第19話(二)「名物と一輪」
――同じ日の、昼前である。
奥へ通されて、廊下を二つ折れた。
折れるたびに店の音が遠くなり、三つ目の障子を開けたところで、音がなくなった。
書院である。
風は通らない。表の暑さがそのまま入って、動かずに溜まっている。それなのに、寒い。
匂いのせいであった。
練香である。伽羅か、白檀か。喉の奥のあたりで一度冷えて、そこから背へ落ちてくるような匂いであった。
久秀は敷居のところで一度、足を止めた。
「……どうぞ、お上がりを」
宗達の声が、うしろでした。
床の前だけ、部屋の温度が違う気がする。
掛かっているのは墨蹟であった。字はよく読めない。読めないのに、紙の焼け具合と表装の絹の色だけで、目が離れなくなる。
その手前に、台子が据えてある。
黒漆の棚である。天板に釜と柄杓、地板に水指。据えてあるというより、そこに一つの家が建っているように見えた。
脇に、青磁の香炉。
栗色の袋。
そして、天目。
天目台の上に伏せてある。黒い。ただ黒いのではなく、黒の中に細かい斑が浮いていて、その斑が油の滴のように光を含んでいた。障子を通した鈍い光の下で、そこだけが濡れて見える。
久秀は座についた。
ついてから、目が動いた。
客は三人である。
一人は僧で、六十を越えていよう。町の寺の坊であるという。もう一人は堺の年寄りで、口数が少なく、膝の上で手を組んだきり動かさない。
朔は末座に入れられた。
亭主は宗達である。
帳場にいたときとは、まるで別人であった。背が伸び、目の動きが止まっている。袱紗を捌く手つきに無駄がない。
水屋から茶碗を運んできたのは若い者で、この者は袱紗を畳んだあと、角を二度なでる癖があった。
湯が鳴っている。
その音のほかに、音がない。
久秀は、点前を見ていた。
見ているつもりであった。
だが目は、天目台の上へ戻る。碗が持ち上げられて向きを変えるたび、首がわずかに動いた。動いたことに、この男は気づいていない。
――釜の火が、よい。
そう思って、久秀は己に舌打ちをした。
このごろ、どこへ行っても火を見る。人の家の炉の炭のつぎようまで見てしまう。西宮の灰が立たぬのは、火のせいではないと分かっているのに、である。
*
点心が出た。
塗りの折敷に、汁と、鯛のなます。焼物は鮎で、小さいのが二尾。飯は一椀。
誰も喋らない。
箸の音と、汁を啜る音だけがする。
僧は汁だけを二度おかわりした。おかわりするとき、椀を両手で持ち上げて水屋のほうへ差し出す。その所作だけが慣れきっていた。
堺の年寄りは、鮎の骨を折敷の隅へきれいに並べていく。
朔は、出されたものを残さず食った。飯粒を一つも残さない。村の癖である。
久秀は、箸をあまり動かさなかった。
なますを二切れ食い、汁を半分残した。腹が減っていないわけではない。
途中で、椀を持ったまま置くのを忘れていた。水屋の若い者が下げに来て、はじめて手を離した。
後段に、栗が出た。早生のもので、皮に皺が寄っていない。
その栗を、久秀は一つも取らなかった。
*
茶が出た。
一口して、久秀は湯の味に気づいた。
越水の井戸とは違う。角がない。
「……よい水にござるな」
「山から、汲ませとりますねん」
宗達は事もなげに言った。
「町の井戸は、潮が回っとりますのや。茶には、きつい。人をやって、月に二度、樽で運ばせますねん」
水を、人をやって、山から。
――碗ばかりではないのか。
今朝、この店の番頭は、一庫の水が悪いと言うて樽を売りつけた。
同じ日に、同じ店で、水の話を二度聞いたことになる。
一つは腹を下す水で、一つは茶にする水であった。
口が、動きはじめた。
僧が笑って言った。
「昔は、これで賭けましたのやで」
「賭ける」
「産地を当てますのや。この茶は栂尾か、いや宇治か、と。当たった外れたで、銭を出したり、太刀を出したり。……えらい騒ぎでおました」
「いつごろの話にござる」
「さあ。わたいの祖父の、そのまた上でおますな」
宗達が、茶碗を拭きながら口を挟んだ。
「建武の三年に、御式目で叱られておりますな」
僧が笑った。
「そこだけは、よう覚えてはる」
「賭けはな、そのうち廃れました」
僧は湯呑を置いて言った。
「かわりに残ったのが、座敷でおます。……銭を賭けるかわりに、道具を出す。人を呼んで、飾って、見せる。それが会所というもんで、公方さまの御館では、それは大層なことでございましたそうな」
「見せるだけで」
「見せるだけで。……何が出るか、誰が呼ばれるか。それだけで、その家の格が知れますよってに」
賭けの座があり、辻の一銭があり、そして飾って見せる座がある。
路の辻では、いまでも茶碗一杯を一銭で売る者がいるという。それが同じ茶であるとは、久秀にはどうにも思えなかった。
――だが、この部屋は、その三つ目の末であるか。
見せるための座である。ここに座っている者は、茶を飲みに来たのではない。
「近ごろは」
僧が言った。
「紹鷗はんが、道具を減らしてはるそうでおますな」
「へえ」
宗達が短く答えた。
「あの方は、そういうお人ですわ」
久秀は、茶碗を置いた。
――呼ばれはする。教えは、受けておらぬ。
如月に一度、あの四畳半へ通ったことがある。あれは主の家が開けた道であって、己の道ではなかった。今日は違う。今日は、鉛の駄が開けた道である。
道は開いた。開いた先の座で、こちらは末から二番目に座っている。
*
「では、お目にかけまひょ」
宗達が、台子の脇の栗色の袋を取った。
紐を解く手つきが、点前とはまた違っていた。ためらいがない。慣れた者が己の物を扱う手つきで、袋の口を開き、中身を掌の上へ滑らせた。
如月の四畳半では、こうではなかった。
あのとき道陳という男は、袋の紐を一本ずつ順に緩め、緩めるたびに客の顔を見た。あれは見せるための間であり、儀式であった。
この男は、荷を解いている。
出てきたのは、肩衝である。
栗の実ほどの丈で、肩が四角く張っている。上から下へ、飴のような釉がかかっていた。
順に回って、久秀の前へ来た。
久秀は、両手で受けた。
膝の上へ置いて、まず蓋を取る。
象牙である。裏に薄く金が敷いてあり、その金が縁のところで擦れて、地が出ていた。使われている蓋である。
胴を見る。
肩の張りが、右と左で少し違う。轆轤の癖であろう。だがその歪みのぶんだけ、正面が決まっている。
釉を見た。
上から流れて、途中で三度止まっている。止まったところが段になり、段の下に、また薄く流れ落ちている。いちばん下は、胴の半ばで止まっていた。
そこから下は、土である。
指を当てると、ざらついた。焼き締まった土の、乾いた手ざわりである。底を返すと、糸で切った跡が渦を巻いていた。
久秀は、それを日にかざしはしなかった。
かざすほどの興も、この男には湧いていない。
――釉の止まりが、三段。
――土の色が、やや白い。
――蓋は替えておるな。金の擦れが、胴の傷みと合わぬ。
「蓋は、替えでおます」
宗達が、こちらを見ずに言った。
「二代前ですわ。前のは、割れましてん」
久秀の指が、蓋の縁で止まった。
――先に、言われた。
見ながら、この男の頭は勝手に動いていた。
肩の張りで幾ら、釉の景色で幾ら、蓋が替えであるぶん幾ら引く。
――八十貫。
――九十は、せぬ。
算えて、久秀はそれきり何も思わなかった。
道具を見れば値が出る。この男にとって、それは息をするのと変わらぬことである。十年あまり、そうしてきた。
久秀は蓋を戻し、次へ回した。
「お目が、早いお人や」
宗達が言った。
褒めたのではない。この男は、こちらが見ていた時の長さを算えていたのである。
「……これは、堺の物にはござらぬな」
「へえ。唐でおます」
宗達は、袋のほうを畳みながら続けた。
「これがな、去年の肩衝ですねん」
久秀は、顔を上げた。
「……売られたのでは」
「売りました」
「では」
「戻ってきましたんですわ」
宗達は、袋の紐を膝の上で揃えている。
「先の方が、手放されましてな。あちこち回って、また、うちへ」
「……よう、戻るものよ」
「戻りますのや」
宗達は、事もなげに言った。
「銭も、戻ってきますわな。出した先を回って、こっちへ。……けど、おんなじ銭やおまへん」
「人も」
「人も、戻ってきはります。……けど、おんなじ人やおまへんやろ」
宗達は、袋の紐を揃え終えた。
「おんなじ顔で戻ってきますのんは、道具だけでおます」
久秀は、その言葉を聞いた。
聞いて、なぜか胸の底が少し重くなった。重くなった理由は、いま分からない。
「袋は」
久秀は訊いた。
「三つ持っておられたと申されたが」
「へえ。一つ付けて売りましたのや。二つ、まだ余っとります。……あ、いや。いま一つ戻ってきましたな。三つに」
宗達の喉が鳴った。
「いひ、ひ」
清六が控えの間にいないので、咳払いは聞こえなかった。
*
肩衝が末座まで回って、水屋へ下がった。
宗達が、両手で袱紗を捌き直した。
捌いてから、天目台のほうへ手を伸ばす。
久秀の背が、動かなくなった。
■用語解説
・台子…茶室に据える黒漆塗りの棚。天板と地板のあいだに釜・水指・杓立などを一式飾る。書院で行う格の高い点前に用いるもので、これを据えるか据えぬかが、そのまま座の格を表した。
・唐物荘厳…唐(中国)渡りの器物を書院いっぱいに飾り立てる、室町殿以来の茶のかたち。持てる者にしかできぬ茶であり、権威をそのまま目に見せる仕掛けであった。
・室町殿…京の室町に館を構えた足利将軍家、およびその当主を指す。八代義政の代に集められた唐物の数々は、その権威そのものと見なされた。
・東山御物…足利義政が東山の山荘に集めた唐物の名品。応仁の乱ののち幕府の蔵が窮したため、質に入れられ、売られ、堺や京の商人の手へ次々に流れ出した。「もと御物」という由緒は、そのまま値になった。
・天目…唐渡りの黒い釉の茶碗。すり鉢を伏せたような形で、多くは天目台に載せて出す。釉の斑が油の滴に似たものを油滴、細い縞に流れたものを禾目と呼び分けた。
・金襴…金糸を織り込んだ絹の織物。唐渡りの高価な布で、茶入や茶碗を包む袋に仕立てて用いた。中身より袋のほうが値の張ることもあった。
・闘茶…南北朝から室町初めに流行した茶の遊び。産地を当てて銭や品を賭けた。建武3年(1336年)の『建武式目』が茶寄合の華美を戒めるほど盛んで、後の静かな茶の湯とはまるで別物であった。
・一服一銭…路上や社寺の門前で、茶碗一杯を一銭で売った商い。喫茶が貴顕のものだけでなく、町の者にも広がっていたことを示す。
・茶入…抹茶を入れる小さな壺。茶の湯の道具のなかでもっとも重んじられ、名物の多くはこれである。唐渡りのものを唐物茶入といい、肩の張った形を肩衝、丸みのあるものを茄子などと呼び分けた。
・肩衝…茶入の形の一つ。肩の部分が角張って張り出しているものをいう。上から流れた釉がどこで止まっているか、その段の景色が値を決めた。
・仕覆…茶入を包む袋。金襴や緞子など唐渡りの裂で仕立て、一つの茶入に幾つも作られた。袋を替えれば道具の見え方も変わるため、袋だけが別に伝わることもあった。
・会所…人を招いて道具を飾り、見せるための座敷。闘茶の賭けが廃れたのち、茶の寄合はこの形へ移った。何を飾り誰を招くかがそのまま家の格を示したため、室町殿の会所の飾りは権威そのものであった。
・点前…茶を点てる一連の所作。道具を清め、湯を汲み、茶を練り、また清めて仕舞うまでの手順が定まっており、その運びの善し悪しが亭主の格を示した。
・水屋…茶室の隣に設けた勝手。道具を洗い、茶碗を温め、次に出すものを整える場である。客からは見えぬが、座の首尾はここで決まる。
・天目台…天目茶碗を載せる漆塗りの台。天目は台に載せて出すのが格式であり、碗と台は組で扱われた。
・点心…茶の座で出す軽い食事。汁と菜を少しずつ、塗りの折敷に載せて出した。腹を満たすためではなく、茶を受ける腹をこしらえるためのものである。




