第20話(三)「一庫城へ」
――葉月(八月)の末である。
その夜、久秀は陣屋で飼葉の荷を検めていた。
俵を解くと、藁のあいだから木札が一枚出た。
小指ほどの薄い板で、両面に墨がある。
久秀は、それを灯へ寄せた。
字は少ない。人の名も、場所の名も書いていない。読める者が読めば分かる並びである。
弥生のうちから、河内へ人を入れてあった。
名目は立ててある。この夏に潰した上田の家の跡目の始末で、河内の口を見ておく――と、そう言うことになっていた。半分は、本当である。
久秀は木札を炉へ落とした。
落として、灰を掻いた。
*
海老名三郎兵衛が本陣へ入ってきたのは、亥の刻に近いころである。
「一手、抜けましてござる」
長慶が顔を上げた。
「城のほうか」
「いえ。……囲うておる側の、一手にござりまする」
下郡の小さな国人が、日の暮れに黙って陣を払った。挨拶もなかったという。
「どこへ」
「……河内の方角にござる」
久秀は、そこで何も言わなかった。
言わなかったし、動きもしなかった。
――山は、裾が広い。
三千六百おっても、この山を囲うたことにはならぬ。抜け道は幾筋もある。城の者が出入りできるくらいだから、こちらの者が出ていくのは、なお易い。
海老名は「……お人払いを」とは言わず、黙って襖の外へ出た。
長慶は、久秀を見ていた。
しばらく見ていた。
この主は、報せを聞いた者の顔をよく見る。驚いた顔と、驚かなかった顔の違いが分かる人であった。
久秀は、驚いていない。
長慶は、何も訊かなかった。
訊かずに、別のことを言った。
「兄者。河内の木沢という男を、どう見る」
久秀は、膝を正した。
「河内の守護代にござりまする。飯盛山に城を構え、あそこから山城の南までが掌に載りまする。……管領様の下に、あの男と並ぶ者はござりませぬ」
「そこまでは、わしも知っておる」
長慶は、脇息に肘を置いた。
「摂津に足がかりを欲しがっておることも、知っておる。東摂の三宅城——三宅国村を通して、話が行っておることもな。……高国方の残りを抱え込めば、管領様に対して重うなる。あの男の算用は、それであろう」
そのとおりであった。
この主は、知らぬことを訊く人ではない。訊くのは、知っていて、なお合わぬものがあるときである。
「分からぬのは、そこではない」
長慶は、灯のほうを見た。
「……なにゆえ管領様は、いま、この城を囲めと申された」
久秀は、答えなかった。
答えは、出ている。
塩川一人を潰したいのなら、去年でも、一昨年でもよかった。いま囲めと言うのは、囲めば河内の男が動くからである。動けば、管領様の下知を待たずに動いたことになる。動かねば、あの男は摂津の縁を一つ失う。
どちらに転んでも、京の紙を書いた者は損をしない。
塩川は、餌である。
――では、囲うておるわれらは、なんじゃ。
そこから先を、久秀は口に出さなかった。
出せば、この主が答えねばならなくなる。
長慶は、しばらく灯を見ていた。
「……囲まれておるのは、塩川か」
久秀は、頭を下げた。
下げただけである。
「もうよい」
塩川を囲めと書いた紙は、京から来た。管領・細川晴元の紙である。三好の名で書いた紙なら、政長も、波多野も、池田も動かぬ。管領の名だから動いた。
だから、この谷には三つの陣が隣り合っているのであって、一つの陣にはならぬ。
味噌の匂いが三度立つのは、そういう理由であった。
文月に、久秀は上田を討たせている。ふた月前である。あのとき御下知を引き出した理由は、二つあった。一つは中嶋の渡しと過書である。もう一つは、河内の男が摂津へ渡ってくる口を、先に塞いでおくことであった。
塞いだつもりであった。
塞いだ口の向こうから、この夏、あの男は別の道で出てくる。
久秀は、その夜、懐から紙を出した。
一年前に一点で買った書付である。
出して、開かずに、また懐へ戻した。
開けぬ理由を、この男は己に説明しなかった。
*
――長月(九月)に入った。
朝の風が、少し冷たい。
久秀は幕の外へ出て、谷を見た。
城は、二十日前と同じところにある。
書役が来た。
筆を持ったまま、少し困った顔をしている。
「殿。……樽が」
「幾つじゃ」
男は答えなかった。
答えるかわりに帳を開き、こちらへ向けた。昨日の行の下が、空いている。
久秀は「書け」と言った。
書役は筆を下ろしかけて、止めた。
零、とは書けぬのである。零という字は、はした、わずか、という意味であって、無いという意味ではない。無いものは、無いと書く。
男は少し考えてから、二字を書いた。
無之
その二字を、久秀はしばらく見ていた。
「よい」
「へえ」
「明朝から、何を数える」
書役は真顔で答えた。
「……寝ておる者を、数えまする」
水は、いくらでもあった。
城の北と西を川が巻き、南にもう一筋流れて、麓で合わさる。三方が水である。渇いた者は、この谷に一人もいない。
腹を、下すのである。
初めは五人であった。三日で十一人になり、そのあと少し止まって、また増えた。
寝ている者の莚は、風下へまとめてある。
匂いは書かぬ。書かずに、久秀は薪の匂いだけを覚えていた。湯を沸かし直す火の匂いである。汲んだ水をそのまま使わず、いちど沸かして、冷ましてから粥にする。手間だけが増えて、俵は同じ勢いで減った。
麓の町から、年寄りが一人上がってきた。
水の在処を教えるために雇うた者である。日に十二文と、飯である。
あの町に住んでいるのは、百姓ではない。山で稼ぐ者どもであった。坑へ入って石を掘る者を、この辺りでは下財という。
爪の色が、百姓のそれではなかった。指の腹が固く、爪は厚くて、縁のほうが黒い。
この年寄りは、歩くときに石を見る。
道の途中の岩へ足を掛けるとき、まず割れ目に指を当てた。当てて、割れる筋を目でたどってから、足を置く場所を決める。
――西宮に、同じ手つきの男がおる。
久秀は、それを言わなかった。
「水は」
「南の細いほうを、汲みなされ」
年寄りは、北のほうを顎でさした。
「あちらの筋は、飲みなさんな」
「なにゆえ」
「山を、洗うてきよる」
それだけである。
理屈は言わなかった。訊いても、この年寄りは訳を持っていないであろう。持っていないが、この谷で六十年、そう教えられて生きてきたのである。
久秀は、北の筋のところまで下りた。
流れは細く、澄んでいる。
濁ってもいなければ、泡も立っていない。見たところ、南の水と何が違うということもなかった。
久秀は膝をついて、掌で掬った。
口へ入れた。
金気がした。
舌の奥のほうで、うすく鉄の味がする。
この味を、この男は知っていた。
西宮の窪地で、古い間歩の口から流れ出る水を、いちど飲んだことがある。弥生であった。あのときは何とも思わず、口をゆすいで、それきりであった。
同じ味である。
久秀は、掌の水を捨てた。
捨てて、立ち上がった。
立ち上がってから、空を見た。
しばらく見ていた。
――この谷の上は、多田じゃ。
北の筋を遡れば、猪名川の上の筋に行き着く。行き着いた先が、この男が去年から品書きで買い、砦の縄張まで引かせている山であった。
――そういうことか。
それきり、この男は何も考えなかった。考えなかったというより、そこから先を考えると帳尻が合わなくなるので、やめたのである。
――この男、算えられぬものを前にすると黙る。
黙って、算えられる別のものを算えはじめる。
年寄りが、うしろから言った。
「南のを、汲みなされ」
「うむ」
*
昼になった。
粥である。
湯を沸かし直した水で炊いた、薄いやつであった。梅干しが一つずつ添えてある。
久秀は己の椀を受け取り、それを莚のほうへ回させた。
回させておいて、干飯を水で戻したものを立ったまま食った。噛まずに、飲むように食う。
寝ている若い者が、粥を一口すすって言った。
樽の栓を抜く前に、指を舐めて風を見ていた男である。
「……甘い」
久秀は、聞こえぬふりをした。
その夜、帳面に一行だけ足した。
一、腹 十九
情ではない。
二十人目を出さぬために回したのである。西宮の人の帳の末へ「三十」と書いたのは、まだ一月も経っていない。あのとき足りぬのは人だと知った。
人は、増やす前に減る。
久秀は、算えた。
寝ている者は一日に一人か二人ずつ増える。この勢いなら、二十日で五十を越える。
三好の手勢は千四百ある。五十や百で崩れる数ではない。だが荷を担いで坂を上下しているのは、その千四百ではない。松永の手の者である。
兵糧は、まだある。
だが兵糧のある陣が、人の減った陣になる。
――長引けば、もたぬ。
答えは一つしか出なかった。
早く、落とすほかない。
■用語解説
・後詰…城を囲まれた側を救うために、外から差し向ける軍勢。城の内と外から挟む形になるので、囲んでいる側は前と後ろの双方を気にせねばならなくなる。
・下財…鉱山で働く坑夫のこと。山を抱える土地では麓に下財の住む町ができ、そこがそのまま城下町になった。石の割れる筋を目で読むので、手の使いようが百姓とは違う。
・無之…帳面の書きよう。無い、皆無、の意。当時の帳面は「零」とは書かず、この二字で記した。




