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第19話(三)「名物と一輪」

 ――同じ日の、昼下がりである。


 天目が、久秀の前へ置かれた。


 台ごと置かれたのを、台から外して両手で取り、掌の上で向きを改めてから戻す。それが作法である。


 久秀は、すぐには手を出さなかった。


 出さぬのが作法だからではない。


 掌が、湿っていたからである。


 ――なにを、しておる。


 袴の膝で二度、指を拭った。拭ってから、両手を出した。


 出した指の先が、わずかに震えている。


 震えを止めようとすると、こんどは肩に力が入った。


 ――落ち着け。


 碗を、取った。


 ――重い。


 見た目より、はるかに重かった。指がその重さを予め構えていなかったので、持ち上げた拍子に碗が右へ傾いだ。


 左の手が、下へ回った。


 音は、立たなかった。


 だが、座の四人が同じところで息を止めたのが、分かった。止めた息を、みな、何事もなかったように吐いた。


 ――見られた。


 耳の後ろが、熱い。


 冷えている。掌に吸いつくように冷たい。この暑さの中で、この碗だけが夏を知らぬような冷たさをしていた。


 高台こうだいを返して指を当てると、そこだけが荒い。土の粒が指の腹に当たる。


 口造くちづくりを見た。


 わずかに外へ返っている。返りの厚みが指の腹でぴたりと止まった。


 久秀は、碗の内を覗いた。


 黒い。


 底に、己の顔が映らなかった。


 映るほどの光をこの黒は返さぬのであって、返さぬかわりに斑だけが浮き、細かい粒が釉の中に沈んだまま、碗を傾けるたびに位置を変えた。


 その粒を、久秀はどこかで見ている。


 ――ああ。


 明日、西宮の灰の上で探すつもりのものである。灰の上に残るはずのもの。まだ一粒も見ていないくせに、形だけはもう知っていた。


 掘って出す粒と、いま掌にある碗が同じ形をしている。


 久秀は、算えようとした。


 さきの肩衝は八十貫と出た。肩の張りで幾ら、釉の景色で幾ら、蓋が替えであるぶんを引く。算えれば、値は出る。


 同じことをすればよい。


 黒の深さで幾ら。斑の粒立ちで幾ら。口造りの返りで幾ら。高台の土で――


 そこで、止まった。


 数が出ない。


 もう一度、初めから見た。見ても出ない。


 ――算えられぬ。


 この男は、算えることで物を掴んできた。値の付かぬ物は、この男にとって物ですらない。


 それが、掌の上にある。


 ――この男、欲しいものを前にすると、まず値を算える。


 算えられぬときに、どう構えればよいのかを、この男はまだ知らない。


 返さねばならぬ。


 順に回すのが作法であり、次は末座の小僧である。


 分かっているのに、指が動かなかった。


「……お次へ」


 宗達が、低く言った。


 久秀は、碗を台へ戻した。


 戻してから、己が促されたのだと気づいた。


 三十三になる男が、茶碗を返せずに、商人に促されたのである。


 扇子の要が、鳴った。


 思いのほか、大きな音であった。


 僧が、こちらを見ないようにした。


「よい碗にござるな」


 久秀は、そう言った。


 言ってから、己の声が平らでなかったのに気づいた。


「おおきに」


「……この手のものは、どちらから出まするか」


 値は訊いていない。


 訊いてはいない。


 宗達は袱紗を膝に置いた。


「御所でおます」


「御所」


「墨蹟も、その天目も。もとは、公方さまの御蔵にありましたもんで」


 久秀は、動かなかった。


「……なにゆえ、町方に」


「銭が、おませんのや」


 宗達は事もなげに言った。


「応仁のあとこちら、御所は建てるにも祭るにも銭が要ります。そやのに、入ってくるもんがない。せやから、蔵のもんを質にお入れになる。入れて、流れる」


「流れる」


「戻せませんのや。……戻すには、銭が要りますねん」


 さきほど、この男は言った。おんなじ顔で戻ってくるのは道具だけだ、と。


 その道具が戻る先は、商人の蔵である。御所へは、戻らない。


 ――この男は、持っておる。


 帳場で反故紙を繰っているだけの町人が、公方さまの御蔵にあったものを己の床に掛け、その前で笑うている。


 宗達はそこで少し首を傾げた。


 思い出しているのではない。読んでいるのである。頭のどこかに帳面が開いていて、その行を目でなぞっているような顔であった。


「あの天目はな、永正えいしょうの初めでおました。三百貫でお入れになって、利が月に三分。二年と少しで流れましたんですわ」


 宗達の喉が鳴った。


「いひ、ひ」


 久秀の指先が、扇子の要のところで止まった。


 三百貫。


 算えられなかったものに、値が付いた。しかも付けたのは、こちらではない。


 ――今朝、同じ数を、米と味噌に替えたばかりであった。


「……そなた、永正の初めには」


「生まれとりまへん」


 宗達はあっさり言った。


「祖父の帳に、書いてありますねん」


「いひ、ひ」


 久秀は、顔を上げた。


 宗達は久秀を見ていない。膝の上の懐紙かいしを見て、そこへ何か書き足したところであった。


 ――この笑いは、嘲りではない。


 帳場でもそうであった。袋が二つ余ったときも、米五十石が茶碗三つ分になったときも、この男は人を笑ってはいなかった。


 何かが、合うたのだ。


 合うたときにだけ、この男の喉は鳴る。


 そして、いま合うたのは――


 久秀は、己の掌を見た。


 さっきまで碗を持っていた掌である。


「小さいお人」


 宗達が末座のほうへ声をかけた。


「何を見てはりますの」


 朔は、まっすぐに答えた。


「……お手元を」


「これ?」


 宗達は懐紙を持ち上げた。隠しもしない。


「書き付けでおます」


 久秀は言った。


「……見せていただけようか」


「どうぞ」


 渡された。


 日付があり、その下に道具の名が並んでいる。


 床 墨蹟

 台子 釜 水指

 栗色の袋に肩衝

 台天目

 香炉 青磁


 そのあとに、客の名が三つ。僧の名、堺の年寄りの名、そして三つ目に、


 鉛ノ駄ノ方


 と、あった。


 久秀は、その紙を見ていた。


 しばらく、見ていた。


 己の帳面であれば、閉じている。中嶋の蔵で、書役が覗きこもうとしたときも、久秀は声を荒らげずに帳を閉じ、手の甲を表紙に置いた。埃じゃ、と言った。


 他人の帳面は、閉じられない。


 紙をめくると、前の日の分があった。


 同じ書きようで道具が並び、その下に客の名が並んでいる。名のうちの一つに目が行った。


「……この方は」


「ああ。青磁の花入をお持ちの」


 宗達は指を頬に当てて考えている。


「ええと、あの、榎並えなみの」


「――榎並の御方か」


 久秀の口が、勝手にその名を継いでいた。


「へえ、それ。よう来はります」


 宗達はなんでもないことのように言った。


「道具の目は、たいそうお高うおますで」


 久秀は、紙を返した。


 返す手が、思ったより速かった。


 ――先に、座っておるか。


 筆持ちが陣で何をしておる、と言うた男である。馬を止めもせず、供へ言うような調子で吐き捨てて、そのまま行った――その男が、この座敷には先に通っている。


 しかも、道具の目が高いという。


 ――目が、あるのか。


 腹の底のあたりへ、その一言が落ちた。落ちて、そこで小さく燃えた。燃えたまま消えぬので、久秀は膝の上で扇子を握り直した。


 握り直したところを、宗達が見ている。


 見て、何も言わない。


 ――この男、人の持ち物を見て腹を立てることが、ままある。


 立てた腹を、この男はいつも算用に変えてきた。変えられぬときにだけ、顔へ出る。


 今日は、二度出た。


    *


 朔は、末座からそれを見ている。


(残るのは、こちらだ)


 器ではない。器は割れ、売られ、流れ、また流れる。値は十度も付け替えられ、持ち主の名も十度変わる。


 だが、この紙は残る。


 誰が来て、何が飾られ、誰が何を言ったか。それだけが、五百年のちまで残るのである。


 朔がそれを知っているのは、まだ来ぬ世を一度、見てきたからであった。


(……あの人は、もう持っている)


 朔は、主の背を見た。


 碗を返したばかりの背である。


 毎晩、灯の下で帳面をつけている男が、いま、器を欲しがっている。


(言わない)


 言えば、只で渡すことになる。


    *


 座が果てて、門口へ出た。


 宗達は、上がり框(あがりかまち)のところまで送りに来た。気が緩んだのが、目の動きで分かる。


「松永さま」


「うむ」


「此度は、北のほうへお出ましやそうで」


 久秀は答えなかった。


 答えぬうちに、宗達が続けた。


「そう言えば、いつぞや浜で、鯖を三尾お買いになりましたな」


「……なに」


「値切っておいででした。二文」


「いひ、ひ」


 十年前である。まだ祐筆になって間もないころ、供もつけずに堺を歩いたことがあった。


 久秀は、その男の顔を見た。


 宗達は、悪びれてもいなければ、得意そうでもなかった。ただ、合うたのが嬉しいという顔をしている。


 ――この男は、忘れぬのか。


 西宮に、覚えられぬ男がおる。堺に、忘れられぬ男がおる。


 どちらも、こちらの帳面より正しい。


 草鞋を履いて、表へ出ようとしたときである。


 宗達が思い出したように言った。


「そや。大方おおかたさまに、よろしゅうお伝えください」


 久秀の手が、止まった。


「……母を、ご存じか」


「そら、堺の者で知らん者はおりまへんやろ」


 宗達はふしぎそうな顔をした。


 喉は、鳴らなかった。


 この男にとっては、合わせるまでもないことであったらしい。


 久秀は、頭を下げた。


    *


 表へ出ると、まだ曇っていた。


 日は西へ回りかけている。二刻、消えた。


 朔は半歩うしろを歩いてくる。何も言わない。


 ――名は、覚えておらなんだ。


 鉛の駄で来た男、としか書かれていない。


 その同じ男が、母のことは知っている。堺の者で知らぬ者はいない、という。


 久秀は、十五年、己の才で此処まで来たと思っていた。


 大小路を東へ抜けて、道が二つに分かれるところまで来た。右へ折れれば湊で、左へ入れば裏町である。


 久秀は、そこで足を止めた。


 止めたきり、動かない。


 朔がうしろから言った。


「……お買いになりたかったので?」


「黙れ」


 声が、思ったより高くなった。


 朔は、それきり黙った。


 久秀は、動かない。


 頭の中に、まださっきの座敷がある。床。台子。金襴。天目。そして、末から二番目の己。


 ――買えぬ。


 いまは、買えぬ。


 だが、あの碗は御所から流れて出たものである。持てなくなった者の手を離れ、持てる者の手へ移った。移してやったのは、家でも血でもない。


 ――銭と、目じゃ。


 久秀は、左へ折れた。


 折れてからの足の運びが、来たときとは変わっている。


 朔は、それに気づいた。


 気づいて、やはり何も言わなかった。

■用語解説

台子だいす…茶室に据える黒漆塗りの棚。天板と地板のあいだに釜・水指・杓立などを一式飾る。書院で行う格の高い点前に用いるもので、これを据えるか据えぬかが、そのまま座の格を表した。

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