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第20話(六)「一庫城へ」

 ――長月(九月)二十八日である。


 本陣の幕の内は、狭かった。


 濡れた革の匂いがする。具足の草摺くさずり籠手こてを外して置いてあるところから立つ匂いで、それに松明の脂の匂いと、男どもの汗の匂いが混じっている。


 外では、雨が幕を叩いていた。


 重い音である。


 長慶は、上座で脇息に肘を置いていた。


 「……この陣は」


 そこまで言って、切った。


 「この陣は、もう」


 二度目も、そこで切れた。


 三度目に「囲みを」と言いかけて、また止まった。


 三度とも、同じところで止まっている。


 落ちるはずの城を、落とさずに退く。この座の者は、みなそう思っている。その理由を、この主は軍略の言葉で言えぬのである。言えるものが、政の言葉しか無いからであった。


 「あと一押しじゃ」


 波多野秀忠が言った。


 「二の木戸は取っておる。押せば落ちる」


 久秀は、文箱から紙を三通出した。


 出して、長慶の前へ並べた。


 「先だって、押す日をお諮り申しました」


 三通とも、返事である。


 「政長様は卯の刻。波多野様は辰の刻。池田様は、日が高うなってからと」


 誰も、何も言わなかった。


 波多野が、ひとつ舌を打った。


 「――押す日が、三通りにござりまする」


 「後詰など、二千と聞くぞ」


 池田信正が言った。


 この男が言うと、たいてい正確である。


 「二千で、この陣が動くか」


 久秀は、うしろへ声をかけた。


 「絵図を」


 勘助が、幕の隅から出てきた。


 懐から絵図を出す。畳んだ折り目が深い。ずっと懐に入れたまま、出されなかった紙である。


 卓の上へ広げた。


 城の段が三つ。切岸。堀切。そして二の木戸から上へ、細い線が一本だけ引いてある。


 「これは」


 「道にござる」


 勘助は、その線を杖の先で押さえた。


 「ここから上は、二人が並べば肩が触れまする。……三十人ずつにござる」


 池田が、絵図を覗きこんだ。


 「三十」


 「三千でも、十万でも、三十人にござる」


 部屋の音が、少し落ちた。


 ――落ちる城を、落とさずに退くのではない。


 落ちぬ城を、落ちると思うたまま退くのである。


 久秀は、それを言わなかった。言えば、この一月半が丸ごと無駄であったと言うことになる。誰も、それは聞きたくない。


 政長は、何も言わない。


 床几に腰かけ、膝の上で手を組んでいる。


 言う必要が無いのであった。あの陣の煙は三日前から一つ減っており、荷は昨日のうちに纏まっている。この評定で何が決まろうと、あの家の支度は済んでいた。


 久秀は、もう一つ紙を置いた。


 書役の帳である。


 開いてある頁の、いちばん下に二字だけあった。


   無之これなし


 「水の樽にござりまする」


 久秀は言った。


 「腹を下して寝ておる者、十九。増えかたは、日に一人か二人」


 長慶が、返書の一通を指で突いた。


 日付のところである。


 突いて、そのまま少し黙った。


 「――では」


 波多野が、床几を鳴らして立った。


 「退くのはよい。だが、手ぶらでは帰れぬ」


 久秀は、顔を上げた。


 「麓の者どもを、連れて帰る」


 久秀の返事が、半拍、遅れた。


 遅れたことに、この男は自分で気づいた。


 乱取りである。囲みを解いて退くとき、麓の郷から人を曳いていくのは、この世の当たり前であった。奉公人にも売り物にもなる。一月半、飯を食わせて何も得ずに帰る家にとって、それが唯一の取り分になる。


 止める理屈が、とっさに出てこなかった。


 止める権利は、もっと無い。


 「……人を取れば」


 久秀は言った。


 「退き足が、鈍りまする」


 「鈍らせぬように曳く」


 「山道にござりまする。曳く者ひとりに、番が二人要りまする。百曳けば、三百が手に取られまする」


 「三百なら、出せる」


 「……追い討ちを、受けまする」


 波多野が、こちらを向いた。


 「追うてくる者がおるか」


 久秀は、答えられなかった。


 「二千ぞ。しかも、まだ谷にも入っておらぬ」


 そのとおりであった。


 久秀は、目の端で麓のほうを見た。見えるはずもない。幕の内である。


 それでも、この男の頭には数があった。山へ入っている者が百と四、五十。町は女子供を入れて四百。


 あの数が、坂を曳かれて丹波へ行く。


 「――よい」


 長慶が言った。


 短かった。


 「人は、取らぬ」


 波多野が向き直った。


 「殿。それは」


 「取らぬ」


 長慶は、脇息から肘を上げた。


 「囲うて、落とさず、人だけ曳いて帰ったと言われては、次に誰も出てまいらぬ。……この陣で失うたものは、日と兵糧じゃ。それだけにしておきたい」


 波多野は、しばらく立っていた。


 立っていて、それから座った。


 「……では、帰りの兵糧を」


 「出す」


 長慶は久秀のほうを見もせずに言った。


 久秀は、頭を下げた。


 下げながら、口の中で算えた。丹波までの日数と、九百の口と、馬の数と。


 ――銭で、払うか。


 人を取らせぬかわりに、銭で払う。結局そこへ落ちるのである。


 だが、久秀は安堵していた。


 安堵していることを、この男は自分に認めなかった。


 評定が果てて、皆が立った。


 立ちぎわに、長慶が言った。


 「兄者」


 「はい」


 「退いて、どこへ入る」


 「越水にござる」


 長慶は、少しのあいだ何も言わなかった。


 「……そうか」


 それだけである。


 退き口の順は、政長の家が先であった。


 誰が決めたのでもない。あの家の荷が先に纏まっていたので、そうなった。


 殿軍しんがりは、三好が引き受けることになった。


 これも、誰が言い出したのでもない。順に決めていくと、最後に残るのが三好であった。


 長頼は、それを聞いて「承知」とだけ言った。


    *


 ――長月二十九日である。


 雨であった。


 朝から降っていて、昼を過ぎても止まぬ。幕を畳む者の草鞋が、土を掘り返しながら進む。荷が重くなる。


 陣払いというものは、囲むときより難しい。うしろを見せて坂を下りるのであり、追われれば、そこで人が減る。


 久秀は、坂の下で荷駄の列を見ていた。


 杖の音がした。


 「殿」


 勘助である。


 雨に濡れて、片方の目の脇から水が落ちている。拭わない。


 「焼けとは、もう申しませぬ」


 久秀は、そちらを見た。


 「一つだけ、申し上げておきまする」


 勘助は、杖を突き直した。


 「城は、山が養うておるのではござらぬ」


 雨が、具足の草摺を叩いている。


 「麓が、養うておりまする」


 久秀は、しばらく黙っていた。


 黙って、麓の町のほうを見た。


 雨で煙は見えぬ。見えぬが、そこにあるのは分かっている。


 「――理は、正しい」


 勘助が、顔を上げた。


 二度目である。一度目は、一庫の下知が読み上げられた日であった。


 「あの山が、欲しい」


 久秀は言った。


 「……城で、ござりまするか」


 「城ではない。山じゃ」


 勘助の目が、いちど谷のほうへ動いた。動いて、戻ってきた。


 「……多田に、ござるか」


 久秀は答えなかった。


 答えぬことが、答えであった。


 この男は、去年の暮れから猪名川筋の古間歩を歩いている。砦の縄張を引き、水抜きの溝を三筋通した。一庫の下知が読み上げられた日に、この男が半年ぶりに己から顔を上げて言うたのは、「多田の、隣にござる」という一言であった。


 もう、読み当てている。


 明かすのではない。読み当てていたことを、認めてやるのである。


 「麓は、焼かぬ」


 久秀は言った。


 「焼けば、欲しいものが無うなる」


 勘助は、それきり何も訊かなかった。


 訊けば、そこから先を言わせることになる。言わせて、言えぬと返されるのが、この男にはいちばん応える。


 久秀は、続けた。


 「そなたの申したことは、いずれ使う」


 雨の音が、少し強くなった。


 「……今日ではない」


 「絵図を、一枚」


 勘助が、顔を動かした。


 「……この陣の絵図なら、先ほど」


 「そのではない」


 久秀は、坂の上を見た。


 二の木戸の下の、猫の額ほどの平らなところが、雨でけぶっている。


 「次に囲むときの絵図じゃ」


 勘助は、動かなかった。


 雨の中で、しばらく動かなかった。


 それから「……承知」と言った。


 言って、杖の石突を土に一度だけ突いた。


 突いた穴を、この男は埋めなかった。


    *


 ――同じ日の、暮れ方である。


 雨は、坂を下りきったあたりで上がった。


 上がると、こんどは霧が下から湧いてきた。朝の霧は谷から上がり、夕の霧も谷から上がる。この山は、そういう山であった。


 久秀は、馬を止めた。


 止めて、振り返った。


 麓の町から、煙が立っていた。


 囲みが解けたので、家々はもう夕餉を炊いている。


 久秀は、数えた。


 ――七十と、三。


 千五百に、退かされたのではない。


 三千六百が、内から解けたのである。


 山は、まだそこにある。


 囲んで、解いて、手には入らぬ。


 ――次は、囲まぬ。


 久秀は、馬を回した。


 回してから、一度だけ、西の空を見た。


 煙は、上がっていない。


 ――まだ、上がっていない。


    *


 越水へ入ったのは、翌る日の夜であった。


 灯を寄せて、久秀は帳面を繰った。


 繰りながら、葉月二日の頁で指が止まった。堺で三百貫を出した日である。買うたのは十日であった。


 十日は、来た。


 来て、過ぎた。囲みは、四十七日である。


 墨を下ろす。


  一、一庫 囲ミ 解ク  ――四十七日

  一、囲ミ 三千六百 馬 二百

     三好 千四百 波多野 九百 政長 八百 池田 五百

  一、後詰 千二百ヨリ 千五百

  一、大手ヨリ 上 道 一本  ――三十人ヅツ

  一、兵糧 三家 別々  ――炊ク刻限 三通リ

  一、堺ノ荷  ――一日モ 遅レズ

  一、水ノ樽  ――十日ニテ 尽ク

  一、腹 十九  ――水

  一、勘助 申ス  ――麓ガ 城ヲ 養ウ


 勘助の行の下に、字を一つぶん小さくして、久秀は書き足した。


     断ツニ 及バズ


 行を空けた。


  一、木沢ノ後詰  ――書付ニ 名アリ

  一、伊丹ノ名  ――世ニ 無シ


 もう一行空けて、いちばん下に、小さく。


  一、名ハ 合ウ 数ハ 合ワヌ


 書いて、久秀は、筆を、止めた。


  一、消費なし

  一、借入 二点  ――二年にて返す

  残り 二点


 墨を置く。


 窓を開けると、西の方角が見えた。


 闇である。


 闇のほかには、何も見えなかった。

■用語解説

評定ひょうじょう…主だった者を集めて事を議し、決める場。陣中の評定では、糾合された家々の思惑がそのまま座の並びに出た。

陣払い(じんばらい)…陣を引き払って退くこと。囲みを解いての陣払いは追撃を受けやすく、殿しんがりの差配で損害が大きく変わる。

乱取り(らんどり)…戦場やその周辺で人や物を奪うこと。とりわけ人を曳いて連れ帰ることを指す。奉公人として使われ、売られることもあった。当時は珍しくもない戦の取り分であり、禁じるほうが例外であった。

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