第19話(一)「名物と一輪」
――話は、少し前へ戻る。
天文十年(一五四一年)葉月(八月)二日である。
西宮の浜から舟を出させた。
風がない。
帆は垂れたきりで、水の面は油を流したように動かなかった。艫の櫓の音が、間を置いて一つずつ聞こえてくる。
曇っているのに暑い。日が出ておらぬぶん、熱が水の上に溜まっている。
「……えらい凪ぎでおますな」
船頭が一度だけそう言い、それきり黙って漕いだ。
久秀は舷に背をあずけて座っている。
懐に紙が一枚あった。京から来た紙で、一庫の塩川を囲め、と書いてある。日は十二日。
――十日。
指を折りかけて、やめた。折らずとも分かっている。
堺で兵糧を押さえ、その足で母のところへ寄り、暮れまでに越水へ戻る。そういう算段で朝のうちに出た。その算段が、いま、櫓の音の遅さのぶんだけ削れていく。
朔は舳のほうに座って、水を見ていた。
堺で利吉に会う用がある。銅の売り口の始末で、こちらの荷とは別の話である。ついでの同道であった。
久秀は、その背を見るともなく見ている。
西宮の帳が頭を離れない。
荒銅も鉛も月ごとに増えている。増えて、蔵に積まれて、そこから先へ動かない。銅に混じった銀を鉛に吸わせるところまでは成った。吸うた鉛から銀を取り出すには、灰の皿の上で焼く。その灰が、いけないのである。
佐介の帳には銀の目方を書く欄がある。
その欄が、まだ白いままであった。
――何かが、詰まっておる。
明日、己の目で見に行くつもりであった。
訊けば済むことではある。舳に座っている小僧に、灰はどうすればよいと訊けば、たぶん何か言うであろう。
だが、訊いてはぐらかされたら、二度は訊けぬ。
この男は、材料のないうちに口を開かない。
「……松永さま」
朔が振り返らずに言った。
「風は、昼までには出ますまい」
「そなたに、風が読めるか」
「いえ。船頭の背が、そう申しております」
久秀は答えなかった。
答えずに扇子で膝を一度だけ打った。
*
湾を斜めに渡って、堺の湊が見えてくると、匂いが変わった。
魚である。それに潮と、荷から零れた米糠の匂いが混じる。
舟を下りて町へ入ると、暑さの質までが変わった。水の上の暑さは重かったが、町のそれは埃を含んでいて、喉に来る。
道は広い。溝が掘ってあって水が流れている。
戦の匂いがまるでしなかった。
堺は、そういう町である。
天王寺屋の店は、大小路の南に、間口ばかり長く構えていた。
*
帳場は薄暗く、香の匂いがした。
天王寺屋宗達は、帳場格子の内で反故紙を繰っていた。
三十七、八であろう。痩せてもいず太ってもいず、日に焼けていない。目だけがよく動く。
顔を上げて久秀を見た。
見て、少し困った顔をした。
「……ああ、これは。あの」
「松永にござる」
「あ、へえ。……あの、去年、鉛の駄でお越しになりました」
久秀は、わずかに間を置いた。
――鉛。
銅に混ぜるために堺で買い集めさせた、あの鉛のことか。荷主の名は軽い者に割ってあるが、どうやらこの男の帳には残っているらしい。
「……いかにも」
「へえ。鉛の。ほな、こちらへ」
奥から番頭が出てきた。
清六という。五十がらみで、背が低く、袖を襷で括っている。座るなり久秀の草鞋の傷み具合を一度だけ見た。
用件を言った。
米、干飯、味噌、馬の飼葉。数を挙げると、清六は指を一本立てて止めた。
「その数は、ございます。ただ」
「ただ」
「揃いますのが、月の半ばでおますな」
「十日で要る」
「十日」
清六は袖の中で腕を組んだ。
「……できませんことも、ございませんが」
久秀は、材料を出した。
去年からこちら堺で買うている銅と鉛の額を挙げ、月ごとに増えていることを挙げ、これから先も増えることを挙げた。そのうえで、荷を三家に割らず一本にまとめれば手間が減る、減った手間のぶんを値から引け、と言った。
理は立っている。
立っているはずであった。
宗達が帳場格子の内から口を挟んだ。
「……一本に、まとめはりますか」
「さよう」
「そら、去年の肩衝と同じですわ」
久秀は、宗達を見た。
「肩衝」
「へえ。袋を三つ持っとりましたのを、一つにまとめて売れ、と言われましたんですわ。まとめましたら、そら、安うなりました。安うなりましたけど」
宗達の喉が鳴った。
「いひ、ひ」
喉の奥で鳴るような、妙な笑いである。
「……袋が、二つ余りましてなあ」
清六が咳払いを一つした。
久秀は、扇子を膝の上で止めている。
――何の話をしておる。
「若旦那さん」
清六が言った。
「お武家さまは、袋のお話をしに来られたのではございませんので」
「あ。へえ」
宗達は素直に頷き、それでまた反故紙を繰りはじめた。
久秀は、話を戻した。
戻して、もう一度、値の筋を並べた。並べているあいだ、宗達は帳場格子の内で紙を繰っている。聞いていないのかと思うと、そうでもない。数のところだけ目が上がる。
三度目に数を言ったとき、宗達が言った。
「米五十石」
「さよう」
「ああ、あれですわ。おととし、堺の袋屋が持っとりました善好の写しの、三つ分」
「いひ、ひ」
清六が咳払いを二つした。
*
久秀は、そこで一度扇子を閉じた。
閉じて、話の向きを変えた。
――この男に、理は通らぬ。
通らぬのではない。この男は、理の乗る台の上に初めから立っていない。値の筋をどれほど積み上げても、積み上げた先にこの男は器を置く。置かれてしまえば、こちらの筋はどこへも着かないのである。
二月前、都賀荘の蔵の前で、久秀は取り立てられる側の男たちを見ている。あの者どもは筋を返してきた。返してくるということは、同じ台に乗っているということであった。
ここには、台がない。
「――日を、買う」
久秀は言った。
清六の目が動いた。
「十日で揃えよ。上乗せは、こちらが持つ」
「……よろしゅうございますので」
「よい」
「……あとひとつ、よろしゅうございますか」
清六が言った。
「一庫のあたりは、水が悪いそうでおます」
久秀は、筆を止めた。
「……なにゆえ、行き先が分かる」
「米と干飯と味噌を、十日で、と申されましたら。……いまの畿内で、そないな急ぎのご入用は、ひとつしかございませんやろ」
清六は、悪びれもしない。
「水の樽を、お付けしまひょ。あちらの谷の水は、夏に腹を下すと申しますよってに」
久秀は、少し考えた。
数千の人と馬が、ひと月そこに居る。井戸の数と、湧きの多寡と、上流に何があるか。それを算えずに囲めば、囲んだこちらが先に痩せる。
――兵は、矢よりも水で死ぬ。
「付けよ」
「へえ。おおきに」
清六は算えた。指ではなく、口の中で算えた。しばらくして、額を言った。
久秀は、それを聞いた。
聞いて、顔を動かさなかった。
締めて、三百貫。
――己の一年の手取りより、なお多い。
無論、己の銭ではない。三好の蔵から出る銭である。だが越水の蔵は、これで秋の刈り入れまで薄い。薄いあいだに何が起こるかは、誰にも分からぬ。
半日で、決めた。
「荷は」
「三家別々に積ませていただきます。まとめますと、蔵が回りませんよって」
まとめれば安い、と言うたのはこちらである。まとめられぬ、と返してきたのは向こうである。そして値は、下がらなかった。
久秀は、それも書き留めた。
清六が、はじめて笑った。
「――ご心配なさりますな。堺は、荷は遅れませんので」
「ほう」
「戦は、門の外でしてもらいますよってに。……門の内は、商いだけでおます」
*
書き終えて、矢立を仕舞いかけたときである。
帳場格子の内から宗達が身を乗り出した。
「松永さま」
「何か」
「今日はな、これから寄合がおますねん」
「……寄合」
「茶にござります。もう、皆さん来てはりますねん。どうぞ」
久秀は、答えなかった。
答える前に、頭のほうが動いていた。
堺で兵糧を押さえ、その足で母のところへ寄り、暮れまでに越水へ戻る。朝の算段はそうであった。舟が遅れたぶんで、もう一刻は削れている。ここで茶に座れば、二刻は消える。
断ればよい。
断ればよいのである。
「……相伴つかまつる」
言ってから、久秀は己の声を聞いたような気がした。
宗達が嬉しそうに立ち上がった。
「へえ。今日はな、床にええのが掛かっとりますねん」
土間で、朔が待っている。
久秀は、そちらを見た。
「そなたも来い」
「……私が、でございますか」
「荷の目利きじゃ、と申しておけばよい」
朔は少し黙って、それから頭を下げた。
外はまだ曇っている。
風は、出ていなかった。




