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第21話(一)「梟雄、京へ」

 ――天文十年(一五四一年)神無月(十月)三日である。


 一庫の囲みを解いて、四日になる。


 河内の勢は引き上げたきり、摂津へは戻ってこない。越水は静かなもので、西宮の窪地では竈が二つ、変わらず煙を上げている。


 その静かなのが、落ち着かなかった。


    *


 その夜、朔を呼んだ。


 灯を一つだけ入れた部屋である。少年は下座に膝を揃えて座り、呼ばれた用を訊かなかった。


 膳の下がったばかりの刻限で、部屋にはまだ味噌の匂いが残っている。久秀は、脇へ寄せてあった小皿を指先で少年のほうへ押しやった。


 焼いた麦の餅が、二つ載っている。


 「食え」


 朔は一つ取り、両手で持ったまま、食わずにいる。


 「――一庫は、落ちなんだ」


 「はい」


 「書付は、どうであった」


 朔は、少し間を置いた。


 初めの一言は、決まっている。


 「まことでございました」


 久秀は答えなかった。嬉しそうにも、しなかった。


 一年前、この男はその書付を一点で買っている。安いと思って買い、当たったのである。囲みを解かせる者の名は木沢とあり、そのとおりになった。訴え出る者の名は二つあって、片方は動き、片方はこの世にいなかった。


 伊丹である。


 去年の葉月、この男は書付を一枚こしらえて、摂津の一つの家を消した。当主は腹を切り、家は断絶した。その家が出せた兵は七百であった。一庫の後詰が書付の数に届かなかったのも、同じ七百のぶんである。


 名は、合った。


 数が、合わなかった。


 「されど」


 朔が、そう続けた。


 「川筋は、もう、ずれ始めております」


 灯の油が、小さく鳴る。


 「……どこじゃ」


 朔は湯呑を持ち上げ、口をつけずに置いた。


 「西宮にございます」


 久秀は、動かなかった。


 「この神無月のうちに、あの御方の勢が越水を囲みまする。囲んで、西宮の町に火を放って回りまする。書付には、そう書いてございました」


 「うむ」


 「その火を持って来るはずだった手が、この世におりませぬ」


 細い輪では、囲みの先まで手が回らぬ。


 「――同じ一つのことが、後詰を細らせ、火を消したか」


 「はい」


 朔は、膝の上で布目を二度なぞった。


 (……この人は、いちばん高く買われたところを、いちばん先に壊す)


    *


 久秀は、何も言わなかった。


 言わずに、懐から紙を出した。


 一年前に買った、その書付である。折り目のところが指の腹に引っかかった。開いて、灯を寄せる。


 朔は、それを見ている。


 この人はいま、礼を言うか、値切った話をするかであろうと思っていた。当たったものの話をしているのだから、そのどちらかである。


 だが、この人は紙の下のほうを読んでいた。


 一庫の顛末は、上の三分の一で終わっている。その下に、まだ続きがあった。


 ――囲みを解いたのち。


   越水 囲マル


   西宮 火


   木沢 京ヘ  訴エ出ル


 久秀は、その四文字を二度読んだ。


 攻め上るのではない。訴え出るのである。


 三千の兵を河内に据えた男が、京へ物を頼みに行く。


 ――手ぶらで行くのではあるまい。


 行かねばならぬのだ、と分かるまでに、少しかかった。


 久秀は、指をその下へ滑らせた。


   管領ト 切レル


   公方様 近江ヘ


   誰モ 担ガズ


   来年 三月十七日 河内太平寺 木沢 討死


 灯の油が減って、芯の先が焦げた。久秀は指で芯を摘み、爪の先で切った。指に脂が残る。その指を、袴の膝で拭いた。


 一年前、この書付を一点で買ったとき、この男は初めの数行しか値打ちがないと思った。一庫の囲みが解ける、それだけの話だと思ったのである。


 読み進めて、下のほうへ来て、値の付けかたを間違えたのは向こうだと知った。


 この一点で、あの男の一生が終わりまで書いてある。


 ――そして、殿の上から一つ消える。


 管領様の下に、あの男と並ぶ者はいない。三好が摂津でどれほど伸びたところで、あの男が河内にいるかぎり、上には上があった。


 水無月の書院で、殿はそれを一言だけ口にしておられる。


 ――河内の木沢に、頭を下げずに済む。


 あのときは、望みとして言われた言葉であった。


 その望みに、日付が付いている。


    *


 「――そなた」


 「はい」


 「あの男は、いま、行くか」


 朔は、答えるまでに間があった。


 この人が何を算えているかは、たぶん分かっている。


 もとの筋では、あの御方はこの神無月のうちに越水まで来る。来て囲んで、西宮を焼いて、それから北へ向かう。その一往復が、名を摂津にまで届かせるはずであった。


 その一往復が、丸ごと無くなろうとしている。


 「……足りませぬ」


 朔は、そう言った。


 「兵は返されましたが、解いてはおられませぬ。行くお心は、ございましょう。されど、いま北へ出れば、うしろに三好が残りまする」


 「わしが、追うと思うておるか」


 「思うておられましょう。……先月、押されたばかりにございます」


 久秀は、答えなかった。


 「うしろの怖い者は、動けませぬ。動かぬうちに冬が来て、冬が明ければ、管領様のほうが先に動きまする。……そうなれば、あの御方は河内で討たれまする」


 「三月ではなく、か」


 「はい。……別の月に、別の死にかたをいたします」


 朔は、そこで顔を上げた。


 「――殿が手を打たれるほど、早うなりまする」


 部屋が、静かになった。


 外で、風が戸を鳴らした。


 久秀は、紙を畳まなかった。畳まずに、その行を見ている。


 ――わしが、消した。


 去年、伊丹を潰した。潰したぶんだけ後詰が細り、細ったぶんだけ、あの男の名が立たずにいる。


 一点で買った書付を、買う前に打った己の手が、いま食い破ろうとしていた。


 久秀は、小皿の残りの一つへ目をやった。


 ――火は、名を立てるためのものであった。


 西宮が焼ければ、あの男が摂津まで手を伸ばしたことになる。伸びたと見れば、摂津の国人は名を貸す。名の貸し手が厚ければ、訴えは訴えとして立つ。


 その火を持って来るはずの手が、もう無い。


 ――なれば、こちらで焼くか。


 焼けば、竈が二つ焼ける。人が十七人おり、松の根方に石が据わっている。


 久秀は、そこで指を紙から離した。


 こちらから、火は出さぬ。


 ――うしろを、空けてやる。


 名は薄いままでも、行けはする。行きさえすれば、訴えは出る。


 ――助けねば、死なぬ。


 「――下がってよい」


 「はい」


 朔は頭を下げ、廊下へ出た。


 出るとき、この人がまだ紙を見ているのが障子の隙から見えた。


 (……手を、打たれる)


 打てば、また狂う。狂えば、次の日付が動く。それは、つい今しがた申し上げた。


 申し上げて、この人は聞いた。聞いたうえで、打つのである。


 朔は、廊下でもう一度言うことをしなかった。


 二度言えば、それは商いではなくなる。


 小皿の餅は、一つだけ減っていた。

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