第19話(四)「名物と一輪」
――同じ日の、夕方である。
裏町は道が狭い。
大小路の賑わいが嘘のように、人が通らなかった。溝の水の音だけがして、その音がかえって静かさを深くする。
三つ目の辻を折れたところに、その家はあった。
板葺きで、屋根に石が並べてある。間口は二間もない。
障子だけが、新しかった。
「……お帰りなされませ」
母は縁側にいた。
日の当たるところへ膝を出し、そこで縫い物をしている。針に糸を通すのに二度かかり、二度目も通らず、三度目でようやく通した。
通してから、はじめて顔を上げた。
五十六になる。
痩せてはいるが背は曲がっておらず、声も張っている。ただ、手元だけが遠い。
「お上がりなされ」
久秀は草鞋を脱いだ。
板の間に上がると、母が立ってきて袖の埃を払った。肩から二の腕へ、二度払う。子供のころからそうであった。
払いながら、母が言った。
「……ええ匂いがしますな」
久秀は、己の袖を見た。
香である。あの書院にいた二刻のあいだに、着物が吸ったのであろう。
「……人の座へ、寄ってまいりました」
「そうですか」
母は、それだけ言った。
どこの誰の座で、何が掛かっていて、誰が末から二番目に座っていたか、母は訊かない。
「静さんは、お達者か」
「息災にござる」
「そうですか」
母は針を布に刺して、縫い物を膝から下ろした。
奥から粟の餅が出た。
小さいのが三つ、皿に載っている。焼いてある。
白湯が注がれた。
碗を受け取って、久秀は指を止めた。
軽い。
さっき持ったばかりのものが、掌にまだ残っている。あれは重かった。冷たかった。これは軽くて、熱い。
飯茶碗である。縁が、親指の爪ほど欠けていた。
飲もうとすると、その欠けたところが唇に当たる。
久秀は、碗を持ち替えた。
持ち替えて、欠けていないほうから飲んだ。
「餅を、あがりなされ」
久秀は一つ取って、口へ入れた。
食ってから、食ったことに気づいた。
粟である。米ではない。今朝この男は、米を三百貫買っている。
「もう一つ」
「……いや」
「そうですか」
母は皿から一つ取って、己で食った。
表で声がした。
「ごめんくださりませ」
小僧である。十二、三であろう。坊主頭に汗をかいて、風呂敷包みを抱えていた。
「妙蔵寺から、お届けにまいりました」
母が縁へ出た。
小僧は包みを解いて、線香の束を差し出す。差し出しながら、膝を折った。
「大方さま。和尚が、暑うございますゆえ御身をお厭いなされませ、と」
「おおきに。和尚さんに、よろしゅう」
小僧は頭を下げた。
下げて、もう一度下げた。二度目のほうが深い。
そのまま後ずさりに三歩下がってから、向きを変えて走っていった。
久秀は、板の間からそれを見ている。
――五年前。
比叡の山が京の法華の寺々を焼いたとき、行き場を失った坊主どもが堺へ落ちてきた。二十や三十ではない。あの者どもを、どの寺のどの家へ、幾人ずつ入れるか。それを割り振った者がある。
銭は、一文も動いていない。
母は、線香の束を仏間へ持っていった。
*
仏間は、六畳もない。
だが、そこだけが違っていた。
本尊が据えてある。経机が据えてある。燭台が二つ、左右に置いてある。どれもこの家には過ぎたもので、板の間と縁側の粗末さと並べると、まるで別の家から運びこんだように見えた。
久秀は、敷居の外に立っている。
本尊の脇に、位牌が一つ。
父のものである。
母が、線香を持って入ってきた。
「そこは、暗うございましょう」
「……いや」
母は久秀の脇を通り、経机の前へ膝をつく。
古い水を下げ、新しいのを置いた。線香を一本、立てる。
立ててから、位牌をほんのわずか、指で直した。
傾いてはいない。
それでも、この人は毎度、直す。
「……父上に」
久秀が言うと、母は火を移しながら答えた。
「はい」
それだけである。
母は立って、台所のほうへ出ていった。
久秀は、そこから動かなかった。
父が死んだのは、十五年ばかり前である。摂津の五百住で、息子が筆で身を立てるより前に死んだ。あの人は、己の伜が何になったかを知らない。
父は、五百住の名主であった。
父が死んだ年に、母はその名主の座を、田も家もろとも叔父へ渡した。
譲ったのではない。売ったのである。
叔父は借財をして払い、しばらくはその利で難儀をしたらしい。
在の家が一代で作れる額ではない銭が、母の手に入った。
そのうえで母は堺へ出た。荷に入れたのは、この位牌と鍋と、あとは幾らもなかったという。
銭のほうは、残らず出ていった。
上の伜には、京から算用と書の師を呼んだ。礼金は田一枚ぶんであったと、あとになって聞いた。下の伜には、槍の師をつけた。こちらも安くはなかったらしい。
上の伜には筆を、下の伜には槍を。
取り違えなかった。
残りは、寺へ入れた。
己の食う分と、この家を借りる分だけを残して、あとは入れたという。
――わしの算用も、この字も、母が銭を出して買うたものじゃ。
買うた当人は、そのことを言わぬ。
位牌の前に、粟の餅が一つ供えてあった。
さきほどこの男が食ったのと、同じ皿から出たものである。
――わしが月ごとに送る銭も、この家には溜まらぬな。
溜まらぬから、碗が欠けたままなのである。
倹約をしているのではない。この人は、何に換えるかの順が、こちらと違うのである。
母をこの町に置いたのは、久秀であった。
畿内で戦火の入らぬ町は、ここのほかにない。堀があり、銭があり、どの陣にも与しない年寄りどもが門を締めている。孝心のつもりであったが、選ぶときに算えたのは町の壁の厚さのほうであった。そのことを、この男は母に言っていない。
台所で、母が竈に火を入れる音がした。
火の音だけで、この母は熾しようが上手いと分かる。
――西宮の炉が、また頭をよぎった。
久秀は、それを追い払った。
*
仏間から目を戻したとき、柱に何かが掛かっているのが見えた。
竹の筒である。節をひとつ残して切っただけのもので、切り口も削っていない。
木槿が、一輪だけ挿してあった。
朝に咲いて夕には萎む花である。もう、縁のほうから閉じかけていた。
それだけである。
それだけであるのに、そこだけ、家の中で空が抜けているように見えた。
久秀は、足を止めた。
あの書院には金襴があり、青磁があり、天目があって、掛物の前だけ部屋の温度が違った。ここには、削ってもいない竹の筒と、萎みかけた花が一輪あるきりである。
それなのに、目が止まる。
――床に、これを掛けたら。
掛けて、脇に何を据える。据えずに、これ一つならどうなる。……客は、どこを見る。
そこまで考えて、久秀は己に気づいた。
母の家である。
今日は、朝からこうであった。荷を算えていても飯を食っていても、頭のどこかが勝手に座敷を組んでいる。
――こういう病があると、聞いたことがある。
数寄の病である。罹った者は、役目のほかの刻限をみな茶に食われるという。
台所から、母の声がした。
「久秀」
「はい」
「そこは、蚊が出ますで」
久秀は、竹の筒から目を離した。
離してから、もう一度だけ見た。
母が戻ってきて、燭に火を移した。
それから、久秀のほうを見ずに言った。
「長頼は、達者か」
弟である。いまは越水にいて、十日ののちの支度をしている。
「息災にござる」
「そうですか」
間があった。
「……北のほうは、水が悪いそうでございますな」
久秀は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが近い。
今朝、堺の店先で同じことを言うた男がいる。天王寺屋の番頭で、荷の中身から行き先を当てて、水の樽を売りつけた男であった。
商人は、荷から読む。
寺には、諸国の話が集まる。京から落ちてきた坊主どもは、いまも京と摂津と大和のあいだを行き来しており、その者どもが堺で口を利く相手は、この家の縁側なのである。
――訊かぬのではない。
とうに、知っておられるのだ。
母は、それきり北のことを言わなかった。
言わずに、経机の前へ座った。
「久秀」
「はい」
「あがりなされ」
久秀は仏間へ入り、母の隣へ座った。
母が団扇太鼓を取り、撥を持った。
一つ、鳴った。
それから母が唱えはじめた。
「南無妙法蓮華経」
――この七字を、堺のあの寺でも聞いた。
九年前である。
内で唱えていたのは、この七字であった。囲んでいた者どもが唱えていたのは、六字である。
久秀は、そこから先を思わなかった。
二節目から、声を合わせた。
「南無妙法蓮華経」
太鼓は速くも遅くもない。
母の声は、縫い物をしているときの声とは別のものであった。腹から出ていて、震えがなく、隣の家まで届いているであろう。久秀の声は、それより半分低い。
十ほど唱えたところで、久秀は数を数えかけた。
――十一。十二。
数えて、やめた。
やめて、太鼓に合わせた。
この男が、算えずにいる刻限であった。
燭の火が、母の頬のところで一度大きく揺れた。




