第20話(一)「一庫城へ」
――前章までの筋
天文九年(一五四〇年)葉月、三好家の祐筆・松永久秀は、摂津水之江村の少年・水江朔から「まだ来ぬ世のこと」を買う契りを結んだ。値は銭ではなく点で、初めに二十点、あとは月に一点ずつ。久秀はまず己の死にざまを買い、次に五年の先を買い、そして一点の安物をひとつ買った。――来年の秋、摂津一庫の城をめぐって何が起こるか、という書付である。
それから一年。久秀は西宮の窪地に吹屋を立て、銅から銀を分ける法を買い、二人の職人を鉛の毒で失い、掟を立てた。中島の城を落とし、都賀荘の段銭を私費で立て替え、堺で兵糧三百貫を半日で決めた。手にある点は、あと僅かである。
そして懐には、京から来た紙が一枚ある。
――一庫の塩川を囲め、と書いてある。
――この戦の顔ぶれ
資料にございます。読み飛ばして差し支えありません。
紙を書いたのは、管領・細川晴元。京にいて、畿内の武家に下知を出せる唯一の家である。その紙一枚で、四つの家が同じ谷に集まった。
縁は、ある。長慶の妻は波多野の娘であり、池田の妻は政長の娘である。
縁があることと、同じ下知で動くこととは、別であった。
──────────────
[囲む側]
三好長慶(越水城)
久秀の主。摂津半国の守護代。父を晴元の側に死なされながら、その晴元に仕えている。
三好政長(榎並城)
晴元の側近。長慶とは同族だが、その父を死に追いやった側の男である。数寄者としても名が高い。
波多野秀忠(丹波八上)
丹波の実力者。娘を長慶に嫁がせており、長慶の岳父にあたる。銭と先行きへの不安から三好方についた。
池田信正(池田城)
摂津豊島郡の国人。長慶に従うが、妻は政長の娘である。両方に縁がある。悪気がまるでない男。
──────────────
[籠る側]
塩川国満(一庫城)
摂津の国人。多田の山を抱える。母方が細川高国——晴元と管領の座を争って敗れた男——の血であり、それゆえ「旧高国方の残党」に数えられている。
──────────────
[外にいる者]
三宅国村(三宅城・東摂)
摂津の国人。塩川と縁があり、この囲みを不法と考えている。河内の木沢と話が通じている。
木沢長政(飯盛山城)
河内の守護代。飯盛山の城から山城の南までを掌に載せる。晴元の被官でありながら、近ごろ下知を待たずに動くという噂がある。作中では「河内の木沢」「木沢」と呼ぶ。三好政長と紛らわしいためである。
――前章までの筋
天文九年(一五四〇年)葉月、三好家の祐筆・松永久秀は、摂津水之江村の少年・水江朔から「まだ来ぬ世のこと」を買う契りを結んだ。値は銭ではなく点で、初めに二十点、あとは月に一点ずつ。久秀はまず己の死にざまを買い、次に五年の先を買い、そして一点の安物をひとつ買った。――来年の秋、摂津一庫の城をめぐって何が起こるか、という書付である。
それから一年。久秀は西宮の窪地に吹屋を立て、銅から銀を分ける法を買い、二人の職人を鉛の毒で失い、掟を立てた。中嶋の城を落とし、都賀荘の段銭を私費で立て替え、堺で兵糧三百貫を半日で決めた。手にある点は、あと僅かである。
そして懐には、京から来た紙が一枚ある。
――一庫の塩川を囲め、と書いてある。
――この戦の顔ぶれ
資料にございます。読み飛ばして差し支えありません。
紙を書いたのは、管領・細川晴元。京にいて、畿内の武家に下知を出せる唯一の家である。その紙一枚で、四つの家が同じ谷に集まった。
縁は、ある。長慶の妻は波多野の娘であり、池田の妻は政長の娘である。
縁があることと、同じ下知で動くこととは、別であった。
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[囲む側]
三好長慶(越水城)
久秀の主。摂津半国の守護代。父を晴元の側に死なされながら、その晴元に仕えている。
三好政長(榎並城)
晴元の側近。長慶とは同族だが、その父を死に追いやった側の男である。数寄者としても名が高い。
波多野秀忠(丹波八上)
丹波の実力者。娘を長慶に嫁がせており、長慶の岳父にあたる。銭と先行きへの不安から三好方についた。
池田信正(池田城)
摂津豊島郡の国人。長慶に従うが、妻は政長の娘である。両方に縁がある。悪気がまるでない男。
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[籠る側]
塩川国満(一庫城)
摂津の国人。多田の山を抱える。母方が細川高国——晴元と管領の座を争って敗れた男——の血であり、それゆえ「旧高国方の残党」に数えられている。
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[外にいる者]
三宅国村(三宅城・東摂)
摂津の国人。塩川と縁があり、この囲みを不法と考えている。河内の木沢と話が通じている。
木沢長政(飯盛山城)
河内の守護代。飯盛山の城から山城の南までを掌に載せる。晴元の被官でありながら、近ごろ下知を待たずに動くという噂がある。作中では「河内の木沢」「木沢」と呼ぶ。三好政長と紛らわしいためである。
―――
――天文十年(一五四一年)葉月(八月)十二日である。
霧であった。
夜のうちに川から上がったもので、日が出ても晴れぬ。谷はまるごと白い底に沈み、松の梢だけがその上へ島のように浮いている。
城は、その向こうにある。
見えぬ。
松永長頼は尾根の途中で馬を下り、手綱を供へ渡した。
草鞋の下で落葉が沈む。音がしない。濡れた葉は、踏んでも鳴らぬものであった。かわりに耳へ来るのは、下のほうで馬が鼻を鳴らす音と、どこか近くで人が咳をする音である。霧の中では音が籠もる。籠もったぶんだけ、遠いものが近く聞こえた。
匂いは、濡れた麻と、馬の湯気であった。
「案内を」
連れてこられたのは、五十がらみの猟師である。片方の耳が遠いらしく、話しかけられると首をわずかに傾ける癖があった。
「幾刻で、晴れる」
「日が回ったら」
それだけである。
長頼は、二度は訊かなかった。
刻限だけが過ぎていく。
三家の物見が、めいめいの持ち場から上がってきた。上がってきて、めいめいの陣へ戻っていく。長頼のところへ来るのは三好の者だけであり、波多野の者も、政長の者も、池田の者も、こちらを見て会釈だけして下りていった。
同じ山を、四つの目が別々に見ている。
白いばかりで、何も見えぬ。それを四度、別々に確かめているのである。
この山を囲んでいるのは、四家であった。
三好が千四百。丹波の波多野が九百。榎並の三好政長が八百。池田が五百。合わせて三千六百と、馬が二百。
そのうち、兄の書いた紙で動くのは千四百だけである。
あとの二千二百は、京の紙で動いている。
巳の刻を過ぎた。
押し口が決まらない。決まらぬままでは、足軽どもは坂の途中で立っているほかない。立っている者は疲れる。疲れれば、腹が減る。腹が減れば、飯の刻限が来る。飯の刻限は、三家で別々であった。
――半日、無駄になる。
長頼は、そこまで算えた。
算えて、口には出さなかった。
杖の音がした。
石突が土を突く音である。霧の中を、それが一つずつ近づいてくる。
山本勘助であった。
片方の目が潰れている。もう片方が、白いばかりの谷のほうを見ていた。
この男が買われたのは、去年の師走である。まだ一年に足りぬ。そのあいだ、遊ばされていたわけではない。猪名川筋の古間歩に砦の縄張を引き、坑の水抜きの溝を三筋通し、中嶋では陣の後方に据えられた。土のことと、水のことである。よく使われてきたと言ってよい。
回ってこなかったのは、采配ひとつであった。
どこを、いつ、どう押すか。それだけが、この男の手に渡らなかったのである。
――土と水は任せる。人は、任せぬ。
それが、牢人上がりの軍師に付いた値であった。
勘助は長頼の脇まで来て、足を止めた。
止めて、杖の先で土に線を引いた。
一本、二本。それから、その二本を繋ぐように短い一本。
いつもなら、ここで足で消す。
消さなかった。
「――申し上げてよろしゅうござるか」
長頼は、勘助の顔を見た。
見て、うなずいた。
「霧は、谷から上がりまする」
勘助の声は低い。低いが、語尾が締まっている。
「上がったものは、日が回れば東から抜けまする。東の尾根が先に出て、そのあとで谷が出る。……逆ではござらぬ」
「それで」
「東の尾根が出たとき、城からもこちらが見えまする。見えてから登れば、上から石を落とされ申す」
勘助は、線の上へ石を置いた。
小指の先ほどの、平たい石である。三つ置いた。
「ここと、ここと、ここ。……抜ける前に、取っておきなされ」
「霧の中を、登るのか」
「登り申す。道は、この爺が知っておりましょう」
猟師が、首を傾げた。聞こえていない。
長頼は、猟師の耳のほうへ回って、もう一度言った。
猟師は谷を見もせずに、「登れますで」とだけ答えた。
長頼は、勘助に一つだけ訊いた。
「――幾刻で、抜ける」
「二刻。日が回れば」
「よし」
それきり、何も訊かなかった。
訊く用がない。当たるか当たらぬかは、二刻ののちに分かる。分かってから考えればよいことであった。
馬のところまで戻る途中で、長頼は一度だけ足を止めた。
止めて、うしろを見た。
勘助はまだ線の前に立っている。石を三つ置いたまま、動かずにいる。
――兄上は、この男を買うた。
買うてこのかた、土と水にしか使わせなかった。
その理由を、長頼は訊いたことがない。
訊けば、兄は答えるであろう。答えたものが本当かどうかは、また別の話である。
長頼は、向き直った。
「押す」
*
二刻で、霧は抜けた。
勘助の言うたとおりに、東の尾根から先に出た。
そのころには、三好の一手は尾根の上にいる。
あとは短い。
城方の物見が七、八人、尾根の鞍部に伏せていた。伏せていたが、霧の中の足音を、下から登ってくるものと思っていたらしい。尾根の上から降りて来られて、四人が斬られ、残りは谷へ落ちるように逃げた。
尾根の先に、堀切がある。
尾根を横に断ち切った溝で、深さは人の背丈ほどあった。その向こう側に逆茂木が並べてある。枝つきの木を切って、先をこちらへ向けて据えたものである。
除きにかかった。
除きにかかっている者は、動けぬ。
上から石が来た。
矢の音は、思うたより少ない。落ちてくるのは、石であった。丸太も来た。転がってきて、逆茂木の柵を巻き込みながら谷へ落ちていく。
それだけである。
勘助が、尾根の先まで来た。
杖を突く音が、朝より速い。
「弟御」
長頼は振り返った。
「この城は、囲うても落ちませぬ」
「ほう」
「三方が、川にござる。井戸も湧きも、断てませぬ」
声に、熱があった。線を引いていたときの声とは違う。低さは同じで、締まりだけが解けている。
「されば、水の手を切りなされ」
「いま、断てぬと申したではないか」
「城の水は、断てませぬ」
勘助は、杖の先を麓のほうへ向けた。
「断てるのは、麓の者どもの水と飯にござる。……焼きなされ」
風が、折れた逆茂木の枝を鳴らした。
長頼は、麓を見た。
家が並んでいる。煙が出ている。
「……兄上に、諮る」
「お聞き入れになりましょうか」
「知らぬ」
長頼は、それだけ言った。
是とも非とも言わぬ。この男の役目は押すことと、減った数を告げることである。焼くか焼かぬかを決めるのは、算える者であった。
――勘助の危うさは、外れたときにあるのではない。
当たったあとにある。
*
日が傾くころ、長頼は本陣へ下りた。
「尾根、三つとも取り申した」
久秀は床几に腰かけて、書役の帳を見ている。顔を上げずに「うむ」と言った。
「手負い、二十二。討死、十一」
長頼は、そこで一拍おいた。
「手の者が、四つ」
久秀は、帳から目を離さなかった。
離さぬまま、指の腹で膝を二度打った。
*
尾根の上へ戻ったとき、日はもう西の山にかかっていた。
霧の抜けた谷が、下に全部見える。
城は、思うたより小さかった。
あそこに籠っているのは塩川国満という。多田の山を抱えた、この谷の主である。
山の上に段が三つ。段のあいだが切岸で削ってあり、上へ行くほど狭くなる。北と西を川が巻いており、南にもう一筋、細い川が流れて、麓のあたりで先の川に合わさっていた。
三方が、水である。
麓には四角い館があって、堀と塀で囲うてある。一辺が九十間ほどもあろうか。その周りに家が並び、家からは煙が出ていた。
ふだんはあの館に住み、戦になれば山へ籠る。館と山とで一組であり、山のほうを詰の城という。
夕餉の刻限であった。
勘助は、その煙を見ていない。
谷を隔てた向かいの山を見ている。
こちらより低い。低いが、そう変わらぬ。木が生えているだけで、砦も柵も、何もなかった。
「……なぜ、あちらに城を置かぬ」
長頼は、その視線をたどった。
「取れば、よいか」
「取っても」
勘助は杖を持ち替えた。
「囲みが、延びるだけにござる」
それきり、その話は終わった。
陽が落ちて、谷が藍色になっていく。
城の段に、篝が灯りはじめた。
一つ、二つ、三つ。
長頼は、それを数えなかった。
数えるのは、兄の役目である。
■用語解説
・堀切…山城で、尾根を横に断ち切って掘った溝。尾根伝いに攻め上ってくる敵の足を止めるためのもので、山城の遺構としてもっともよく残る。
・逆茂木…枝のついた木を切り、先を敵のほうへ向けて並べた柵。取り除くには人手と刻限が要り、そのあいだ矢の的になる。
・詰の城…ふだんは麓の館に住み、戦のときだけ籠るための山上の城。麓の館を居館といい、両者で一組と考えた。一庫の城もこの形である。




