表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/92

第19話(五)「名物と一輪」

 ――同じ日の、暮れ方である。


 久秀が立つと、母が奥から小さな包みを持ってきて、たもとへ入れた。


「静さんに」


「……はい」


「開けてご覧じ」


 言われて開けると、縫い糸が二巻きと針が三本、紙にくるんであった。


「あちらのは、細うございましょう。これは、太いのを」


 久秀は包み直した。


 この三年、嫁と姑は顔を合わせていない。合わせていないのに、糸の太さの話だけが、毎年どちらかから届く。


「母上」


「はい」


「碗を、新しゅうさせましょう」


 母は、久秀の顔を見た。


 見て、笑った。


「まだ使えます」


    *


 路地へ出た。


 母はもう仏間へ戻っていて、団扇太鼓の音がひとつ、遅れて鳴った。


 朔が辻のところで待っている。


 何も訊かない。


 訊かれないので、久秀のほうから言った。


「……茶碗が、欠けておった」


 それだけである。


 歩き出した。


 朔は半歩うしろについて、やはり何も言わなかった。


    *


 越水へ戻ったのは、夜も更けてからである。


 灯を寄せて、久秀は帳面を繰った。墨を下ろす。


 一、堺 兵糧 ――米、干飯、味噌、飼葉

 一、日ヲ 十日ニ 縮メル  ――〆テ 三百貫

 一、荷ハ 三家 別々ニ 積ム由

 一、天王寺屋 茶

 一、油滴ノ天目  ――質ニ 入リシハ 三百貫ト申ス

 一、値ヲ 問ワズ

 一、母 息災


 書いて、久秀は筆を止めた。


 止めて、三行ばかり上へ目を戻した。


 同じ数が、二度出ている。


 久秀は、何も書き足さなかった。


 一、消費なし

 一、借入 二点  ――二年にて返す

 残り 六点


 墨を置く。


 窓は開けてある。


 風は、とうとう出なかった。


 廊下を足音が通った。


「そなた」


 足音が止まった。


「はい」


「茶の棚、そろそろ出してもらうぞ」


 障子の向こうで、朔が黙った。


 しばらくして、声が返った。


「……残りは、六点にございます」


「買うとは申しておらぬ」


 久秀は、帳面の上へ掌を置いた。


「並べよ、と申しておる」


 障子の紙が、一度だけ動いた。


「……名物は、持つ者を選びまするゆえ」


 去年の葉月に聞いたのと同じ言葉であった。


「一年前と、同じことを申すか」


「はい」


「一年で、何も変わらなんだと申すか」


 間があった。


「……変わりましてございます」


「では、なにゆえ並べぬ」


「……今日、お手が、止まりましたゆえ」


 久秀は、動かなかった。


 障子は閉まっている。閉まっているが、あの座敷であの碗を返せずにいたとき、末座にこの小僧が座っていた。


「見せれば、殿はお買いになりまする」


 朔の声は、平らであった。


「いまお買いになれば、銭の出どころを、天下が詮索いたしまする」


 西宮のことを言うている。


「二本の煙は、いまのところ、痩せた古穴のためということになっておりまする。……茶碗一つで、それが崩れまする」


 久秀は扇子を取ろうとして、手を止めた。


 夜の帳場に扇子は置いていない。


「……それゆえ、まだ並べませぬ」


 久秀は、しばらく黙っていた。


 黙って、算えた。


「……そなた、損をしておるぞ」


「はい」


「名物というものは、わしが手にした時から、売り物でなくなろう。ほかの誰かの蔵へ入っても、同じことじゃ。誰の手にも渡らぬうちに売り切るのが、そなたの得ではないか」


「……仰せのとおりにございます」


「わかっておって、売らぬのか」


「はい」


「なぜじゃ」


 障子の向こうはしばらく静かであった。


 それから、声が返った。


「殿は、一年前に、お買いになったものがございます」


 久秀の手が、帳面の上で止まった。


「……申すな」


「私は、値を頂戴してあれを売りました。売った者として、申し上げます」


「申すな、と言うておる」


「――殿は、道具をお放しになれませぬ」


 久秀は、答えなかった。


 一年前に買うた書付の、いちばん終いの数行のことである。


 今日あの碗を返せなかったのは、あの数行と同じ形をしていた。


 読んだ日から、掌に残っている形である。


 小僧は末座からそれを見ていたのだ。


 ――それゆえ、並べぬと申すか。


 あのとき、その棚はいつか開けさせる、と言うた。しかるべき時に、しかるべき対価で、とも言うた。


 ちょうど、一年である。


 一年経って、手にあるのは六点である。そのうちの幾らが西宮の灰と皿に化けるかは、まだ分からぬ。あれだけの銭は朝のうちに米と味噌へ化け、天目には、こちらが値を付けることさえできなかった。


 そして今夜は、買えぬ理由までを小僧の口から教わっている。


 ――選ばせるものか。


 久秀は、そう思った。


 思ってから、それを声に出していなかったことを確かめた。


「……下がれ」


「はい」


 足音が動きかけて、止まった。


「殿」


「なんじゃ」


「道具は、お売りいたしませぬ」


 また、間があった。


「……目のほうなら、お売りできまする」


 久秀は、顔を上げた。


「目」


「茶の湯というものが、どこから来て、いまどうなっていて、この先どこへ行くか。……物ではございませぬ。蔵にも積まれず、誰の目にも留まりませぬ」


 ――買うても、詮索されぬということか。


 物を買えば見える。目を買っても、見えぬ。


「値は」


「三点にございます」


 久秀は帳面へ目を落とした。


 残り、六点。


 ――この小僧は、買える値を言うている。


 買える値であることが、いちばん質が悪い。


 灰の皿が、まだ買えておらぬ。あれが幾らになるかは、この小僧しか知らぬ。分からぬものを残したまま茶の目へ三点を出せば、西宮の火は当分立たぬ。


 ――選べ、ということである。


「…………」


「はい」


 朔は、それだけ言った。


 足音が、遠ざかっていく。


 ――明日、西宮へ行く。


 灰を、己の目で見るつもりであった。

■用語解説

会合衆えごうしゅう…堺の町を治めた有力商人の合議。堀と銭で町を囲い、どの大名にも与せず、戦を門の外に留めた。畿内でもっとも戦火の遠い町であったのは、この仕組みによる。

題目だいもく…法華宗(日蓮宗)で唱える「南無妙法蓮華経」の七字。太鼓を打ちながら声を揃えて唱えることが多く、その太鼓を団扇太鼓という。なお一向宗(浄土真宗)が唱えるのは「南無阿弥陀仏」の六字であり、七字か六字かが、そのまま宗旨の別を示した。

木槿むくげ…夏から秋にかけて咲く花。朝に開いて夕には萎む一日花で、のちの茶の湯では籠や竹の筒に一輪だけ挿す花として好まれた。

名主なぬし…村の田畑と人を束ね、年貢の取りまとめや訴えの取次を担う在地の長。武家ではないが、村では一番の家である。その座は家に付いた権利でもあり、譲ることも、銭で売り買いすることもあった。

大方殿おおかたどの…武家や有力者の母、あるいは隠居した女主人への敬称。「大方さま」とも。家の内向きを差配し、寺社との付き合いを担う立場を指すことが多い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ