いていなかった。
「二つ、流せ」
「はっ」
「一つは、河内の口へ。三好は、摂津から動かぬ」
「……それは、まことにござりまするな」
「まことじゃ」
嘘を流せば、いずれ知れる。知れれば、次に流したものが効かなくなる。この男に流させるのは、いつでも本当のことであった。
「いま一つは、堺の座へ。河内の御方が公方様へ訴え出られる、そのお訴えに榎並の御名がある。……それだけでよい」
「大小路の、湯屋にござりまするか」
久秀は、目を上げた。
「あそこの二階へ、荷の仲買が朝から集まりまする。榎並の御用を勤めておる者が、三日に一度は上がってまいります」
「……そなたは、そこまで見ておるか」
「湯屋は、皆、裸にござります」
甚内は、顔を上げずにそう言った。
「裸の者は、よう喋りまする」
「日は」
「訴えの出る前に届くように」
甚内はそこではじめて顔を上げた。上げて、すぐに下げた。
「……承知」
庭の闇へ戻っていく。足音がしないのは、足袋を履いていないからである。
久秀は、灯の芯を切った。
――うしろの怖いものを、消してやる。
上を押さえに行くには、うしろが空いていなければならぬ。
空けてやれば、行く。
行けば、訴える。訴えれば、管領様が読む。読めば、切れる。
切れた男は、独りになる。
――一庫を、獲らずにおいてよかった。
獲っておれば、あの男は摂津の縁を残らず失っていた。失った者は、訴えの連名すら集められぬ。連名の立たぬ訴えは、訴えにならぬ。
久秀はそこまで算えて、算えたことを帳面に書かなかった。
*
――神無月八日である。
河内から人が出た、という報せが入った。
兵ではない。使者と供の者ばかりで、数は五十に足りぬという。木沢長政みずから馬に乗り、山城の南から京へ入った。
摂津の国人が三家、連名に加わっている。
三宅の名が、そのなかにあった。
「――伊丹は」
久秀は、そう訊いた。
訊いてから、訊く必要のないことを訊いたと気づいた。
使番は怪訝な顔をして、「伊丹、にござりまするか」と言った。
「……よい」
久秀は、手を振った。
連名は、三家である。
書付では、もっと厚かったはずであった。




