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第20話(四)「一庫城へ」

 ――長月(九月)三日である。


 押した。


 三家に日を諮り、返ってきた日は三通りであった。揃うのを待てば、また十日が過ぎる。十日過ぎれば、寝ている者が三十を越える。


 久秀は、待たなかった。


 「三好だけで、押す」


 長頼は、そのとき一度だけ兄の顔を見た。


 「……三好だけで、にござりまするか」


 「押せ」


 長頼は「承知」とだけ言った。


 言って、二度は訊かなかった。


 尾根から下り、堀切を越え、大手の下へ取りついた。


 二日かかって、一の木戸を破った。


 もう一日で、二の木戸の下まで押した。


    *


 久秀は、そこまで上がった。


 上がってみて、荷のことが分かった。


 駄は、麓の館の手前までしか上がらぬ。そこから先は人が担ぐ。水も、飯も、矢も、替えの草鞋も、みな担いで登る。


 登って、下りて、また登る。


 一人の兵を一日養うのに、三人が坂を上下していた。


 三千六百という数が、坂の下で意味を失っていくのが、久秀には見えた。


 二の木戸の下は、平らなところが猫の額ほどしかない。


 その上へ、道が一本、細く続いている。


 両側は切岸で削ってあり、削られた土がまだ新しい。夏のうちに掻き直したのであろう。


 勘助が、そこにいた。


 杖の先で、道の幅を測っている。


 「殿」


 「うむ」


 「――ここから上は、いくさが三十人ずつになり申す」


 久秀は、道を見た。


 二人が並べば肩が触れる。三人は無理である。押していけるのは前の何十人かで、そのうしろは、ただ坂に詰まっているだけであった。


 「……皆で押しても、か」


 「三千でも、十万でも」


 勘助は杖を引いた。


 「三十人にござる」


 上から石が来た。


 矢の音は、思うたより少ない。


 落ちてくるのは石で、ときどき丸太が来る。丸太は道の幅いっぱいに転がってきて、詰まっている者を四、五人まとめて谷側へ落としていった。


 それだけである。


 長頼が下りてきて、数を告げた。


 「手負い十六。討死七」


 それから、一拍おいた。


 「手の者が、二つ」


 久秀は答えなかった。


 城の内から、声が降ってきた。


 怒鳴っている。何を言うているかは分からぬ。二度目に、風の切れ目で切れぎれに届いた。


 ――一庫は、我らが山じゃ。


 久秀の脇で、年寄りが顔を上げた。


 「あれは」


 年寄りは、少しのあいだ耳を澄ませた。


 「塩川の、殿さまの声じゃ」


 「分かるのか」


 「毎朝、あの声で山へ追い立てられておりましたで」


 久秀は、城を見なかった。


 見たのは、麓のほうである。


 館の周りに家が並び、その屋根が、ここからだと魚の鱗のように見えた。


 「爺」


 「へえ」


 「その声は、幾人を動かす」


 年寄りは、久秀の顔を見た。


 訊かれたことの意味が分からぬ、という顔である。それから指を折りはじめた。折って、途中で戻して、また折った。


 「……山へ入っておりますのが、百と、四、五十」


 「町は」


 「女子供を入れて、四百は」


 久秀は、その数を口の中で二度繰り返した。


 繰り返して、覚えた。


 城の段の数も、木戸の厚みも、この男は覚えていない。覚えたのは、その二つの数である。


 覚えてから、いちど城のほうへ目を戻した。


 あの声の主が、どういう血の者であるかは知っている。


 塩川の当主の母は、細川高国の妹である。


 高国を滅ぼしたのは、殿――三好長慶の父・元長であった。十年前の大物だいもつの崩れで、高国は死んでいる。


 その翌る年、その元長も死んだ。死なせたのは、いま紙を書いている側である。


 ――どちらも、父の敵よ。


 滅ぼした家の血を、父の敵の紙で追わされている。


 久秀は、そこまで考えて、やめた。


 やめて、坂を下りた。


    *


 その夜、三家へ使いを出した。


 明日、四つの手で同時に取りつきたい。刻限はの下がり。


 返事は三通り来た。


 政長は「卯の刻」、波多野は「たつの刻」、池田は「日が高うなってから」であった。


 久秀は、三通の紙を並べて置いた。


 並べて、しばらく見ていた。


 それから、丸めずに、文箱へ入れた。


    *


 ――長月(九月)の半ばである。


 噂が、三通りの数で入ってきた。


 使番は「三千」と言った。


 小荷駄の頭は「五千と聞き申した」と言った。


 水を運ぶ人足は「山が動くほど」と言った。


 久秀は、そのどれも書き留めなかった。


 書き留めるかわりに、数の出どころを訊いた。使番は本陣で聞き、小荷駄の頭は波多野の陣で聞き、人足は麓の町で聞いたという。


 ――三つとも、聞いた話じゃ。


 見た者が、一人もいない。


 柳田甚内が来たのは、その日の夜である。


 幕の外に膝をついて、顔は上げなかった。伊賀の出で、久秀の密偵の頭を務めている。


 「三つ、申し上げまする」


 「申せ」


 「飯盛の普請が、この夏、止まっておりませぬ」


 久秀は筆を止めた。


 城を建てる。囲みの後詰に出るという男が、己の城の普請をやめずにいる。


 「二つ」


 「将は、弟にござりまする。……兵は、銭で雇うた兵ではござりませぬ」


 在地の被官である。


 銭で雇うた兵は、負け色が出れば散る。土地に付いた兵は、散らぬ。数が同じでも、崩れかたが違う。


 「三つ」


 「山城の南の寺々へ、先に触れが回っております」


 久秀は、筆を置いた。


 「数は」


 「三千と申す者がござります」


 甚内は、そこで一度だけ息を継いだ。


 「……手前の見たは、千二百から千五百」


 久秀は答えなかった。


 この男は、多いほうへ丸めぬ。丸めれば主が備える。備えて空振りをすれば、次から誰も信じなくなる。そういうことを承知している男であった。


 「殿」


 「なんじゃ」


 「……なにゆえ、春から河内で」


 久秀は、灯の芯を見ていた。


 答えなかった。


 甚内も、二度は訊かなかった。頭を下げて、幕の外の闇へ戻っていった。


 久秀は、算えた。


 千五百。


 囲みは三千六百である。三好が千四百、波多野が九百、政長が八百、池田が五百。馬は合わせて二百。この数を、この男は一つ残らず言える。飯を食わせているのは、この男だからである。


 ――千五百は、囲み全部の半ばにも足りぬ。


 だが。


 ――三好一家よりは、多い。


 そこであった。


 三千六百が一つの塊なら、千五百は何ほどのこともない。塊でないなら、話は逆になる。この谷にいるのは三千六百ではなく、千四百と九百と八百と五百であった。


 どの家も、独りでは釣り合わぬ。


 そして、いちばん先に退いた家がいちばん損をせぬ。


    *


 久秀は、翌る朝から、話をした。


 誰にも嘘は言わなかった。


 政長の陣の小荷駄奉行には、兵糧のことを訊いた。あちらの陣は、あと幾日ぶんお持ちにござりまするか、と。訊かれた男は指を折り、答えて、そのあとで己の指を見ていた。


 波多野の使番には、道の話をした。丹波への道は、木沢が出れば北から塞がれましょうな。塞がる前にお帰りになるなら、いつごろが良うござりましょう――と。


 三千と聞き申した、と久秀は言った。


 五千と申す者もござる、とも言った。


 どちらも、本当に聞いた話である。


 嘘は、一つも混ぜていない。


 混ぜたのは、選びかたであった。

■用語解説

大手・搦手(おおて・からめて)…城の正面の口を大手、裏手の口を搦手という。山城では大手から上が細い一本道になることが多く、寄せ手がどれほど多くとも、一度に敵と向き合えるのは先頭の幾十人かに限られた。山城が容易に落ちぬのは、この一事による。

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