第20話(五)「一庫城へ」
――長月の半ば過ぎである。
池田の陣では、原田のことを口にした。
原田は、あの兵で手薄にはなりませぬかな――と。
池田は湯呑を持ったまま、少し考えた。
考えて、言った。
「ならば、いっそ早う落として、早う帰るがよいのう」
久秀は、言葉を継がなかった。
継げなかった、というほうが近い。
この男へは、退く話を入れたつもりであった。入れた先で、押す話になって出てきた。同じ材料を入れて、逆のものが出てくる釜があるのである。
「松永殿」
池田が、湯呑を置いた。
「おぬしは、退きたいのか」
久秀は、池田を見た。
悪気は、無い。この男の目には、探るような色が一つも無かった。無いから、まっすぐ来る。
「……兵糧の心配を、しておりまする」
「ははは」
池田は立ち上がった。
「おぬしは、いつも荷の話じゃ」
翌る日、池田の使番が南へ出た。
その次の日も出た。
二度とも、原田の方角である。
久秀は、それを幕の外から見ていた。
効いたのである。
――だが、わしの言うたことが効いたのか。
この男が己で思いついたのか。
どちらとも、分からなかった。
同じ結果でも、道筋が読めぬということはある。読めぬ道筋は、次に同じ手が効くという約束をしてくれない。
久秀は、そこを算えに入れ直した。
同じ話を、ほかの陣へも回した。
久秀は、それを話し声で確かめたのではない。
波多野の陣で、駄馬に荷を積んでいた。
積みかたが、片寄っている。前へ寄せて、うしろを空けてあった。帰り道で人を乗せるでも、途中で荷を足すでもなければ、あんな積みかたはせぬ。
――道中で、増やすつもりじゃ。
そして三日目の朝、政長の陣の煙が、一つ減った。
久秀は、幕の外で三度、数え直した。
昨日まで四つ立っていた炊きの煙が、三つになっている。釜を一つ、仕舞ったのである。
押す日の相談は、まだ済んでいない。
済んでいないうちに、あの家は荷を纏めはじめていた。
その日の午、使番が本陣から来た。
「三宅の御方が、公方様へ直に訴え出られたよしにござりまする」
「なんと訴えた」
「この囲みは、不法である、と」
守護を越え、守護代を越えて、じかに将軍へ持っていったのである。訴えが通るかどうかは、この際どうでもよい。筋を飛び越えたということ自体が、相手の非を天下へ知らせる手だてであった。
「それから」
「木沢は、後巻の構えにござる、と」
久秀は、言い直した。
「――囲うておる者の、うしろへ回る、ということじゃな」
「さようにござりまする」
使番は、そこで少し声を落とした。
「それと、三宅の使いが動いておりまする」
「どこへ」
「……こちらの陣へも、入っておるよしにござる」
久秀は、それを聞いた。
聞いて、何も言わなかった。
囲んでいる側の陣へ、囲まれている側を助ける家の使いが入っている。それを、誰も追い出していない。
*
夜になって、雨が来た。
長月の雨は冷たい。幕を叩く音が重く、地面へ落ちるまでの音がしなかった。
久秀は陣屋へ入った。
土間に、穴が三つある。
杖の石突の穴であった。乾いて、縁が少し崩れている。あの男は、いつもならこれを足で埋める。埋めずに行った日から、もう一月が経っていた。
――あの男は、明日の霧を当てた。
久秀は、床几に腰を下ろした。
――わしは、一年前の書付で当てた。
文箱を開けた。
湿った匂いがする。紙と、乾いた墨の匂いであった。
書付を出す。
一年、懐と文箱を行き来しただけの紙である。開くとき、折り目のところが指の腹に引っかかった。
灯を寄せた。
まず、名があった。
囲みを解かせる者の名である。
――木沢。
合っている。
久秀は、その字をしばらく見ていた。見ていても、嬉しくはならなかった。一年前、この書付を一点で買ったとき、この男は「安い」と思った。安いものが当たったのである。
目を、次の行へ移した。
訴え出る者の名が、二つ書いてある。
三宅
伊丹
指が、止まった。
紙の上で、二つ目の名のところに止まったきり、動かなくなった。
伊丹。
去年の葉月である。この男は、書付を一枚こしらえた。人の花押を写し、人の言葉を並べ、それを人の目に触れるところへ置いた。それだけで、摂津の一つの家が消えた。当主は腹を切り、家は断絶し、城は三好方の手に入った。
名は、この紙の上にある。
世のほうに、無い。
久秀は、数のところへ目を落とした。
後詰の数が書いてある。
二千に余る
来たのは、千二百から千五百である。甚内は多いほうへ丸めぬ男であった。
差は、五百から八百。
――去年、伊丹が出せた兵は、七百であった。
久秀は、それを覚えている。覚えているどころではない。潰す前に、幾人動かせる家かを算えたのは、この男である。
書付にあった二千と、来た千二百から千五百と、その差の七百と。
三つの数が、一枚の紙の上で繋がった。
消した家の名が、いま、来なかった兵の数になって出ている。
久秀は、笑いかけた。
笑いかけて、やめた。
やめてから、己の掌を見た。
堺の書院で、三百貫の碗を返せずにいた掌である。あのときは、値が算えられなかった。今夜は、算えられる。算えられて、しかも合わぬ。
――名は、合う。
――数が、合わぬ。
目を、その下へ移した。
書付は、そこで終わってはいなかった。
囲みを解かせる者の名と、その後の顛末――そう言うて、あの小僧はこれを売った。顛末が書いてある。
囲みを解いたのち、と、そこにはあった。
越水 囲マル
西宮 火
久秀は、動かなかった。
西宮である。
窪地に煙が二本立っている。竈が二つあり、人が十七人おり、松の根方に石が据わっている。灰の皿の上で、白い粒が出たのは、まだ四十日前であった。
あそこへ、火が入る。
入れに来るはずの家は、去年、この男が消している。
――生きておるのか。
この一行は、まだ生きているのか。
それとも、上の二行と同じように、もう死んでいるのか。
久秀には、分からなかった。
分からぬということが、この夜のいちばん冷たいところであった。
外で、雨が鳴っている。
その音のあいだに、別の音が混じった。
人の呻きである。莚のほうからで、長くはない。すぐ止んだ。止んで、また雨だけになった。
久秀は、灯を見ていた。
手に入れたものが、手に入れたところから減っていく。
紙もそうであった。谷の水もそうであった。あの水は山から出てくる。山は、この男が欲しがっているものである。
欲しがった先から、減る。
久秀は、紙を畳んだ。
畳んで、懐へ入れた。
訊けばよい。
越水へ戻って、あの小僧に、この一行はまだ生きているかと訊けばよいのである。
――問えば、値が付く。
訊いた途端に、それは「まだ来ぬ世のこと」になる。なれば点が動く。手にあるのは二点である。その二点は、そっくり借りたものであった。
久秀は、訊かぬことにした。
灯の芯が、傾いた。
久秀は、それを切らなかった。
――去年、伊丹を潰したのは、わしよ。
潰されるのを見た家が、次は己かと思う。思った家が、横で手を繋ぐ。繋いだ手が、河内の男を呼んだ。
その恐れが、いま、あの山を守っている。
雨は、朝まで止まなかった。
■用語解説
・後巻…後詰の軍が、囲んでいる軍のさらに外側へ回りこむ構え。「後ろを巻く」の意。これを取られると、囲み手のほうが囲まれた形になる。
・直訴…定めの筋道を飛び越えて、上へじかに訴え出ること。国人が守護や守護代を越えて将軍へ訴えるのは、それだけで相手の非を天下に示す手段であった。




