表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/80

第19話(一)「名物と一輪」

 ――話は、少し前へ戻る。


 天文十年(一五四一年)葉月(八月)二日である。


 西宮の浜から舟を出させた。


 風がない。


 帆は垂れたきりで、水の面は油を流したように動かなかった。ともの音が、間を置いて一つずつ聞こえてくる。


 曇っているのに暑い。日が出ておらぬぶん、熱が水の上に溜まっている。


「……えらいぎでおますな」


 船頭が一度だけそう言い、それきり黙って漕いだ。


 久秀はふなばたに背をあずけて座っている。


 懐に紙が一枚あった。京から来た紙で、一庫の塩川を囲め、と書いてある。日は十二日。


 ――十日。


 指を折りかけて、やめた。折らずとも分かっている。


 堺で兵糧を押さえ、その足で母のところへ寄り、暮れまでに越水へ戻る。そういう算段で朝のうちに出た。その算段が、いま、櫓の音の遅さのぶんだけ削れていく。


 朔はへさきのほうに座って、水を見ていた。


 堺で利吉に会う用がある。銅の売り口の始末で、こちらの荷とは別の話である。ついでの同道であった。


 久秀は、その背を見るともなく見ている。


 西宮の帳が頭を離れない。


 荒銅も鉛も月ごとに増えている。増えて、蔵に積まれて、そこから先へ動かない。銅に混じった銀を鉛に吸わせるところまでは成った。吸うた鉛から銀を取り出すには、灰の皿の上で焼く。その灰が、いけないのである。


 佐介の帳には銀の目方を書く欄がある。


 その欄が、まだ白いままであった。


 ――何かが、詰まっておる。


 明日、己の目で見に行くつもりであった。


 訊けば済むことではある。舳に座っている小僧に、灰はどうすればよいと訊けば、たぶん何か言うであろう。


 だが、訊いてはぐらかされたら、二度は訊けぬ。


 この男は、材料のないうちに口を開かない。


「……松永さま」


 朔が振り返らずに言った。


「風は、昼までには出ますまい」


「そなたに、風が読めるか」


「いえ。船頭の背が、そう申しております」


 久秀は答えなかった。


 答えずに扇子で膝を一度だけ打った。


 *


 湾を斜めに渡って、堺の湊が見えてくると、匂いが変わった。


 魚である。それに潮と、荷から零れた米糠こめぬかの匂いが混じる。


 舟を下りて町へ入ると、暑さの質までが変わった。水の上の暑さは重かったが、町のそれは埃を含んでいて、喉に来る。


 道は広い。溝が掘ってあって水が流れている。


 戦の匂いがまるでしなかった。


 堺は、そういう町である。


 天王寺屋の店は、大小路おおしょうじの南に、間口ばかり長く構えていた。


 *


 帳場は薄暗く、香の匂いがした。


 天王寺屋宗達は、帳場格子の内で反故紙ほごがみを繰っていた。


 三十七、八であろう。痩せてもいず太ってもいず、日に焼けていない。目だけがよく動く。


 顔を上げて久秀を見た。


 見て、少し困った顔をした。


「……ああ、これは。あの」


「松永にござる」


「あ、へえ。……あの、去年、鉛の駄でお越しになりました」


 久秀は、わずかに間を置いた。


 ――鉛。


 銅に混ぜるために堺で買い集めさせた、あの鉛のことか。荷主の名は軽い者に割ってあるが、どうやらこの男の帳には残っているらしい。


「……いかにも」


「へえ。鉛の。ほな、こちらへ」


 奥から番頭が出てきた。


 清六という。五十がらみで、背が低く、袖をたすきで括っている。座るなり久秀の草鞋の傷み具合を一度だけ見た。


 用件を言った。


 米、干飯ほしいい、味噌、馬の飼葉かいば。数を挙げると、清六は指を一本立てて止めた。


「その数は、ございます。ただ」


「ただ」


「揃いますのが、月の半ばでおますな」


「十日で要る」


「十日」


 清六は袖の中で腕を組んだ。


「……できませんことも、ございませんが」


 久秀は、材料を出した。


 去年からこちら堺で買うている銅と鉛の額を挙げ、月ごとに増えていることを挙げ、これから先も増えることを挙げた。そのうえで、荷を三家に割らず一本にまとめれば手間が減る、減った手間のぶんを値から引け、と言った。


 理は立っている。


 立っているはずであった。


 宗達が帳場格子の内から口を挟んだ。


「……一本に、まとめはりますか」


「さよう」


「そら、去年の肩衝かたつきと同じですわ」


 久秀は、宗達を見た。


「肩衝」


「へえ。袋を三つ持っとりましたのを、一つにまとめて売れ、と言われましたんですわ。まとめましたら、そら、安うなりました。安うなりましたけど」


 宗達の喉が鳴った。


「いひ、ひ」


 喉の奥で鳴るような、妙な笑いである。


「……袋が、二つ余りましてなあ」


 清六が咳払いを一つした。


 久秀は、扇子を膝の上で止めている。


 ――何の話をしておる。


「若旦那さん」


 清六が言った。


「お武家さまは、袋のお話をしに来られたのではございませんので」


「あ。へえ」


 宗達は素直に頷き、それでまた反故紙を繰りはじめた。


 久秀は、話を戻した。


 戻して、もう一度、値の筋を並べた。並べているあいだ、宗達は帳場格子の内で紙を繰っている。聞いていないのかと思うと、そうでもない。数のところだけ目が上がる。


 三度目に数を言ったとき、宗達が言った。


「米五十石」


「さよう」


「ああ、あれですわ。おととし、堺の袋屋が持っとりました善好の写しの、三つ分」


「いひ、ひ」


 清六が咳払いを二つした。


 *


 久秀は、そこで一度扇子を閉じた。


 閉じて、話の向きを変えた。


 ――この男に、理は通らぬ。


 通らぬのではない。この男は、理の乗る台の上に初めから立っていない。値の筋をどれほど積み上げても、積み上げた先にこの男は器を置く。置かれてしまえば、こちらの筋はどこへも着かないのである。


 二月前、都賀荘の蔵の前で、久秀は取り立てられる側の男たちを見ている。あの者どもは筋を返してきた。返してくるということは、同じ台に乗っているということであった。


 ここには、台がない。


「――日を、買う」


 久秀は言った。


 清六の目が動いた。


「十日で揃えよ。上乗せは、こちらが持つ」


「……よろしゅうございますので」


「よい」


「……あとひとつ、よろしゅうございますか」


 清六が言った。


「一庫のあたりは、水が悪いそうでおます」


 久秀は、筆を止めた。


「……なにゆえ、行き先が分かる」


「米と干飯と味噌を、十日で、と申されましたら。……いまの畿内で、そないな急ぎのご入用は、ひとつしかございませんやろ」


 清六は、悪びれもしない。


「水の樽を、お付けしまひょ。あちらの谷の水は、夏に腹を下すと申しますよってに」


 久秀は、少し考えた。


 数千の人と馬が、ひと月そこに居る。井戸の数と、湧きの多寡と、上流に何があるか。それを算えずに囲めば、囲んだこちらが先に痩せる。


 ――兵は、矢よりも水で死ぬ。


「付けよ」


「へえ。おおきに」


 清六は算えた。指ではなく、口の中で算えた。しばらくして、額を言った。


 久秀は、それを聞いた。


 聞いて、顔を動かさなかった。


 締めて、三百貫。


 ――己の一年の手取りより、なお多い。


 無論、己の銭ではない。三好の蔵から出る銭である。だが越水の蔵は、これで秋の刈り入れまで薄い。薄いあいだに何が起こるかは、誰にも分からぬ。


 半日で、決めた。


「荷は」


「三家別々に積ませていただきます。まとめますと、蔵が回りませんよって」


 まとめれば安い、と言うたのはこちらである。まとめられぬ、と返してきたのは向こうである。そして値は、下がらなかった。


 久秀は、それも書き留めた。


 清六が、はじめて笑った。


「――ご心配なさりますな。堺は、荷は遅れませんので」


「ほう」


「戦は、門の外でしてもらいますよってに。……門の内は、商いだけでおます」


 *


 書き終えて、矢立を仕舞いかけたときである。


 帳場格子の内から宗達が身を乗り出した。


「松永さま」


「何か」


「今日はな、これから寄合がおますねん」


「……寄合」


「茶にござります。もう、皆さん来てはりますねん。どうぞ」


 久秀は、答えなかった。


 答える前に、頭のほうが動いていた。


 堺で兵糧を押さえ、その足で母のところへ寄り、暮れまでに越水へ戻る。朝の算段はそうであった。舟が遅れたぶんで、もう一刻は削れている。ここで茶に座れば、二刻は消える。


 断ればよい。


 断ればよいのである。


「……相伴つかまつる」


 言ってから、久秀は己の声を聞いたような気がした。


 宗達が嬉しそうに立ち上がった。


「へえ。今日はな、床にええのが掛かっとりますねん」


 土間で、朔が待っている。


 久秀は、そちらを見た。


「そなたも来い」


「……私が、でございますか」


「荷の目利きじゃ、と申しておけばよい」


 朔は少し黙って、それから頭を下げた。


 外はまだ曇っている。


 風は、出ていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ